いつもの幼少期捏造「カイザー、もう終わりにしようよ」
足を触りながら屈んだ姿勢のまま声をかけてきたネスをちらりと見て、カイザーは首を横に振った。カイザーの視線の先にあるゴールの中にも、外にも、サッカーボールが転がっていた。
「お前だけ帰れば」
素っ気なく返した声が存外拗ねたようにうわずってしまい、カイザーはさらに機嫌悪く鼻を鳴らした。
上手く決まらない。思い描いたゴールには、まだ程遠い。
入ればいいというものではない、ノルマの分だけゴールネットを揺らせばそれでいいというわけでもない。もっと早く、もっと強く、コースを厳しく、相手に寄せられるより前に。そう思えば思うほど、足の振りだけがスピードを増してボールはあらぬ方向へ飛んでいった。
カイザーの声に肩を竦めて、疲れたー、と言いながらネスは隣に座り込んだ。
「なんだよ、帰ればいいだろ」
「僕、怖くて一人じゃ帰れないもん」
膝をかかえて、地面と膝裏の間でボールを転がす。良い子はもうとうの昔に家に着いている時間だった。今日は全体練習が早く終わったから、と言って自主練をしていた数名も、カイザーとネスを残して帰ってしまった。
練習場が完全に閉められてしまうまで、もう一時間しか残っていない。居座り続けても怒られてしまうし、空はどんどん暗くなっていく。とてもじゃないけれど、ネスは本当に一人で家まで帰ることの出来る自信がなかった。
ネスが地面に落書きをしている間にも、カイザーは二回、足を振り抜いた。一本はゴール右下へ曲がり、ポストに当たって外へ飛んで行った。もう一本はゴールを大きく超えて、向こう側のフェンスにぶつかって地面へ落ちた。
「…………チッ」
苛立ちを隠すことなく舌打ちするカイザーに、ネスはちらりと視線を向ける。名前を呼んだら、怒られてしまうだろうと思って、口を開けなかった。
カイザーとネスはまだ歳の数がようやく片手で足りなくなってきたくらいだったけれど、既に何人もの同級生や上級者たちがカイザーの前で泣きわめくのを見ていた。
そのたびに、こんなものか、とカイザーは冷めた心地で視線を外した。その泣きわめいた誰もが、カイザーよりも長く自主練習をすることはなかった。
「カイザー」
「うるさい」
ネスがぼうっと考え込んでいる間に、カイザーは向こうからボールをいくつか持ってきて、それらをまた蹴りこんでいた。
これじゃあただのオーバーワークだとカイザーも分かっていたが、ただがむしゃらにやることで、どこか自分が救われた心地になっていたのも確かだった。今やめてしまうと、負けてしまったようだから、諦めてしまったようだから、それが納得いかなかった。
それが無駄だと分かっていても、まだ幼いカイザーにはそれを諦めるだけの冷静さと余裕はなかった。そしてネスも、それを止めるだけの言葉を持ち合わせていなかった。
「僕、ボール取ってくるね」
カイザーが蹴った分を、先程まで自分の座っていた方へ掻き出す。ころころとゆっくり転がっていくボールが初めて目的地にたどり着いたころには、カイザーの足元からボールは消えていた。
ネスがボールをいくつか蹴りながら歩いていく。地面を見つめたままじっとしているカイザーが、靴裏で草の根元をすり潰した。
ボールを適当に集めてから、ネスはカイザーの前に立って、無言でぎゅうと抱きしめた。そのままカイザーの肩に額をつけて、そっと目を閉じる。
「カイザー、僕、何も見てないよ」
「…………そうかよ」
「うん」
無言だった。
秋を思わせる乾いた風が、カイザーの少し伸びた髪を揺らしていった。カイザーのほてった背中に手のひらをつけて、引き締まった腰を抱き寄せる。ネスの方が慰めてもらうような体制で、カイザーを待った。
「…………っ」
喉の奥から絞り出された声が、ネスの耳元で響く。カイザーの指がネスの肩を掴んで、耐えるように足が僅かに地面を滑る。
力の抜けたようにネスの背中を滑っていった手が止まると、ぎゅうと服が掴まれる。それを合図に少しだけ顔を上げて、自分と変わらない位置にあるカイザーの頭を抱いた。
素直に肩へ倒れたカイザーの頭から手を離して、濡れていく肩に知らないふりをしながら、ネスは地面にころがったボールを数えた。
悔しそうに漏れるカイザーの声を邪魔しないように、噛んでもいいよ、とネスがこぼすと、カイザーが泣きながら頭を叩いてくる。
バカを言うな、自分を大切にしろ、クソ。
そんな感じで。
「ネス」
「なあに、カイザー」
鼻水を吸い込む音がして、カイザーの頭がゆっくりと持ち上がった。視線は下がったまま、ネスのよれた服を丁寧に撫でてくれる。
「僕はカイザーを信じてるよ」
何も言わないカイザーの代わりに口を開くと、ん、と小さく相槌が返ってくる。正解だったらしい。
カイザーの目指す先にたどり着くには、まだこれから何十年とかかるだろう。ようやく形が見えてきたくらいの、カイザーの唯一無二の武器になるであろうシュートが、その第一歩だ。それでもその第一歩でさえも、幼い二人には遠い夢のように思えた。
「ネス、悪かった」
「今日一緒に帰ってくれるなら許してもいいよ」
「片付けてからな」
目元を擦って顔を上げたカイザーの瞳に、迷いはない。自分の可能性を自分と同じだけ信じて、誰もが「叶うといいね」と言うばかりで身を引くカイザーの理想へ向かって、一緒に走ってくれる。
信じていると言われていることが、時に重みになってしまうこともあるかもしれない。これから先、この言葉が、信頼が、関係が、自分を護ってくれる盾から自分を縛る枷に変わってしまうかもしれない。
それでも、今は二人で、夢を見ていたい。
俺を信じてくれるお前を信じてる。
言葉にはしないけれど、カイザーがネスの手を取って隣を歩ませるのにも、確かな信頼があった。
「わ、あと三十分しかない!」
「適当でいいだろ」
「怒られるよ」
「その時は二人で怒られようぜ」
いつか、互いの手を話さなければならない日が来ても、信頼だけでは立ち行かなる日が来たとしても、ネスはカイザーの数百、数千の失敗を忘れはしない。
失敗を幾度繰り返せども隣で自分を信じてくれた眩い光の存在を、カイザーが忘れることもない。
ボールの入ったカゴをしまって倉庫の鍵を閉めるネスを見ながら、流し損ねた涙をカイザーはそっと拭った。