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「テッド、狩りに行くんだろう? 僕も連れて行ってくれないか」
「えっ? お前を?」
突拍子もないことを言い出すのは今に始まったことではなかったが、まさかそう言われるとは思わず、テッドはティアを指差し怪訝な表情を浮かべた。
「手助けはできないだろうけど、テッドが狩りをするところが見てみたいんだ。それに、狩りをするなら街の外に出るだろう? 僕、大きくなってからはまだ、この街から出たことないから……外を見てみたい」
ああ、成る程。
街の外に出てみたいという興味なら、ティアの提案にも合点がいく。
心身ともに鍛え上げられながらも、綺麗に整備された街から出してもらえない五将軍の嫡男は、遠出がしてみたいと何度かグレミオに言っていたことがある。
それは腕試しでもなく、今の生活から抜け出したいわけでもなく、単に興味があるからだ。
なんて贅沢な悩みだろう。不安など何もない生活をしているが故の悩みだ。しかし、それを貴族の怠慢だなどと詰る気は湧かなかった。
十年ほど前に勃発した皇帝の権力抗争に巻き込まれた際に、あろうことか幼いティアが誘拐され、人質に取られたことがあるらしい。酒に酔ったグレミオが頬の傷を指差し昔の話を零したことで知った事実だ。
過去にそう言った事件があるならば、テオが城塞のようなこの街で息子を守りたいと思ってしまうのも致し方がない。都市同盟への牽制のため北方へ派遣されているテオ・マクドールが、遠く離れた土地にいても息子の身を守るため、ティアに不自由を課すしかなかったのだろう。それがたとえ、同年代はおろか街の誰よりも棍使いとして上達した今でも変わらない。
「やめとけ。楽しいもんじゃない。息を殺して気配を殺して、ただひたすら獲物を待つだけだ。面白くもなんともないぞ」
「近くにいて話もできない。それはつまらないかもしれないけど、僕はテッドが普段どうやって狩りをしているか見てみたいんだ。お願い」
ならばテオの意図を汲もうとテッドは本心を伝えるが、今日に限ってはティアもなかなか折れない。
「お前なあ、なんで今日なんだよ。別に俺が狩りに行く時じゃなくてもいいだろ。それこそ、釣りに行くときに声かけりゃあいいし、何も用事がないときだったら二人で遊びに行くこともできるんだぞ。……グレミオさんに怒られるからやりたくないけど」
「……勘、かな」
「勘?」
「今日はテッドの傍にいたほうが良いって思った」
「んな、無茶苦茶な……」
口にしようとした言葉が途中で止まる。目の前にいるティアが、妙に真剣な目付きでこちらを見ていたからだった。
なんだかんだ言って、マクドール家の従者達はティアに対して甘い一面がある。まるで末っ子を相手しているような扱いに、五将軍の家がこんな雰囲気でいいのかと当時は思ったものだったが。
「……ったく、しょうがねえなあ」
途方もなく長い人生の中の、一瞬にも思えるたった数年の生活で、己の価値観が塗り替えられた。
面倒事は御免だと思う気持ちは変わらないのに、話を聞いてやろうと言う気にさせる。
途端に表情が明るくなったティアに、せめて武器とおくすりは持ってこいとテッドは言った。
何かがあれば、俺が守ってやればいい。
それが驕りであることにこの時は全く気が付くことはなく。
赤月帝国によってある程度整備されているのか、グレッグミンスター周辺の野山は比較的穏やかな土地である。凶暴性の高いモンスターは現れないところも、テッドが生活するには勝手が良かった。
全てを己の手で賄わねばならない過去の生活とは違う。住むところはマクドール家が提供してくれ、食事に関しても屋敷に出向けばグレミオがたっぷりと用意してくれる。食い扶持がなくなれば死活問題だった過去とは雲泥の差だ。
今は週に何回か外出しては獣を捕らえて路銀にしたり、獲物を沢山捕らえたときはマクドール家に土産として持ち寄ったりしている。旅立つ地盤を作るには贅沢すぎるほどの生活水準だった。
だからこうして、急ぐこともなくティアにゆっくりと狩りの作法を教えることができる。
獣の逃げ足は人間の足では到底適わない。
飛んでいる鳥に矢を当てるのは至難の業である。
基本的に狩りはひたすらに機会を伺い待つ。
近くに障害物がなく、勾配がない場所を目標とする。
テッドにとっては説明しなくても身をもって理解していることであっても、ひとつひとつ言葉に表した。ティアは、今は必要かも分からない知識が予想だにしない時に活用できることを知っている、そんな賢さを持っていた。ならば嫌と言うまで教えてやろうじゃないかと、テッドの天邪鬼な一面が疼いた。
獣が好む実を教えた。鳥類が好む実を教えた。少しでも人の匂いがつくと警戒されるから、果実を採取するときは手袋を使うことも合わせて伝えた。
障害物がない場所に果実を置き、テッドはある程度離れた草木が生い茂る場へと足を向けた。
「──で、こういう草場に隠れる。足下にある雑草を少し踏みならしてもいい。ちょっと青臭いけど、植物の香りは狩りには都合が良い」
躊躇いなく草陰に姿を埋めたテッドに倣って、ティアもまた同様にそこへと足を踏み入れた。その動きには一抹の迷いも感じられない。
根が武人とはいえ、貴族らしからぬティアの行動に驚かなくなって久しい。武術も教養も十二分に施されているはずのティアは素直な性格をしていた。テッドが接する機会のあった貴族達なら、服が汚れることを嫌がり何が潜んでいるかも分からない草木に身を埋めるなどしない。
「あとは言った通り、待つだけだ。なるべく布擦れもさせるな。自然の一部になったような感覚で、深く呼吸を繰り返しながら、あの果実に獣が近付くのを待つ。近付いてきても焦りは禁物だ。観察して、果実を食べ始めたら武器を構える。これ以降俺は話さないからな。ティアも静かに待ってろ」
テッドが説明を終えると、ティアは首を縦に振った。そしてそのまま果実の置かれた草原に顔を向けた。
意識は正面に向けながらも、テッドは真面目に果実を見詰めるティアの横顔を見た。
顔立ちは変わらないが、初めて会ったときよりも随分と身長が伸びた。まだ抜かされてはいないものの、あと半年もすればどうなるか分からない。この身が成長していないことは未だに気付かれてはいないが、ティアの身体が少年のものから青年のものへと変化していく過程で自ずと訝しむようになるだろう。そうなる前にここを出て行かなければならない。
生活を保障してくれたマクドール家のお陰で既にある程度の資金は貯まり、良質なものを食べていたからか健康面も申し分ない。穏やかな季節である赤月帝国領内はまさに今、発つには打って付けの気候だった。
──旅立つ準備など、とうの昔にできていた。
それでもこの土地を離れがたいのは、決して生活環境が良いからだけではない。
再度、テッドは横にいるティアを見た。相変わらずティアは生真面目に獣が囓るかもしれない果実を見続けている。
テッドは親友だとティアは言った。酸いも甘いも経験しながら今もなお笑って過ごすことができる間柄はとても貴重なものだ、とも。テッドも同様に、ティアを親友と呼べる存在だと思っている。ティアとの交流が楽しくて、この場を離れがたくなってしまうほどに。
貴族としての人付き合いがそうさせるのか、ティアは他人の感情の動きに聡い。テッドに、明け透けに話せない秘密があることをおそらく察している。それでも、それに触れようとはしない。それが、酷く心地良かった。
ちくりと針を刺すような痛みを感じ、テッドは右手に目を落とした。手袋と包帯に隠された紋章を見ることは適わない。それでもその布地の奥底で、ソウルイーターが笑っているのが感じ取れた。
この紋章を宿していなければ、ティアとともに過ごすことができた。
この紋章を宿していなければ、ティアと出会うことはできなかった。
相反する感情が綯い交ぜになっていく。
対象者の想いが強いほど、想いが深いほど、ソウルイーターにとってその魂は最高の馳走へと昇華されていく。だからこそ、この紋章はすぐに魂を掻っ攫うのではなく、接した人間に対してテッドがある程度の愛着を持つまで、息を殺し存在を消し、身を潜めている。油断をした隙に大切な人の魂を刈り取られたこともある。
テッドにとってティアの存在が大きくなっていくほど、右手に宿る強大な力は己を守る盾ではなく親しき人を害する牙になる。
ティアは既に、離れがたいほどの大切な存在になった。
それは、餌を与えてじっと獲物が来るのを待ち構えている今現在の状況に、酷く似ていた。
「………ッ!」
不意に太腿に触れた感触に、テッドは息を呑んだ。勢いよく振り向くと、ティアが声を発さずに彼方を指差している。
そこには、今まさに果実に齧り付こうとしている野兎がいた。
「テッド、何考えてたの?」
「何って?」
「眉間に皺を寄せてたから」
本日の獲物となった野兎は、テッドの矢にて仕留められた。狩りと同様に説明しながらその場で血抜きと下処理を済ませ、今はティアの持つ麻袋に入れられている。
軽くもないその獲物を難なく持ちながら、ティアはテッドの顔を覗き込むような仕草をした。
「いろいろなこと考えてた」
「色々?」
「今日のメシ何かなとか、グレミオさんにバレませんようにとか、こいつとずっと一緒にいたいな、とかさ」
「……僕もそう思ってるよ」
多少捻くれていたら嫌うことができるのに、言ったこちらが照れてしまうほどの言葉をティアは与えてくれる。
「そうだよな。ティアは食べ盛りだからな」
「そっちじゃない!」
小突いてくるティアの顔はテッドと同じく笑みが溢れている。
あと少し、あともう少しだけだから。
こうして言い訳を重ねて、テッドは今も尚、親友の隣に立っている。
ソウルイーターがティアを狙っていたのは獲物としてではなかったことにテッドが気付くのは、この半年後──涙のように枯れぬ雨が降りしきる夜のことであった。