いつかあなたの(ミス晶♂)二十一人いる賢者の魔法使いの中でも、ミスラはじぶんが賢者の〝特別〟に位置していると自負していた。そんなことをぽろりと零すものならば、ブラッドリーに鼻で笑われ、オーエンにバカじゃないのと吐き捨てられ、双子には肩を竦められるかもしれないが、これは決して単なる自惚れなどではない。
ミスラは荒くなった呼吸を整えながら、組み敷いていた晶の上から身を起こす。傷ひとつないきめ細かな肌にはじわりと汗が滲み、北の魔法使いの情欲を一身に受け止めた身体は少しの刺激でもびくりと痙攣した。美しい夜の湖面のような紫紺の瞳が、ミスラをいっぱいに映して揺れる。吸いつけられるように、ミスラはそっと顔を近づけて唇を落とした。
「きもちよかったです、晶」
ちゅ、と唇を食むようにして言葉を紡げば、そこには思ったよりもずいぶんと名残惜しいような声音が滲む。晶は、大きな瞳をぱちりと瞬かせたあとミスラを見つめながら「俺もです」と言って柔らかく笑った。ひとまわり小さな手をぎゅっと握り直して、ミスラは晶の隣に情事の跡もそのままに身体を横たえる。
「お風呂、入りに行きましょう」
晶が、ころりと寝返りをうちながらミスラに囁く。ミスラはちらりと晶の姿を一瞥した。彼の身体を、飽きることなく散々舐めてかじって、挙句の果てには腹の奥底に散々ミスラのものを放ってやった。きっと身を清めたいと思っているに違いない。
「多分、今は別の魔法使い達が使っていると思いますよ」
「えっ、と……」
「賢者様のそんなヤらしい姿、見せて大丈夫なんですか」
晶は、ミスラの言葉にみるみるうちに顔を赤く染めた。どう見ても、晶の身体に残る跡は事後の有様であるし、あまりにも濃い魔力の源は晶の身体に沁み込んでいる。魔力に敏い魔法使いたちは、ミスラと晶がセックスをしたのだとすぐに感づいてしまうだろう。
「もう少し、こうしていましょうよ」
「……でも」
「俺の匂いが染み付いたあなたと、くっついて眠りたいです」
ミスラは、それとなく晶の様子を伺う。ううう、と小さく唸るも、観念したように頷き、晶はミスラの腕の中に納まった。ぎゅっと抱きしめながら、すんと濃紺の髪に鼻先を埋める。二十一人の魔法使いに寵愛される賢者を、ひとりじめする優越感にミスラは密かに口角を持ち上げた。彼らはきっと、性的な気配など露ほども見せない清廉潔白な姿しか知らない。はしたなく足を開いて、欲情に濡れた声を上げ、ミスラの背に爪痕を残す彼の顔は自分だけが知っている。
「なんで笑ってるんです、ミスラ」
「いえ、別に。ただ、気分良いな、と思って」
不思議そうに首を傾げる晶に、たまらず頬に噛みついた。「ひゃあ!」と驚いて声を上げるのが面白くて、喉の奥で笑う。
「晶と一緒にたくさん運動しましたし、今夜は良く眠れそうです」
「……その言い方、何だかオジサンみたいです」
「はぁ? 俺をフィガロと一緒にしないでくださいよ」
むっとしながら、ふわりと訪れる眠気に瞼がすこし重くなる。おやすみなさい、ミスラ。柔らかな声音が鼓膜を揺らすのが心地良い。眠りの波に抗うことなく、ミスラはその身を揺蕩わせた。
***
賢者と初めてセックスをしたのはいつのことだったか、ミスラはもうはっきりと覚えていなかった。
厄災の奇妙な傷のせいで眠れないミスラと傷を癒す力を持つ晶が、同じベッドの上で両手では足りないくらいの夜を過ごしたある晩。祈るようにぎゅっと晶に手を握られてもいっこうに眠気は訪れず、身体の中を渦巻くムラムラとした感覚にミスラは眉間に深く皺を寄せた。こういう時は、同郷の魔法使い達やオズ相手に魔力を発散するに限る。魔法舎で暮らすうちに自然と強いられる手加減など一切せず、己の持ちうる力全てを使って殺りあえば、このムラムラは気づかぬうちに霧散して消えていくだろう。
それが、千年以上続けているミスラのやり方だった。
「……ということで、ムラムラするのでオズを襲ってきます」
きっぱりと断言したミスラに、隣で寝転がっていた晶が飛び起きて言った。眠たそうだった目を瞬かせ、その瞳いっぱいにミスラを映して。「俺に出来ることならなんでもしますから、ここにいて欲しいです!」そう言い募ってぐっと顔を近づけてくるものだから、ほとんど反射的にミスラはその小さな唇にかみつき、晶を押し倒していた。晶は、多分抵抗をしなかった。
「それじゃあ、あなたを抱いてもいいですか。賢者様」
衣擦れの音、おずおずと招くように開かれた白い足、跳ねる鼓動、そんな些細なことだけはぼんやりと脳裏を過ぎるのに、自分でも意外なほどに興奮していたミスラは、晶がどんな顔をしていたのかだけは、ちっとも思い出せない。それが、何となく、惜しいことをしたと、ミスラは思った。
「賢者さん、これちょっと味見してみてよ。はは、うまいだろ?」
「良い酒が入ったんだ。賢者、今夜は晩酌に付き合えよ」
「オズに新しい魔法を習ったんです。賢者様に見て欲しくって!」
談話室に置かれたアンティークソファにだらしなくもたれ消し炭を齧りながら、ぼんやりと少し離れた席にいる晶を眺めていた。入れ替わり立ち代わり現れる魔法使い達に声をかけられては、笑顔で言葉を交わしている。
「ほほほ、相変わらず賢者ちゃんは魔法使いにモテモテじゃのう」
席は他にも余っているのに、わざわざミスラの横に座ったのは、スノウだった。不快極まりない魔力に、口を真横に引き結ぶ。三日月のようににんまりと目を細めながら、物言いたげにミスラを見上げるスノウに、はぁ、と大きな溜め息をついた。
「何が言いたいんですか」
「あまり、賢者ちゃんにがっついて困らせるんじゃないぞ、ミスラちゃん」
「はぁ? 俺が、いつ賢者様を困らせたんですか。むしろ、いつも死にそうになる賢者様を助けてあげているのは俺の方ですけど」
「賢者の仕事に、ミスラちゃんの性欲処理は入ってないって言ってるの! 今日だって、グランヴェル城に召集された会議で、そりゃもう賢者ちゃんたら眠たそうにしてたんじゃ。可哀想に、必死に目を覚まそうと左手の甲を何度もつねったせいで、青痣になっておった」
「……賢者様は、別に仕事で俺とセックスしてるわけじゃないですけど」
「ならば、お主たちは恋人同士だとでもいうのか」
スノウは、大きく目を見開いて、愉快気にくつくつと笑った。その嘲笑の中に、そんなわけがないだろう、という長命で強大な力を持つ魔法使いの素直な一片が滲んでいる。
「身体を繋げることを咎めるつもりはないが、賢者ちゃんの負担になることのないよう、努々気をつけるように。彼は、とても優しい気質故、頼まれたらなかなか断ることが出来ぬようじゃ」
まるで全てを見透かしているかのようなスノウの言葉に、腹の底を素手で掴まれるような苛立ちが浮かぶ。手のひらにクリスタルスカルを浮かべ、呪文を唱えるために口を開いた。
「アルシ――」
「……ミスラ、ちょっといいですか?」
一触即発の空気に、いとも簡単に水を差したのは、今まさに話題の中心だった晶だった。スノウは、ぱっと立ち上がり、これ見よがしに晶の足元に抱き着いた。
「何かミスラにお願い事か? 賢者よ。我ならば、すぐにそなたの願いを叶えてあげられるぞ」
「ありがとうございます、スノウ。でも、今回はミスラにアルシムをお願いしたくて」
「ええ、そうなの? 困ったことがあれば、いつでも我に言うのじゃぞ」
スノウはにこりと笑って、するりと姿を消した。シンと静まりかえった談話室に残されたのは、ミスラと晶の二人きり。何となく居心地の悪さを感じたミスラは、右手でかりかりと首筋をかきながら、「それで?」とお願いごとの続きを促した。
「俺に、何を頼もうって言うんです」
「えぇっと、実は……」
ミスラの扉で訪れたのは、賑わいを見せる中央城下町のマーケットだった。
夕暮れ時ということもあり、露店が立ち並ぶ大通りはそれなりに賑わっていた。晶は、きょろきょろとしながらそれらを興味深げに眺めている。明日の任務で訪れる予定の南の国に、どうやら最近人間の友人が出来たらしい。せっかくなので手土産を持って行きたい、と遠慮がちに相談されたのだ。ミスラにとってみたら関係のない他人の為だなんて、面倒以外の何物でもなかったが、ここで自分が断れば、晶は他の魔法使いに頼みに行くに違いない。想像しただけで、何だか面白くない気持ちになって、結局は談話室から空間の扉をこの場所に繋げていた。
「まだ五歳くらいの子なんですけど、勉強も沢山頑張っていて。今度ご褒美を持って行くって約束したのに、すっかり用意を忘れていました」
「約束って、怖いな。あなた、結構うっかりものですし、魔法使いじゃなくて良かったですね」
「あはは、確かにそうですね」
別に面白いことを言ったつもりなどなかったのに、楽し気に声を上げて笑いながら、通りがかった洋菓子店の前で足を止めた。「あっ」と声を上げて、くい、とミスラの手を引く。
「ここです、カインがおすすめしてくれたお店」
「……はぁ」
「こんばんは」
店に入ると、甘ったるい香りが鼻先を擽る。クッキーやゼリービーンズといった色とりどりの菓子が、淡いグラデーションのガラス瓶に詰められて棚に整然と並んでいる。晶はきらきらと目を輝かせながら、店先に置いてあったカゴに次々と選んだ菓子を入れていく。
「あなた、どれだけ沢山買うつもりなんですか」
呆れて問いかければ、晶は照れたように笑いながら、「せっかくなので、魔法舎の皆にも」と言った。つまらないな、と思う。こうしてふたりで出かけていても、晶の頭の中にはいつだって自分以外にも二十人の魔法使いや他の人間たちでいっぱいなのだ。もやもや、むかむか、よく分からないものが腹の底に貯まる。晶といると、時折こういうことが起きる。
菓子を選ぶのに夢中の晶から視線を外し、そっと狭い店内を見渡した。親子で営んでいるようで、レジには母親らしき女と、その横にはリケやミチルよりも少し背丈の低い子どもが何やらそわそわした様子でこちらを見ている。ぱちりとミスラと目が合うと、怯えたように顔を伏せた。なかなか良い反応をする。ミスラは小さく口端を持ち上げた。
「すみません、お会計をお願いします」
カゴいっぱいに菓子を選んだ賢者が、レジに立つ店員に声を掛けた。手際良く会計を進める女の横で、子どもの視線がミスラと晶をいったりきたりしているのに目を止めた。
「……あの、もしかして……賢者さまと賢者の魔法使いさま、ですか」
「あ、こら!」
女は、ハッとして子どもを嗜める。晶は、少し驚いた様子で目を瞬かせたあと、少しだけ膝をまげてにこりと微笑んだ。
「そうですよ。もしかして、パレードを見てくれたんですか?」
晶に話しかけられた子どもは、興奮した様子でこくこくと何度も頷いた。ぎゅっと手を握りしめて、うっとりと晶を見つめている。
「あのね、賢者さま。いつも僕たちのために、たくさんありがとう、ございます! 魔法使いのおにいさんも!」
一生懸命ことばを紡ぐ子どもに、晶は嬉しそうに笑った。小さな両手が、真っ直ぐに晶に伸ばされる。かわいらしいハグを求められた晶が、そっと腰を下ろして受け止めた。その瞬間、チュ、とかわいらしいリップ音が響く。驚いた晶は目をぱちくりとさせ、横で様子を伺っていたミスラは思わず「ちょっと!」と声を上げた。子どもは、目を吊り上げたミスラに怯えて、レジの後ろに隠れてしまう。
「も、申し訳ございません、賢者様。うちの子が、とんでもない失礼を!」
「いえ、そんな! こんな風にハグをして頂けて、とても嬉しかったです。ミスラ、お待たせしちゃってすみません。そろそろ帰りましょう」
店を出て、晶が気づかわし気にミスラを見上げる気配がしたけれど、つんとそっぽを向いて足をすすめる。マーケットを抜けて、中央の国全体が見下ろせるような高台にやってきた。街中で扉を出現させるのは、あまりにも目立ちすぎるからという晶の頼みに、いつもこの場所から魔法舎に扉を繋げていた。
「ミスラ」
名前を呼ぶ声に振り返り、ミスラはしかめつらをしたまま、白衣の袖でごしごしと晶の頬を拭った。「い、いたい、いたいです!」ぎゅっと目を瞑って呻く晶に、ふんと鼻を鳴らす。
「あまりにも不用心過ぎます」
「ごめんなさい、ミスラ。でも、相手は小さな子どもでしたし……」
「……そんなの関係ありません。大体、あなたって人に何かを頼まれると、なんでもはいはいと答えちゃうんですね」
「え、ええっと?」
困惑した様子で、ミスラを見上げる。面白くない、なんだか無性に、苛々する。スノウが言っていた言葉が、思い浮かんだ。頼まれたら断れない、そんな賢者様にがっついて、困らせるな。とか、なんとか。ミスラは、そっと晶の左手をとった。薄っすらと、青痣が浮いている。指先でなぞれば、晶は頬を赤くして首を竦めた。
「アルシム」
柔らかな光が明滅し、ふわりと手の甲から痣が消える。
「……お願いしたら、簡単に抱かせてくれましたもんね」
「なんで、」
「もしも他の魔法使いが先にあなたにお願いしたら、あなたは……」
そこまで口にして、ミスラは首を横に振る。何を口走っているんだ、自分は。呪文を唱えて、空間の扉を出現させる。ノブを握り、押し開こうとしたその時だった。
「そんなの、ミスラだからですよ」
澄んだ声が、夜に響いた。驚いて、ゆっくりと後ろを振り返る。
きらきらと宝石を散りばめたような夜景の前で、晶が真っすぐにミスラを見つめた。
「俺だから?」
「はい。もちろんです。俺のこと、何だと思ってるんです」
口を尖らせて言うのに、喉の奥がぐっとつまるような心地がした。
ミスラは言葉に出来ずとも、理解はしている。真木晶はこの世界にたったひとりの賢者で、美しい魔法使いたちに寵愛されている。そして平等に愛を配り彼らを心のまま導く役割がある。
「特別ですか?」
晶は、ミスラの問いに答える代わりに、とても綺麗に笑った。
なんてずるいのだろう。目の前の人間が心底憎たらしく、力づくでも、今すぐ自室のベッドに引っ張り込みたい気持ちでいっぱいになる。いつもそうだ。ミスラは、自然と晶の特別を強請っている。
いつか、晶が賢者という役目を終えたその時に、彼は答えをくれるだろうか。
口から零れそうになる溜め息を飲み込んで、ミスラはかぷりと賢者の唇に噛みついた。