ガレージにいた黒い生き物の話 かなり強い雨が降っていた日の夜のことだった。
土砂降りの雨の中、濡れながらも帰ってきたその日の俺は、駐車場である共有ガレージの隅に、見慣れないものを目にした。
大型犬くらいの大きさがある、全身が黒にかなり近い藍色をした生き物。丸まってゆっくりと身体を上下させているところから、恐らくは眠っているのだろうと判断できる。
全体的に顔立ちは猫のようである。目元から耳と思われる部分の体毛は赤く、舞踏会のマスクのようだ。口の上は鳥の嘴のようになっており、鼻も鳥の形状に近い不思議な顔をしている。腕には畳まれているような皮膜があり、なにやら翼のような雰囲気を漂わせていた。やたらと長い尻尾は、滑らかな体毛が揃っているが、先端の方になると、どこか刺々しい印象をうけた。
風貌からして、まったく見たことがない。自分の知識不足なのだろうかと、その場でスマホを取り出した。
〈 腕に翼 尻尾にトゲ 〉
とりあえず、特徴になりそうなものを打ち込んで検索してみると、流石は文明の利器といったところか、画像の方で似たようなものが出てきた。
画像で見る限り、この黒い生き物は「ナルガクルガ」というらしい。「迅竜」だなんて大層な二つ名までついた生き物のようだった。今までそんな名前を聞いたことはなかったが、名前をつけられていることからして、やはり知られている生き物なのだろう。そのことに確信がもてたことに、少し安堵する。人が恐怖するものは、知らないということだからだろうか。
しかし、そんな安堵をした直後、俺は別の恐怖を感じることとなった。
名前が分かったということもあり、ナルガクルガで検索をかけた直後、俺の目に飛び込んできたのは、「モンスターハンター」という単語であった。モンスターハンターといえば、狩りをするゲームということを俺は知っている。そこに登場する生き物は、無論ゲームであるために全て作られた創作物。
……そう、創作物。
この世に、現実には存在しないということ。人の頭の中から作り出したのだから、それは当然のことである。
思わず、ゲームに出てくるナルガクルガと酷似した生き物に目を向ける。まさかとは思うが、そんなことが現実にありえるのだろうか。架空の生き物が、この世に存在しているなんてことが。
唐突に、目の前にいる生き物に得体の知れぬ恐怖を覚えた。関わってはいけないと、頭の中で何かが叫んでいる。触らぬ神に祟りなし。その声に賛成するように、俺はその生き物を中心に円を描くように迂回しつつ、家へと帰ろうとした。
──その時だった。
突然、黒い生き物──仮称的にナルガクルガと呼ぶことにする──がゴソゴソと身じろぎをし始め、気だるそうにムクリと起き上がった。欠伸をし、うんと犬のように伸びをすると、少し辺りを見回そうとし、俺のことを見つけた。すると、姿勢を低くしてグルルと低く唸り、尻尾をビタンビタンと床に叩きつけ始めた。完全なる威嚇行為。襲われるのではという恐怖を覚え、俺の体はその場に固定させられたかのように動かなかった。
外の雨の音が響く中、俺とナルガクルガは見つめ合う。それが何秒たったのか、はたまた分単位だったのかも分からない。
「…………」
俺が害意を加えてこないと分かったからだろう。ナルガクルガは面倒そうな顔をしてその場にとすんと座り込むと、後ろ脚で耳を掻き始めた。どうやら、俺を襲う気は無くなったらしい。俺は安堵の溜息を零して、その場からゆっくりと離れていく。階段まで辿りつき、俺はナルガクルガから視線をそらさずにずっと後ろ向きで上に上がる。丁度ナルガクルガが見えなくなった1階と2階の踊り場で気が緩んだようにヘタレこんだ。
知っている野生動物相手でさえ怖いというのに、なおかつ得体もしれない生き物となると、精神に中々にくるものがあった。生まれてこの方感じたことの無い恐怖で胸はいっぱいである。俺は気持ちを落ち着けつつも立ち上がり、早いところ家の中に入ろうと階段を上る。ナルガクルガが見えなくなった俺は、その時まだまったく気づいていなかった。
──先程のナルガクルガが、そんな俺のことを気にするように眺めて、ゆったりと身体を持ち上げたことに。
2階に上がった俺は、1番端っこにある自分の部屋へとよろめきながら歩いていく。今日は他でも疲れることはあったが、先のことが1番疲れた。さっさと風呂に入ってすぐに寝ようと考えながら、ガチャリと鍵を開ける。大きくため息をつきながら扉を開け、やっとのことで家に着いたと思ったその時だった。いきなり、流星のような赤い閃光を残しながら、黒い風のようなものが俺の体にぶつかり、俺の家へと吸い込まれるように侵入した。思わぬ奇襲に、俺の体は黒い風のタックルに耐えきれずその場で尻もちをついてしまう。なんだと思ってすぐさま立ち上がり、急いで玄関の明かりをつける。すると、玄関からリビングへとつながる廊下に、先程のナルガクルガが尻尾をゆらゆらさせながら佇んでいた。ナルガクルガは我が物顔でその場に座り、くぁっと鋭い牙の並ぶ口を大きく開ける。あまりのことに、玄関前にいる俺が呆然としていると、ナルガクルガは文句でもあるかと言わんばかりにふんと鼻を鳴らす。そのあと、踵を返して俺よりも先にリビングへと入っていった。
「……えぇ?」
頭の中で状況を整理するのに酷く時間がかかった。先程の下にいたナルガクルガが、何故か俺の家へと強引に入り込み、まるで家の主人かのように、本来の主人を差し置いて入った。とりあえず状況は整理できたが、今度は理解が及ばない。
しかし、考えても答えが見つかる気がせず、もう仕方ないかと半ば諦めて俺も家の中に入る。
リビングに入ってみると、ナルガクルガが珍しそうに部屋の中の匂いをすんすんと嗅ぎまわっている最中だった。得体の知れない生き物を追い出すほどの気概は俺にはなく、このナルガクルガの思うようにさせる他なかった。
しばらくして、ひとしきりやって満足したのか、ナルガクルガは猫のように前脚を舐めて顔を洗うと、俺の万年床に陣取って丸くなってしまった。
「……あの、そこを陣取られるととても困るのですが、別の場所に移動してはいただけませんでしょうか」
意味もないと思うが、営業相手を相手するかのように、至極丁寧に俺の意志を伝えてみる。これで伝わったら良いが。
「……フン」
直談判虚しく、話をしている時は面倒そうにこちらを見て聞いてくれていたナルガクルガだったが、話し終わると興味を失ったかのように布団に顔を埋めてしまった。動く気の無さそうなナルガクルガにため息をつきつつ、俺は押し入れからほとんど使ってこなかった布団と掛け布団を引っ張り出し、空いている床に敷く。
ひとまず、ナルガクルガのことは置いておき、俺は風呂に入る準備のために風呂場へと向かう。元々予約で追い炊きをしていたため、そろそろ丁度良い温度になっている頃合いだろう。
若干濡れてしまっている上着を脱ぎ、洗濯カゴの中へと入れる。そのあと、下着を脱ごうとしていた時に、どういうわけかあのナルガクルガがノコノコと入ってきた。先程まで布団で丸まっていたというのに、一体どうしたというのか。
下着を脱ぎ、準備もできたので風呂場の扉を開ける。その直後、俺の体と壁の合間を縫って、ナルガクルガが俺よりも先に入っていった。
「……なんで入ったんだ」
聞いてみるも、座って後脚で耳を掻き、まるで聞こえなかったかのように無反応。ホントになんだコイツはと思いつつも、俺は風呂場へと入った。
元々狭っ苦しい風呂場が、ナルガクルガのせいでさらに狭っ苦しくなっている。ナルガクルガが何をしたいかは分からないため、俺は好きにさせておくことにした。プラスチックでできた桶を手に取り、湯気が出て暖かそうな浴槽からお湯をすくうと、少ししゃがみ、足から順々に上へとお湯をかけていく。いきなり肩あたりからバシャンとかけると、体が驚いてあまり良くないと聞くため、俺はいつもそのようにしているのだ。
「……ビャオッ!」
そうやって体にお湯をかけた時に、ナルガクルガにもかかったのだろうか。驚いたような声を上げて、ナルガクルガが飛び跳ねた。その動きに、俺もビクッと驚く。
ナルガクルガはお湯を当てられたことに怒っているのか、低い唸り声をたてて床をバンバンと尻尾で叩いていた。こんな狭いところにいればそりゃあもちろん当たるだろうと思う。だが、それが原因で裸の俺に攻撃でもされたらひとたまりもないため、伝わるかは分からないが一応謝っておく。その雰囲気で伝わったのか、ナルガクルガは渋々といった様子で大人しくなった。それを見つつ、俺は浴槽の中に入り、肩までゆっくり浸かった。思わず口からふぅっとため息のようなものが出ていく。気持ちよくて、このまま眠ってしまいそうである。そんな俺を尻目に、ナルガクルガは浴槽のお湯に興味でもあるのか、縁に片方の前脚をかけ、もう片方の前脚でちょんちょんとお湯を触る。試しに俺はシャワーホースを手に取り、蛇口を捻ってお湯を出し始めた。すると、ナルガクルガはそれも興味があるようで、出てきたお湯を前脚で触り始める。さっきよりかは、お湯に対しての警戒心は薄れているのか、少しくらいかけただけでは暴れるようなことはしなかった。
出てくるお湯に無駄な猫パンチらしきものをしていると、お湯で遊ぶことに満足したのだろうか。ナルガクルガはシャワーホースから出るお湯から視線を逸らし、俺の入っている浴槽を見る。入りたいのだろうかと思っていると、ナルガクルガは浴槽の縁に後脚をかけ、完全に入る体勢へと移行していた。ただ、うまく脚がかからないようで、チャキチャキと爪の当たる音がするばかりである。入りたいのなら、と俺は立ち上がり、ナルガクルガの横っ腹をそっと両手で掴んで持ち上げてみた。この時初めてナルガクルガに触れたのだが、まず驚いたのは、柔らかな体毛の下に包まれた、華奢ながらもほどよく引き締まった滑らかな筋肉だった。その筋肉のせいか、華奢な身体の割には中々に重かった。抱っこされたナルガクルガは、暴れることもなく俺のなすがまま。抵抗されないことは有難いことである。長く垂れ下がる尻尾からゆっくりと湯船の中に入れていき、俺も腰を下げていく。
「……くふぅ……」
完全に身体が浴槽の中に入ると、気持ち良いのか、ナルガクルガは目を細めて俺の体に体重を預けるように脱力していた。やることもない手を、ナルガクルガの身体にそわす。ナルガクルガの体毛は肌触りの良いサラサラ感があり、撫でているこちらも気持ちの良い印象を受けた。犬や猫と似ているがどこか違う、とても不思議な感覚だった。
それはそれで良いのだが、ナルガクルガを抱っこする形で入っているため、家の浴槽では少々手狭に感じる。ナルガクルガが少し動くと、腕についている刃のようなものが地肌に当たり、中々に危ない。それならばと、俺はナルガクルガを浴槽の中に置いておき、自分の頭と体を洗うことにした。
体を洗おうとすると、ナルガクルガが俺の事をジッと見つめてくる。その視線を受けていると、なんだか気恥ずかしくなってくる。別に相手はただのケモノなのだから、そんな感情を抱くこともないとは思うのだが。
頭と体も洗い、洗い終わったあとにまた手狭な浴槽に少し入り、しばらくしてからナルガクルガと一緒に風呂からあがった。俺がタオルで水気を拭い、パジャマを来ている間、ナルガクルガは犬のように身体を震わせて水気を飛ばす。それでも、体毛に包まれたナルガクルガはそんな簡単に乾かないわけで。
俺は自分の体を拭いたタオルでナルガクルガを荒くわしゃわしゃと拭いてやる。この意味が分かっているのか、ナルガクルガは大人しくされるがままにされていた。拭いただけではあまりに不格好なため、慣れない手つきでドライヤーもしてみる。ドライヤーの温風が気持ち良いのか、浴槽にいた時のように目を細めていた。
「……これで良いか」
ある程度人間用のクシで体毛をセットしてやると、ナルガクルガは首を捻って自分の身体を見る。その表情から何を思っているか判別がつかないが、尻尾は機嫌良さそうにゆらゆらと揺れていた。
俺がリビングに向かうと、ナルガクルガも後ろからちょこちょこと付いてくる。その様子はどこか飼い主についてくる動物を思わせて、少し可愛らしく思えた。
俺は明かりを消し、ナルガクルガに占拠されていた布団には向かわず、あとでひいた布団の中に入ろうとする。しかし、その前にナルガクルガがサッと中に入り込み、ひょこっと爛々と光る目を覗かせて枕を叩いた。
「……お前、あっちが気に入ったんじゃないのか」
そう言ってみるも、欠伸を返されるばかり。俺はため息をつきつつ、最初にナルガクルガに占拠されていた布団へと入ろうと──
「シャウッ」
──したのだが、またもやナルガクルガが先に入ってしまった。何がしたいのかさっぱりである。そうして逆の布団に行くとまた先に入られ、その逆にいくとまたまた入られを繰り返すこと数回。そこまでやって、なんとなくこのナルガクルガがしたいことがわかったような気がした。
俺はしゃがみ、ナルガクルガの入っている布団の中へと潜り込む。そうすると、ナルガクルガは仰向けになっている俺の上に乗っかり、低く、しかし威嚇のような声ではない喉を鳴らすような声を上げて抱きついてきた。身体を擦り付けてくるところからして、恐らく俺の予想は当たっているのだろう。
「……添い寝したいなんて、変わってるな、お前」
今日、ほんのついさっき会ったばかりだというのに、随分慣れているものである。猫に舐められたようなザラザラ感を首元に感じつつ、ナルガクルガの頭を撫でてやった。
──どうやら俺は、このよく分からない生き物に随分と懐かれたようである。これからどうすれば良いのか分からないが、それはおいおい考えていくとしよう。正直疲れたから、そんなことを考えるほど今の俺には余力がない。
久方ぶりに感じる別の生き物の温もりを感じながら、俺はゆっくりと、目を閉じていった。