AM2:34風呂上がりの長い髪をゆるくふたつに結い、ベビードールにガウンを羽織った夜着姿で計算ドリルを解いている。
この邸宅の持ち主である蒼悟はいま、この家にいない。多忙な身だからまた出張に出かけてしまい、帰ってくるまでに解いておくようにと渡されたいくつかの宿題のひとつがこのドリルだった。
生まれてから一度も学校というところに行ったことがない夏南を、蒼悟は案じている。蒼悟が悪いわけではないから、哀しくなってほしくないのに、彼はまるで自分の贖罪のように善くしてくれる。罪滅ぼしのひとつとして、夏南に勉強を教えてくれる。
父親と暮らしていたころは家庭教師をつけてもらっていた。しかし、その生活は中学生レベルの勉強を始める前に終わってしまった。蒼悟との生活のなかでやっと小学校高学年くらいの問題を解けるようになった、近頃の夏南だった。
窓の外で車の停まった音が、リビングにいる夏南に届く。小さな音だったが、夏南は聞き漏らさない。
(至祐……?)
今夜、この邸宅に泊まってくれる約束だ。
シャープペンを置き、ドリルを閉じて立ちあがる。素足で玄関に向かう──スリッパを履くように言われても、素足どころかほとんど素裸で暮らしていた時間も長かった夏南にとって、なにかを履くのは慣れないことだった。
夏南が鍵を開ける前に、至祐は合鍵で入ってきていて、ショートブーツを脱いでいる。
「至祐、おかえりなさいっ」
抱きつきたかったのに、至祐によって押しとどめられる。理由はすぐにわかる。サンローランのスーツにハイネックのインナーを合わせ、高価なネックレスを身につけた至祐は酒とシガーと香水と汗と精液の混ざりあった匂いを纏っている。
至祐は疲れた表情で、夏南に告げた。
「触るな、汚ねーだろ……」
「おつかれさまっ、至祐──」
間近で見つめる至祐は疲労を滲ませていても格好良かった。崩れかけの化粧と、乱れたヘアセット、それでも美しい。しばらく見つめていると、至祐も微笑った。
「おまえのこと……撫でてーけど、シャワー浴びてくる」
至祐は来慣れている邸宅の廊下を歩きだす。いくつかあるバスルームのうち、一階のバスルームに向かっているようだ。夏南は後ろをついていった。
「シャワー浴びたら俺を……なでなでして、ぎゅってしてくれる?」
「あぁ」
至祐は振り向かない。しかし、その返事の声色は微かに柔らかさを帯びている。
至祐のことを無愛想だとか、つんけんしていると言う人間は多いけれど、夏南にはどうしてなのかわからない。
「タオルとか用意するね。お着替えはどうするのー? バスローブいる?」
「蒼悟のTシャツを着る。下は俺のパンツがいい」
「はーいっ」
ここで暮らす夏南はバスタオルはもちろん、蒼悟や至祐の着替えがしまってある場所も知っている。それらを脱衣所に持っていくと、磨りガラスの向こうから聞こえるシャワーの音。夏南はほんの数秒だけガラスの向こうのぼんやりした至祐の影を眺めて、それからキッチンに赴いた。
(至祐、おなかすいてないのかな?)
大きな冷蔵庫を開けると、週に何度か来てくれる使用人による作り置きの食事がジップロックに入れられ、理路整然と冷凍・冷蔵されている。作り置きのメニューだけでなくさまざまな食材も詰まっていたが、料理のしかたを夏南は知らない。
(お客さまの夜ごはんのお相手もしたのかな?)
わからないので、とりあえずは至祐の風呂上がりを待とうと思った。夏南はリビングに置いたままのドリルや筆記用具を片づけにいく。
キッチンに戻り、スツールに座って素足をぶらぶらさせながらミルクティを味わっていると、髪を乾かし終えた至祐が歩いてくる。
至祐も素足で、蒼悟のTシャツに黒のボクサーパンツというラフな装い。185を超える背丈の蒼悟のシャツは、178センチの至祐には少しだけ大きかったが、あまり気にしていないようだ。
至祐はネックレスも、GPSの仕込まれたブレスレットも外し、ピアスも大振りで派手なものからシンプルなものに換えていた。
そんな姿を夏南はじーっと見つめる。
(あしながい……)
至祐は、夏南の髪を撫でてくれた。
「ありがとな」
「えー? なにが?」
「バスタオルとか」
「至祐はお仕事で疲れてるんだから、それくらいしてあげるのはあたりまえだよっ」
至祐は表情をゆるめて、夏南をぎゅっと抱きしめてくれる……バスルームに行く途中に話してくれたことをしてくれてるんだと気づいて、夏南はとてもうれしくなった。
食事制限やトレーニングによって筋肉を乗せつつも屈強になりすぎていない、引き締まった至祐の腕に心地よく包まれる。風呂上がりの至祐からは仕事を終えた高級男娼の匂いはしない。夏南とおなじボディーソープやシャンプーの香りがする。
「至祐、いいにおい、あったかいー」
至祐は抱擁をほどき、尋ねてきた。
「ハラ減ってねーのか」
夏南が聞きたかったのに、先にたずねられてしまう。夏南はあいまいに首を横に振る。
「えっとね、食べようと思ったら食べられるけど、ガマンしようと思ったらガマンできる」
「じゃあ一緒に食うか……俺が作る」
「わーいっ、至祐のごはん! じゃあ俺、おうどんがいい!」
こないだ泊まりに来てくれたときに、茹でてもらったうどんがとても美味しかった。しかし、夏南はすぐに自分の口許を押さえる。
「あっ、でも、至祐は夜中におうどんは、たんすいかぶつ?だし、ダメだよね……」
「そんなもん、明日運動すれば帳消しだ」
至祐は夏南から離れて、水を注いだ手鍋を火にかけてから、冷凍されたうどんの麺や、刻んだねぎの入ったジップロック、めんつゆなどをカウンターに並べる。それから戸棚を探って乾燥わかめや鰹節も見つけてきた。
至祐は手際がいいから、うどんを茹でているあいだ、サラダチキンといくつかの野菜で簡単なサラダも作ってくれる。
包丁を動かしたり、器を用意する至祐に尊敬のまなざしを向けていると、苦笑された。
「べつに大したことしてねーだろ……」
「たいしたことだよ! すごいよぅ、お料理できるなんてー…… 」
「カンタンなもんしか作れねぇし……どこで食う?」
「至祐はどこでたべたい?」
「俺はどこでも──」
ここで立って食ってもいい、とこぼれそうだった言葉を止めたのが、夏南にはわかってしまう。夏南にそんなことをさせられないと気づき、口をつぐんだのだ。
幼いころ、夏南と出逢ったときの至祐はすでにひとり暮らしだった。
性奴隷にされるため誘拐に遭うときまで、何年も孤独な生活をしていた。
信じられないと思う。そしてさみしい気持ちになる。夏南はふつうの子どもらしくは育ててはもらえなくて、苦しくて痛いこともたくさんあったけれど、ひとりぼっちで放置されることも、幼くして家事や身の回りのことすべてをしたり、自分でお金の管理までするなんてことはなかった。
「ダイニングテーブルでちゃんと食べよう? 運ぶのおてつだいするね」
夏南は出来上がったサラダや、よく冷えたルイボスティーのボトル、グラスや箸を隣接するダイニングの大理石のテーブルに運ぶ。ドレッシングを使うのは夏南だけで、至祐はいつも使わない。
出来上がったうどんは至祐が運んできてくれた。夏南によって向かい合わせに配膳されたテーブルを見て、たずねてくる。
「向かいあわせでいいのか? となりも好きだろ」
「! じゃあ、おとなりに座る!」
並んで食事するように配膳しなおして、隣同士に座って、夏南は手をあわせた。
「いただきまーすっ……」
サラダから先に食べる至祐の横で、夏南はうどんを食べはじめる。
「おいしいー!!」
「ふっ……よかった」
夏南を見て至祐は微笑む。もちろんサラダも美味しくて、夏南は感動しっぱなしだ。
食後、至祐は食洗機を使い、入浴時に洗濯乾燥機を回していたので衣類を取り出しにいく。そういう手際の良さも、カンタンにささっと料理できる姿とおなじく、夏南の心をすこしだけ切なくさせた。
洗濯機に放りこむわけにいかないスーツはアイロンのスチームをかけて整える。夏南はリビングでくつろぎながら、スーツの手入れをする至祐を眺めたり、プロジェクターをつけてなにを観ようか迷ったりした。
「至祐が眠いなら、もう寝てもいいんだよ?」
「いや、起きてる」
手入れしたスーツを風通しの良い場所にかけると、至祐は夏南の座っているソファに歩いてきた。腰を下ろすと抱きしめてきて、そのままずるずると倒れこんで押し倒してくるような形になる。
「おまえと1秒でも長く過ごしたいから……はやく寝るのがもったいねぇだろ。寝たらすぐに朝になって、俺はまた好きでもねぇヤツを接待しにいって犯されるんだ」
「お仕事させられるの、イヤ?」
至祐は首を横に振った。それから吸い寄せられるようにどちらからともなくキスをする。
唇を食みあうだけで済むわけがなく、舌先を擦りあわせ、軽く唾液を交換した。
こんなことをしているとすぐに熱を孕むおたがいの身体。夏南よりも、至祐のほうが熱かった。ベビードール越しに気づく、膨らんだボクサーパンツの感触。
心配そうに見つめていたのが伝わったのか、至祐は微笑む。
「ガマンできるから大丈夫だ」
「うん、至祐、大好きだよ」
夏南も笑顔を返して、キスをして、結局なにも映画を観ずにこうやって肌を寄せあい、体温を感じながら会話をして夜明けまで過ごしたのだった。