「コーヒーここに置いておきますね」
「ああ」
穏やかな休日、心地の良い会話。まどろみを誘う日差しを横顔に受けながら、質のいいソファの奥に腰を沈ませる。
湯気を立てるコーヒーを受け入れているマグカップは、寮生だったころに買ったお揃いのもの。半同棲になってからもずっと使い続けているお気に入りだった。
他所のリーグは今日も張り切って試合をしているようで、リビングからは朝からずっと実況の伸びる大声とスタジアムの歓声とが交互に響き渡っていた。カイザーから見て左の一人がけの椅子に腰を下ろしたネスは、時折テレビに視線をくれるだけで、大半はスマホとにらめっこをしていた。
ハーフタイムにカイザーが話しかけると顔を上げてにこやかに会話に応じ、自分の分のコーヒーを用意しに席を立つ。ついでにカーテンを少しだけ閉めてもらって、カイザーは目を瞑った。
「この若手、イマイチですね」
「ああ、そいつな」
目を開かないまま頷くのと、ネスが机にスマホを伏せるのとは同時だったように思う。うっすらと目を開けてネスの方を盗み見ると、膝の上で手を組んで、じっとテレビを見つめていた。そんなに面白い試合でもないと思うが。
「でも、成長の見込みはありそうですよ。裏抜けのタイミングも悪くないし、ポストプレーも上手い」
「は?」
自分でも驚くくらい不機嫌な声が出た。カイザーは上体を起こして、興味を失いかけたテレビをネスと同じ姿勢で見つめる。
カウンターを狩りとった後方からのロングフィードを上手く足元に収め、一人背負った状態でサイドの上がる時間を待つ。空いたスペースへ流された適度な速度のボールは、右サイドハーフから勢いを増してアタッキングサードへ。トップ下の上手い誘導に紛れてペナルティエリア内へ侵入、ディフェンスの裏からクロスボールへ向かって飛び込み、叩きつけるようなヘディングで先制。
一連の流れに、カイザーはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「こいつが、というよりトップ下が上手いな」
「まあ、それもありますね」
「…………なんでそんなにこいつに肩入れする?」
コーヒーを机の奥へ追いやって、ネスの方へ鋭い視線を向ける。ネスはそれに気付かないふりをして、テレビを見つめたまま首を横に振った。
「別にそんなつもりは無いです、けど、なんとなく、僕みたいなポジションの人間からしたらパス出してみたいなーって思うような選手ですよ」
途切れ途切れに紡がれる言い訳に、カイザーは目を閉じてため息をひとつ。イライラする理由が自分にも分からない。分からないから、さらにウザイ。
妙に冷静なネスの声も、態度も、気に食わない。もちろんカイザーが一番だという前提であることくらい分かっているが、それでも、腹が立つ。
ネスのお眼鏡にかなった彼は後にスーパースターへとなっていく訳だが、この頃の二人には知る由もない。
「…………そうか」
どうにか絞り出した声が、地を這って足元に絡みつく。様々な感情を押し殺した上での返答の真意は、ネスには伝わらなかったらしい。
空になったマグカップを持ち上げて、ネスはおもむろに息を吐いた。そこで初めてテレビから視線を外して、不機嫌そうに眉をひそめてテレビを見つめるカイザーの顔を見た。
「機嫌悪いですか?」
「ああ」
「何か食べます?」
「ああ」
「………………食べない?」
「…………ああ」
雑な返答。面倒になってしまったらしい。
ネスは足元に横たわる嫌な空気を蹴って、重い腰をあげた。歩く度に、柔軟性のないシリコンのような空気が頬を撫でていくようで不快だった。心臓の奥の方が、息をすることを拒むような。
マグカップを洗って、乾燥機にひっくり返す。冷えた手をハンドタオルに擦り付けて、爪の端のホコリを取った。
「僕、明日の朝に出ていきますね」
「…………ああ」
聞いていたのかもわからない、例に漏れない雑な返事。
それから数秒して、カイザーは眉を上げてネスの方を振り向いた。
「なんて?」
まるでなんでもない、コーヒーを置いておくね、と言った時と変わらない声で告げられたそれに、カイザーの思考が追いつかなかった。元より、自分からネスが離れていくという考えが無かったことも原因の一つと言えるだろうが。
カイザーの問いかけに、ネスは微笑むばかりで答えようとはしなかった。
「ネス」
「はい」
キッチンに立ち尽くしたネスの肩を掴んだカイザーの顔には、明らかな怒りがあった。ネスは困ったように眉を下げて、真っ直ぐに見つめ返す。
「お前、今、なんて言った?」
「はい、と」
「ネス!」
屁理屈を遮るように叫んだカイザーの声に、ネスの鼓膜がキンと唸る。何を言わんとしているか、ネスにもよく分かっていた。
だからこそカイザーを抱きしめて、胸に手を当てて、優しく問いかけた。
「虚しくありません?」
「…………何がだ」
「僕たちの、この、生活が」
お互いにプロなのだし分かってくれるだろう、ネスだから、カイザーだから、これくらい言わなくてもいいだろう。こちらが我慢するならば相手もそうだろう。
そんな曖昧で適当な怠惰が振り積もったリビングは、呑気な日差しだけが鮮やかに見えた。少なくとも、ネスには。
夜を共にするたびに、好きだという気持ちが溢れた。笑い声を上げているうちに過ぎていく時間が、たまらなく幸せだった。
だけど同じくらい、虚しかった。
「お前、バカ?」
カイザーの直情的な感想に、ネスは目をパチリと瞬かせる。ネスがしたようにぎゅうと体を抱きしめて、カイザーはネスの頭を優しく撫でた。
カイザーからの好意に、ネスはいつも泣きそうになる。枯れ果てた地に、花でも草でもなく、急に大木が現れるような奇跡。
「なに、カイザー…………」
「幸福と不幸は交互に訪れるとか、幸せを感じた分だけ虚しさが襲ってくるとか、よくある話だろ」
背中に回ったカイザーの温かい手のひらが、ネスの氷った背骨を溶かしていく。
「そんな理由でくだらないこと言うな」
窘めるような口調でネスの肩に額を寄せるカイザーがまるで去ろうとする親鳥に必死で縋ろうとする雛のようで、ネスはただ、足を止めて腕を伸ばすしかなかった。
あっけなく崩されていった砂の城がネスの虚構であったことを思い知らされて、むき出しになった寂しさが喘ぎだす。
幸せだと感じる度に、その裏でいつか全てが壊れることを恐れ出す自分がいた。手のひらの中がいっぱいになるにつれて、零れてしまわないことを祈るばかりで、それらが次第に緊張へと変わっていった。
そのうちに麻痺した心は凪いで、簡単にさようならを言えてしまうようになる。乾いた口が潤うのを恐れるように、取り返しのつかない一歩を焦らせる。
「お前が俺の事を好きじゃなくなったら、そうしたら、その時にまたそのセリフは聞いてやる」
「そんな日、きっと来ないですよ」
僕に全部くれるんですか。
そう聞いたことと違いないネスの言葉に、カイザーは頷くでも首を横に振るでもなく、黙ったままネスの腰を引き寄せる。
「ごめんね、カイザー」
「ああ」
また、あの、雑な返事。だけれど今はそれが嬉しくて、ネスは一人で小さく笑ってカイザーの髪を梳く。
足元で揺蕩う重苦しい空気が鮮やかな蔦に変わっていくことにも気づかずに、あるいは気付かないふりをして、彼らはまた囚われていく。