ずっと側に「仕方ありませんね」
そう言う巳波の声は悠が想像していたよりも平坦だった。もっと嫌そうな声を出すかと思っていたのに。部屋にはセミダブルのベッド。男二人で寝るにはやや窮屈だろうと想像できた。
この日は二人だけで遠方での仕事だった。新幹線で今日中に帰る予定だったのに、悪天候により新幹線が止まってしまったのだ。スタッフが急遽宿を取ってくれたけれどセミダブルの部屋しか取れなかったのだと謝られた。
巳波はイヤーピースを着けて寝るんだと悠は知った。こんなことがなければ気が付かなかったかもしれない。今までも移動中などで仮眠を取るタイミングで見ていたかもしれないのに。気まずさを感じる。自分たちは同衾するような関係性じゃない。
「あらあら、そんなにカチコチにならないで……取って食べたりはしませんよ」
「緊張なんてしてない!」
近くにある体温に落ち着かない。巳波はもう寝たのだろうか。
気まずさから背を向けていたが、恐る恐る巳波の方を振り返った。巳波もみじろぎをしてこちらに寝返りを打った。起きているのかとびっくりしたけど、意外にも巳波の方からは静かな寝息が聞こえてきただけだった。目の前の巳波のまつ毛が自分に触れるのではないかと錯覚するくらいの、その距離の近さに悠は息を飲んだ。
そのとき、巳波の頬を一筋水滴が伝った。それが涙だとわかったのは少し間を置いてからだった。悠は呆気に取られてしまった。悠のことをいつも子ども扱いしていた巳波が泣いている。
なんだよ、巳波だって子どもじゃん。呆れにも安心にも似た感情だった。
何の夢を見ているのだろうか、涙を流したとき巳波の唇がかすかに動いた気がしたけれどよく聞き取れなかった。今度は段々と腹が立ってきてしまう。それが何故なのか今の悠には分からなかった。
意地を張っていた巳波をノースメイアに連れ出し、桜春樹に会わせることができた。
あの涙が誰を想って流れたものなのか、今の悠にならわかってしまう。実際に隣にいたのは悠の体温だというのに、巳波が誰を思い出していたのか。
初めて自分のソロ曲を作った巳波が誰を想って作ったのか。
桜春樹を見送ったあとでもまだ巳波は彼を好きなんだろうな。忘れられるはずもないんだろう。それは実際に桜春樹と話しているときの巳波を思い出すとそう思う。
「亥清さんそろそろおやすみしましょうか」
今日は巳波の部屋に泊まりに来ていた。巳波と悠が恋人になったのはつい最近のことだ。恋人らしいことはまだ特別していない。ただ巳波の悠への態度が以前よりもかなり軟化したくらいだ。以前は悠のわがままも冷たくあしらっていたのに今ではメンバーに揶揄われるくらい甘やかしてくれる。
「それ毎日やるの大変じゃない?」
悠は待ちくだびれだ様子で巳波のベッドの上にごろりと横になりながら言った。
「亥清さんもアイドルなんですからスキンケアにはお時間かけた方がいいですよ」
巳波は笑って悠の隣に腰掛ける。
「お若いからなにもしなくても綺麗ですけれど」
そう言って巳波は悠の頬に触れた。
「巳波もそんなに変わんないじゃん」
相変わらず子供扱いは変わらない。
「亥清さんってほんとに子ども体温ですよね、あったかい」
巳波はうっとりと笑う。以前のときとは違う、胸の高鳴りを悠は覚えていた。
巳波が誰を忘れられなくてもいい、今隣にいるのが自分であることが間違いないのだから。