未定ぴき、と起きた途端襲ってくる筋肉痛。
それもほぼ毎日のことになれば日常の一部だ。アラームを止めてベッドから這い出る。
背丈に対して若干小さいドアを開けて洗面台へ。軽く身支度をして、サンダルをつっかけて玄関から出る。向かう先は学生マンションの集合郵便受け。
大学生一人暮らし、新聞なんぞ取ってるわけもない。しかし確認したい理由があった。理由というか、ちょっと楽しみにしていたものですらある。昨日の夜は無かったので、今朝は届いているかも。
201三井、と書かれた扉を開けると、少し膨らんだ茶色い封筒。差出人は見知った後輩の名前。自然と口角も上がる。手に取って、部屋に戻った。
『……はーい!あ!先輩、届きました?』
「届いた、サンキュー」
大学の準備をしながら差出人である彩子に電話をかける。受話器の向こうからは変わらず元気な声が響く。
『遅くなっちゃってすいませーん!送る人多くって!』
「いや全然はえーわ」
『見てあげてくださいね、ほんと頑張ってたんですから』
「わかってるよ、本人にも言っとく」
『喜びますよ〜、顔には出ないけど』
「ちょっとは出るようになったろ」
『そうかしら?……まぁ確かに昔に比べれば!』
毎日彼女の叫び声やハリセンの音を聞いていた頃が懐かしい。つい長電話をしてしまいそうになるので、早々に切り上げる。自分も彼女もこれから大学があるのだ。
封筒の中身はダビングされたビデオだった。『インターハイ準決勝!』となぜか、エクスクラメーションマークまでしっかりと書かれたシールが貼り付けられたテープ。数日前、彼女から送った旨の電話を受け、今日まで待ち望んでいたものだった。
何よりも眩しいと感じたあの夏から、もう2年が経つ。意地で残った冬のインターハイで懸命に結果を出し、なんとか大学の推薦をもぎ取り、横浜の大学に通い始めた。月日はあっという間に経ち、宮城の代も卒業し、気付けば問題児2人が率いる代になっていた。
届いた映像は、彼らの夏のインターハイ。ベスト4まで勝ち上がるという、湘北高校バスケ部、創設以来の大躍進になった。もちろん彼らは優勝できると豪語していたので、それはそれは悔しがっていたが、十分すぎる結果なのはいうまでもない。
なぜわざわざビデオを送ってもらったかと言えば、このインターハイを見に行けなかったからである。自分が出場する大学の試合日程と被ってしまったのだ。彼らの勇姿をこの目に焼き付けたかったが、仕方ない。湘南の大学で、変わらずバスケサークルのマネージャーをしている、という彩子は忙しいはずだろうに、全ての試合に引率していた。なので彼女から映像を貰うことにしたのだ。
今すぐに観たい気持ちを抑えて、スポーツバッグを肩にかけ部屋を出る。今日も厳しい練習が待っているだろう。
「もしもし」
『観た』
「おいおい、いきなりだな。見たよ、あとで電話かけようと思ってた」
『……どうだった』
「かっこよかったぜ、なんかちょっと泣きそうだわ」
『ほんと?』
大学を終え、そのまま急いで家に帰り、映し出される映像に釘付けになった夕方。余韻に浸っていると、測ったように電話がかかった。映像のなかで、5番のユニフォームをつけ、ビデオでは捉えきれないほどの素早い動きを繰り出していた人物、流川だった。
「つーかなんで知ってんだよ?俺が観てるって」
『さっきコンビニで彩子先輩と会ったから、教えてくれた』
「あーお前ら近所だもんな」
学校帰りの流川は同じく大学帰りの彩子と、たまたま会ったらしい。お喋りな彼女のことだ。『三井先輩にビデオ送っといたわよ』なんてことを言ったのだろう。
「でも本当すげーな、スリーもよく決まってた。ガードも本職みてーだぜ」
『良かった』
「桜木と、この一年もいいな、ゴール下強え」
『……あいつの事はいいから』
「っぷ、なんだよ、まだ張り合ってんのか?」
『そんなことない』
キャプテンと副キャプテンだと言うのに、まだ一年の頃と変わらずらしい。
二年前のあの夏にインターハイ初出場という看板がついてからというもの、湘北バスケ部はかなり変わった。春の新入部員もマネージャーも増え、設備も良くなった。弱小だのベンチが弱いだの言われていた頃とは全く違う。その分気苦労も増えたらしく、宮城は彩子にどやされながら何とかやっていた。その宮城が抜けた後、流川はフォワードもガードもこなす、外のオールラウンダーへと変貌していた。パス一つ出せなかった頃が懐かしい。2M越えの大型一年が入ったことも大きいらしい。桜木が中を固め、流川という万能プレイヤーが縦横無尽にコートをかける。負けたとは言え、全てがマッチした素晴らしい戦いだった。
あのパスが良かった、あそこが惜しかった、と心底バスケット馬鹿な三井の脳は喋るのをやめない。
『先輩』
「ん?」
やっと話がひと段落ついたところで、ずっと相槌を打っていた流川は、妙に深刻な声色で呼びかけた。
『……会いたい』
吐息混じりのそのセリフ。おおよそ、三井以外の人間は聞いたことが無いだろう。心の底から、相手を求める声。
二人の関係性に、ただの先輩後輩から、恋人が追加されて一年が経つ。
「何いうかと思えば。来りゃいいだろ、前にも言ったけどよ」
『勝手に行っていいの?』
「ッハハ、可愛こぶってんじゃねーよ」
『ぶってない』
「合鍵持ってんだろ。基本大学と往復してるだけだし、好きな時に来いよ」
『土曜日、部活終わったら行く』
「はいはい、勝手に入ってていーぜ」
約束ができて安心したのか、切る直前は随分と嬉しそうな声だった。合鍵は付き合い始めて割と早いタイミングで渡している。勝手に使っていい、と言っているのだが、そうされた事は一度もない。こちらが疲れていようが、後輩と楽しく世間話をしていようが、構わず1on1をねだるような奴なのに。
何故かバスケ以外の私生活、ことに付き合い出してからというもの、意外と彼はしおらしいのだ。上目遣いでこちらをうかがうようにおねだり、が板につく男だ。生粋の末っ子気質かもしれない。日本人としては成長しすぎな図体のせいで、三井が彼の上目遣いを見る事はほとんどないけれど。
『会いたい』
頭の中で響く先ほどの言葉。可愛こぶるな、なんて言ったが、三井は三井で、流川のこういった姿にとことん弱い。思い返せばこの関係が始まった時からだ。大学生と高校生、しばらく会ってなかったが再会した一年前の夏。泣きそうな顔で、『好きです』と告白してきた。敬語が話せる事はその時知った。混乱する状況の中、身体の内側が鷲掴みにされるような感覚に陥り、気付けばイエスの返答をしていた。自分の知らないところで、惚れた弱みとやらが発動していたらしい。
先ほどの『会いたい』はあの時と同じくらいの深刻さを物語っていた。心当たりがないわけでは無い。しかしそれは会ってからのことだ。あえて考えないようにして、久々にこの部屋を他人が上がるに相応しい状態にするべく、コンセントに差しっぱしなしの掃除機を取りに向かった。
約束の土曜日、コーチのテンションが上がり、いつもより伸びてしまったウェイトトレーニングを呪いつつ、自宅へと急ぐ。マンションの自動ドアをくぐり二階へ。階段すぐの玄関ドアを開ける。開けた隙間から中の明かりが漏れる。シューズボックスの横についてる60Wの白熱電球。やたらと明るく感じた。何か声を発するよりも前に、足音がした。部屋の奥には、相変わらず日本のどの住宅にも適さないサイズの男が立っていた。長めの前髪の奥に潜む、綺麗な瞳と目が合った。
「おっす」
「……勝手に、あがってます」
「何で敬語だよ」
所在なさげに棒立ちで言うから、一年ごしのそんなツッコミを笑って返さずにはいられなかった。
部屋のソファに流川が座っている。今年の誕生日に、学部の友人らが買ってくれたものだ。部屋に対し若干大きいサイズのそれを俺が欲しがるので、皆大きいのではないかと心配した。
『うーん、ほら、足がなげーからよ』
『ッハハ!はいはい長くてよーごさんした』
結局、そんなふざけた会話で友人たちは納得してプレゼントしてくれた。本当は、もっと足の長い男、自分も入れれば二人座ることを想定したからだ。
「先輩、髪伸びた」
「そういやそうだな。個人的には違和感ねーんだよな、昔こんなんだったから」
そんなソファに座っている流川の手が伸びてきて、前髪に触れる。その手に誘われ距離を詰めて座り直すと、後ろから抱きしめられるような体勢になった。
「あの写真のやつ?」
「そうそう」
ポスっと、肩に頭の分の重みがかかる。首元で揺れる黒い髪の毛がくすぐったい。
あの写真、とはベッドサイドに飾ってある写真のことだ。県大会を制覇し自身はMVPを取った時の集合写真。ちなみに机の上には湘北バスケ部、夏と冬の大会集合写真が飾られている。
「武石中、何回か練習試合した」
「あー富が丘まぁまぁ近いもんな、学祭の招待試合とかやってた」
「先輩と試合できてたかもしれないのに」
「いやお前中一だろ?高校ならともかく中学で一年レギュラー聞いたことねーわ」
「それはそうだけど……」
互いに中学時代の相手メンバーなんぞ、もうよく覚えていない。学年が違えば尚更だ。
いつだったか、今のように中学時代の話をしていた時のことだ。子供の頃から背が大きかったのか、という質問に、流川は、中一までは150cmくらいだったと答えた。それはそれは可愛い、と思ったのは言うまでもなく。中二までの一年間でものすごい成長を遂げたという。しかしその分、人一倍の成長痛に悩まされたらしく、その期間は満足にバスケができなかったとも語っていた。
体に巻き付く腕を撫でながら、首を振り返るように反らせて、こめかみのあたりに唇を寄せる。
「スポーツ刈りな三井センパイが良いってんなら、切ってやるのもやぶさかじゃないぜ?」
「別にどっちでも良い、先輩は先輩だし」
「あっそ」
食えない答えが返ってきた、と思っていると目の前が暗くなる。唇に柔らかい感覚。小さいリップ音がしてキスされたと気付く。ん、と思わず声を出してしまった。
「長いのも似合ってる」
「…………あっそ」
目元で揺れる毛先の向こうに見える整った顔。その目が真っ直ぐこちらを射抜き、そんなセリフを吐く。変に顔が破綻しないよう努めるばかりだ。
「ロン毛はやめてよ」
「っぐ……お前からかうなって、生意気な……」
「痛い痛い」
笑いながら身体の前に交差した腕をどかして、ヘッドロックを仕掛ける。痛いと言いながら一切の抵抗なく、流川はされるがまま背中からソファに倒れ込む。乱れた髪の隙間から少し上がった口角が見える。こんなじゃれあいに応じる人間だなんて、この関係にならなければ一生わからなかっただろう。
流川を見下ろしながら、乱れた髪をさらにくしゃっと撫でた。その手を取られて引っ張られる。
「あっ」
「先輩」
「っ、ん……んぅ」
覆い被さるような体勢のまま、唇が合わさる。侵入してくる舌を受け入れて、鼻の奥で息を漏らす。ぐちゅ、くちゅ、と一気にいやらしさを纏った音が部屋にこだまする。
「はぁっ、んぅ」
「んぁ……ふぁ、んく、んっ、んっ」
舌を擦り合わせたり、ぢゅぅ、と音を立てて吸い付いたり。口の端から唾液が落ちるのも構わず、互いの舌を味わう。大きな手が背中に伸びて、さするような仕草をし出したところで、ゆっくりと唇を離した。
「んっ……は……ちょっと風呂入ってくる」
「いいよ、このまま」
「よくねーわ、今日ウェイトキツかったんだよ、遅くなったからシャワー浴びずに出てきたし」
「その方がいいのに」
「っ、やめろ、嗅ぐなって」
立ちあがろうとする腰に巻きついてくる。残暑がまだきつい中、帰り道でも汗をかいた。染み込んだであろうTシャツの脇の辺りに頭を押し付けるのだから、困ったものだ。剥がそうと思って見れば、こちらを伺うように見上げる瞳。
あ、なんと、上目遣い。
心臓の奥の方が鷲掴みされる、というか握りつぶされるような感覚がした。
「……あれだ、その……」
やっぱりコレに、とことん弱い。
「一緒に入るか?」
根負けして出した言葉に、上目遣いの瞳はキラキラと光り始めた。