アオハル(ネロ晶♂)「ネロが好きです」
うす紅色の花びらが舞い散る校舎の片隅。友だちである真木晶からそう告げられた時、ネロは自分でも理解出来ないくらいに戸惑い、そして躊躇した。
転校生としてフォルモーント学園にやってきた晶とは、一年と少しの付き合いだけれど、時々図書館で一緒に勉強をしたり、趣味の料理を振舞ってやったりと、あまり人付き合いが得意ではないネロとしては距離の近い友人のひとりだった。
正直なところ、時折垣間見える晶からの好意には、薄々感づいていた。それは例えば、偶然に指先が触れ合ってしまった時に染まる頬の赤さだとか、自分を映した瞳に宿る熱量だとか。散らばった金平糖のように、小さくても甘やかなそれを拾い上げる度、くすぐったくて、どこか得意げな気持ちになった。
晶は転校してきて早々、あっという間に一癖も二癖もある生徒たちの輪に溶け込み、ネロが見かける度に彼を取り囲む輪の中で楽しそうに笑っていた。元不良校の生徒会長であるミスラやブラッドリー、オーエンなんて名前を聞くだけで震えあがるようなおっかない連中さえも、晶に対してはどこか気を許した態度をとっていてギョッとしたものだ。
晶の傍にいるのは、心地良い。じぶんが何者でなくたって、晶はそのままを受入れて、変わらない笑顔を向けてくれるのが嬉しくてたまらない。言葉にしなくとも、晶の傍から離れられない彼らの気持ちが、ネロには痛いほどよく分かっていた。
だからこそ、‶みんなの晶〟から特別な感情を自分なんかが受入れて良いものか、正直なところ全く自信がなかった。元不良校だけれど、ミスラやブラッドリーのように強いわけではない。レモラバのヒースクリフやシノ、インフルエンサーのカインのように華やかな職業についてもいない。友人のファウストのように包容力があるわけでもなく、ルチルのような唯一無二の才能もない。
――他の人間よりも、少しだけ料理が得意なだけで、他に秀でたところもない自分なんかが、彼らから晶を奪い、独り占めしてしまって良いわけがないだろう。
晶からの告白に、返す言葉を見失っていた。ネロだって、晶のことが好きだ。自分の料理を、幸せそうな顔をして食べる姿は可愛くてたまらなかったし、自分への好意を必死に隠そうとする姿はいじらしくて仕方なかった。他の友人たちがこぞって晶の隣を争うのを見る度、優越感を覚えることさえあった。
進むでもなく、戻るでもないその状況は、ネロにとって心地良かった。晶からの好意を感じながら、気づかない振りをして晶が喜ぶような言葉をかけてやる。この状況を失うことを、無意識のうちに拒む卑怯な気持ちに蓋をしてしまいたかった。
「えっ……と」
言い淀んだネロに、晶は少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「すみません、ネロを困らせちゃいました。違うんです……ネロに、付き合って欲しいとか、そんな我がままを言いたかったわけではなくて。知って欲しかっただけというか! ええと……その」
「なんで謝んの」
夜空みたいな紫紺の瞳にネロをまっすぐに映したまま、いつもと同じようににこりと笑った。ネロの返事を待つことなんて、はなから期待していなかったみたいだ。
「出来れば、これからも今までどおり、ネロのお友だちでいさせて欲しいです」
「そんなの、当たり前だろ。卒業して、いつか俺が店を出すことになったら、晶には新作メニューの試食もしてもらうってさ。前に、約束しただろ」
晶は、いつもと変わらない調子で「そうでしたね!」と声を上げた。軽口を叩きながら、心臓がどくどくと早く鼓動する。大丈夫、大丈夫に決まってる。これで、いつも通りだ。祈るように、こころの中で繰り返しながら、背を向けて去り行く晶の姿を目に焼き付けるようにして見送った。
***
「ありがとうございました」
ディナー最後の客を出入口まで見送った。赤レンガに濃い緑色のツタが這う瀟洒なレストランは、独立してようやく手に入れたネロの城だ。店先のポストを覗けば、DMや請求書の入った封筒が溜まっている。それらをがさりとまとめて手に取り、シャッターを下ろして、疲労困憊した身体を引きずるようにして店内に戻った。
ボトルの底に僅かに残った白ワインをグラスにうつし、灰皿を出す。淡いイエローランプに灯された店内に、しゅぼ、とライターの音が響いた。紫煙を燻らせながら、ネロはDMや請求書の入った封筒をひとつずつ開封し、中身に目を通していった。
「……これ」
まだ半分も吸っていない煙草を、灰皿にぐりぐりと押し付けた。どくん、と心臓が跳ねる。クリーム色の封筒には、万年筆でネロの店の住所と店名、そしてネロの名前が見慣れた文字で書かれていた。案の定、それは古い友人から送られた、結婚式の招待状、というやつだった。
高校を卒業して、七年も経つ。ネロの周りでも、結婚するという報告をちらほらと耳にするようになっていた。決して、珍しい話なんかじゃない。けれど、そこに書かれた名前、‶真木晶〟という三文字を見た瞬間に、ネロは頭を鈍器でぶん殴られたようなショックを受けた。そばに置いたワイングラスを傾け、一気に半分ほど飲み干して、ネロは意を決して封蝋を剥がす。印刷された結婚報告と、晶の伴侶となる女の連名を静かに指先でなぞった。
「俺のことが好きだって言ってたくせに」
あまりにも身勝手で愚かなセリフに、自嘲気味に笑った。
高校の卒業式、自分なんかのことを好きだと言ってくれた晶に対して、ネロは断ることも、受け入れることからも逃げたのだ。なぜ、どうして、後悔してもしきれない。本当は、好きだったのに。晶と同じ気持ちで、むしろそれ以上に大好きだったのに。晶が、せっかく他でもないネロを選んでくれたにも関わらず、あろうことか、ネロはその手を取ることもせず、ただ臆病風に吹かれて逃げてしまった。告白を断られた晶が、これまでと同じようにネロの傍にいて、好意を向け続けてくれるだなんて、どうしてそんな都合の良いことを考えていたのだろう。
大学に進学した晶は、それから一度もネロと会ってはくれなかった。ヒースクリフから聞いた話では、入学してから勉学に励んでいたらしく、二年生の時には海外留学をしていたらしい。その時に、使っていたスマートフォンをいったん解約していたようで、ちょうどその頃何も知らずに一度連絡しようと試みて、冷たい音声ガイダンスに繋がった時はショックを受けた。それとなく、友人であるファウストが店に飲みに来た際に、晶の話題を振ってみると、なんと自分以外の奴らは割と定期的に晶と連絡をとっているらしい。
そこでようやく、晶は自分を避けているのだと気付いた。理不尽さに怒りを覚えたり、憎たらしく思ったり、むしゃくしゃしたり、そんなマイナスな感情がごちゃまぜのようになったりもしたが、考えてみれば、これまでもずっと、ネロはいつだって晶から声を掛けてもらうのを待ち続けるばかりだった。
腹の底に押し隠すようにしていたけれど、次第にそれは、もっと別の、焚火に燃え移る青い炎のようにじわじわとネロの中で燻ぶり続けていた。
エプロンに入れていたスマホから、メッセージアプリを起動させ、友人の名前をタップする。
新しいワインボトルを開けて、空にしたばかりのワイングラスに並々と注ぎ、喉を鳴らして飲み干した。
『もしもし。ネロ? どうかしたか』
数回の接続音の後、少しだけ心配そうな声色を滲ませた友人の声が聞こえた。スピーカーにして、テーブルに置く。
「なあ、いま暇?」
『暇ではないよ。これから積んでいる本を少しずつ読み進める予定だけれど』
「ふぅん……そっか」
『おい、ネロ。君、もしかして酔ってるのか?』
「べつに、少し飲んだだけさ。あー……ほら、あれ。祝い酒ってやつ」
「祝い酒?」
「……晶、結婚するんだって。知ってた?」
アルコールのせいで、少し舌ったらずなネロの言葉に、スマートフォンの向こうでファウストが溜め息をつく音が聞こえた。とぽとぽとワインを注ぎ、無言のまま胃の中に流し込む。ファウストが「ネロ」と名前を呼んだ。
『僕も、ワインが飲みたくなった』
「ファウスト」
『今から、君の店に行く。いいだろ?』
ぎゅっと、ワイングラスの足を握りしめた。ファウストのそれとない優しさに、嗚咽が漏れそうになりぐっと堪えた。通話を切って、ふらふらとした足取りでキッチンに向かい、チーズやらオリーブやらを皿に盛って用意する。たったの十分程で、外からシャッターを叩く音が聞こえた。店の外に立つファウストは、少しだけ息を切らせていた。すぐ近くのマンションを借りているが、ネロを心配して走ってきてくれたのだろう。彼の優しさが、今は痛いほどに胸に沁みた。
グラスにワインを注ぎ、乾杯といって口をつける。ファウストは、気づかわしげにネロを見遣りながら、グラスを傾けた。
「大丈夫か? ネロ」
静かに、そう問いかける。ネロは、うろうろと視線をさ迷わせたあと、小さく口角を持ち上げた。あー……、とどこか諦観を滲ませて、肩を竦めた。
「……ぜんぜん、大丈夫じゃねえや。自分でもびっくり」
「そうか」
ははは、と誤魔化すように笑うネロを、ファウストは笑わなかった。ワインが飲みたいといった言葉をウソにしないためか、ぐいぐいと飲み進めながらオリーブを口の中に放り込む。
「晶に、恋人がいたなんて知らなかった。相手知ってる?」
「大学時代からの友人のようだよ。同じゼミの後輩だとか」
「……へぇ、あっそ。興味ないね」
「ネロが聞いてきたんだろ」
「そうだっけ?」
目の前がくらくらとする。さすがに飲み過ぎた。火照る顔を右手で抑えながら、だらしなくテーブルに肩肘をつく。面倒くさいだろうに、生真面目な友人は静かに酒を飲みながら、相手をしてくれている。
「晶が選んだ子だから、きっと良い子なんだろうって、本当はわかってるんだ」
「あぁ、そうだね」
「……写真ある?」
「自傷の気でもあるのか、君は」
「早く見せてくれよ」
ファウストは、仕方ないと顔を顰め、スマートフォンの写真フォルダを検索する。画面いっぱいに現れた晶の姿に、思わず釘付けになった。七年経って、少し精悍さが増していたけれど、あの頃の雰囲気をそのまま纏いカメラに向かって微笑んでいた。寄り添うように隣にいる女が、晶の相手なのだろう。
「晶、全然変わんねえな。相変わらず可愛い」
「おい、大丈夫か? さすがに酔い過ぎだぞ、ネロ」
苦しくて、悲しくて、つらい。ネロはテーブルに突っ伏した。
――バカ、死ね、カス、お前が逃げたりなんかしないで、気持ちをきちんと伝えていたら、この写真に写っていたのはこのオンナなんかじゃなく、自分だったはずなのに! 恋人同士ってことなら、晶、このオンナとキスとか……セックスとかもしたってことだろ。そんなこと、出来んのかよ。だって、俺の知る晶は、目が合うだけで頬を赤くしてたし、手を繋いだだけで、慌ててたのに。いやだ、そんなの。
まるで、思春期を拗らせた童貞野郎みたいな罵詈雑言がネロの頭の中で暴れまわる。
「……俺の晶に触るな」
胃の奥から不快なものが込み上げる。おえ、と嘔吐いたネロの背中を、ファウストが心配そうに擦る。
きれいで、汚れなく、誰の心も包み込んでくれるような唯一無二の人。誰もが彼のことを好きで、いつのまにか、無意識に神聖視していた。馬鹿だな、ネロは思う。晶だって、自分と同じ人間で、ありったけの勇気を振り絞って、想いを伝えてくれたというのに。
ぽろりと、涙がひとつぶ頬を伝う。
ぽっかりと心に穴があいて、ひゅうと風が通り抜けた。
「おめでとう、晶」
「そんな心の籠らないおめでとうは、初めて聞いた」
「いや、でも……あぁ、ごめん」
ファウストは、顔を上げたネロを真っすぐに見つめて、諭すように言った。
「人生には、ここぞというタイミングがある。しっかりと掴んで、次は決して手放すな。僕は、大事な友人たちが泣くところを、もう見たくない」
「……え?」
***
ゆっくりと瞬きをする。
その瞬間、するりと目尻を一筋涙が落ちた。
あれ、おかしいな、ここはどこだ。そう考えた瞬間、晶がネロの顔を覗き込んだ。心臓が大きく跳ねる。理解が追いつかず、けれどなんだか酷く眩暈がして呂律もうまく回らない。
「ネロ!」
「おや、ようやく目を覚ましたようだね」
衝立から現れたのは、白衣を身に纏ったフィガロだった。つんと鼻をつく消毒のにおい、ここは、高校時代に良く世話になった保健室だ。
「……あれ、ファウストは。俺、酒を飲み過ぎて……」
「おいおい、聞き捨てならないね。もしかして寝惚けてる? 体調はどうだい」
「えーっと……平気っス。少し怠いだけで……」
「軽い貧血だから、少し休んで。いったん職員室に戻るから、何かあれば声かけて」
「フィガロ先生、ありがとうございます」
立ち上がって、ネロの代わりにぺこりと頭を下げる晶に、フィガロがにこりと笑う。
「卒業おめでとう、ふたりとも」
ぱちりと、きざったらしいウィンクを飛ばして、保健室から出て行った。ネロは、フィガロの言葉を頭の中で繰り返す。うそだろ、と愕然とした。今の今までのは、もしかして夢? まさかの、夢オチ⁉ あまりにもリアルで、タイムリープを信じてしまうくらいに鮮明だった。
「ネロ、倒れちゃったんです」
「……は?」
「ごめんなさい。俺が、あんなことを言って、困らせちゃったせいです」
紫紺の瞳を涙で潤ませながら、晶が嗚咽を漏らす。ネロは、「ちがう」と首を横に振った。ファウストの言葉が、脳裏に浮かぶ。
人生における、ここぞというタイミング。ネロは、ぎゅ、とこぶしを握り締めて、口を開いた。夢の中の七年間、ずっとずっと、苦しかった。現実には、たったの二時間程度の出来事だったようだけど。
タイミングなんて、本当はたくさんあったのに。
晶が、ネロの料理を世界でいちばんおいしいと言ってくれたとき。夕方遅くまで、ふたりきりで夕方遅くまで勉強をしたとき、晶の誕生日、じぶんの誕生日、他にもたくさん。
機会を伺い、それが訪れては今の幸せで充分じゃないかと思い直しては尻込みして。結局自分は、なにひとつ前に進めずに、この先も生きていくのだろう。
そんなのは、もう二度とごめんだ。
泣いて駄々をこねて、酒に溺れて。大切な人の幸せを心から祝福出来ないなんて、こんな不幸なことはないだろう。何より、ネロは晶と一緒に幸せになりたかった。
「俺も、晶が好きだ」
ぱちり、晶が驚きに瞬いた瞬間、透明の粒が雨のように散る。
「ほ、ほんとう、ですか」
「……待たせてごめん」
「ええっと、そんなに、待ってはない、ですけど」
戸惑う晶の声に、ネロは大きく笑ってその身体を抱きしめた。石鹸のかおりと、すこしだけ、消毒液の混じったにおい。おそるおそるといった様子で、ぎゅっと抱き返されたその腕の感触で、これが夢ではないことを確かめる。
彼のいない人生を、二度も味わうつもりなんて毛頭ない。そっと身体を離して、晶の柔らかな髪を梳くように撫でる。
「ね、ねろ……あの……」
「ん?」
「なんか、その……雰囲気が」
顔を真っ赤にさせて俯く晶は、このまま押し倒してしまいたくなるほど、可愛かった。何しろ、体感では七年ぶりの晶なのだから。
「大事にする」
「え?」
「絶対に、絶対に、大事にするから。他の女と結婚しないで」
目をぱちくりとさせた後、晶が小さく噴き出した。
「もしかして、変な夢でも見ましたか?」
「夢だったのか、今でも信じられないくらい、嫌な夢だった。なあ、晶」
結んだ小指は、互いの温度が溶け合うようにじわりと熱い。
先ほどまで、急に大人びた様相を見せたくせに、今度は駄々をこねるように口を尖らすネロに晶は笑って言った。
「約束ですよ、ネロ」