“本物”を超えた日 前編 ラギーから帰りが遅くなると連絡があったのが五時間前、夕方のことだ。
自分だけの食事と家事を済ませ、ユウは以前と同じようにクッションを抱いて、ソファの真ん中に腰を落ち着けていた。今日準備したのは緊張感抜群のパニック映画だ。これでしばらくは寝ずに済むだろう。念のため、自分の部屋から毛布も持ち出してきた。夜更かしの準備は万端だ。
ラギーからは待たなくていいと再三言われていたけれど、ユウはどうしても待っていたかった。どんなに遅くなってもいい。一日の最後には、ラギーにおやすみを言ってから眠らないと、なんだか落ち着かなくなってしまっていた。
再生ボタンを押して、流れ始めた穏やかな海の風景を眺める。映像が進むにつれ、不穏な雲が空を覆い、波は高く、空気が淀み始める。沖で発生した竜巻から押し寄せる津波。波の中から巨大な鮫が現れて逃げ惑う人々に、ごくりと息を呑んだ。
どこの世界でも娯楽は似たようなものらしい。鮫に襲われる人々を固唾を飲んで見守りながら、頭の隅で、元の世界にもあった似たような映画を思い出した。
元の世界に帰る方法は見つからず、元の世界と似ているようでまったく違う、おとぎ話のようなこの世界で生きていくことを決めた。帰ることを諦めたわけではないけれど、現実とは向き合っていかなくてはならない。絶望的な状況で、それでもくじけることがなかったのは、この世界で出来た友人たちと手を差し伸べてくれたラギーのおかげだろう。
ぎゅう、と、クッションを抱きしめる。重ねてきた日々を思い返し、次第に頬に熱が集まってくる。
学生時代の印象よりも、ずっとずっと、優しい人だった。もちろんそれがより円滑に生活するための、巡り巡ってラギーのためになるから施されていた義理だとは重々に理解している。
けれど、自分よりも自活の知識に長け、それを惜しげも無く分け与えてくれて、重いものを持つ時も、高いところの掃除も、仕事で疲れているだろうに率先してやってくれて、頼み事に嫌な顔をされたこともない。夕焼けの草原は女性優位社会とは聞いていたが、そこに彼自身の気が利く一面が加味されて、正に理想の『夫』だった。
夫。その言葉に、つい胸が弾む。書類上の話だが、ユウとラギーは『夫婦』なのだ。実態は先輩後輩からせいぜい同居人に変わっただけの状態だけれど、それでも。
自分は『妻』として足りているだろうかと、時たま考える。かけてもらった恩情に報いられるよう一生懸命責務をこなしているが、未だ到底及ぶ気はしない。感謝してもし足りない。ラギーはいつだって、ユウを助けてくれるから。
昼間の出来事が頭をよぎった。姿を見られたくなかっただろうに、それを押して迎えに来てくれて、あまつさえ――あんなこと、まで。
かっと、あの時抱き寄せられた肩が熱くなった。熱は全身に広がって、ふわふわと地につく感覚を鈍らせる。
触れた体温と手のひらの感触がまだ残っている。あんな風に恋人かのように触れられたのは初めてで、他人に対して『妻』として扱われたのも、初めてで。
顔が熱い。どんどん鼓動が速まる。初めて手を繋いで歩いた帰り道の光景が、頭にこびりついて離れない。
(………あんな……あんな、の、)
勘違いじゃないと、そう断言したラギーの顔がよぎって、彼の匂いが残るクッションに顔を埋める。
どういう意味だろう。他人から見た自分たちのこと? それとも――この熱い頬のこと?
ラギーはただの同居人だ。夫婦なのは書類の上でだけ。恋愛感情なんて欠片もなくて、ただの先輩と後輩という細い糸で繋がっていただけで。
―――それだけ、だった、はずなのに。
(…………かんちがい、しちゃう……)
目まぐるしく回る映像の向こう、窓も突き抜けた先に視線をやる。
もうすぐ帰ってくる彼を、どんな顔で迎えたらいいんだろう。
ただの同居人として、一線を引いて接してきたのに、これから、どうしたらいいんだろう。
もう映画の内容なんて、何一つ頭に入ってこなかった。ユウはどうしようもない気持ちを抱えたまま、ただひたすらに、真っ赤になった顔をクッションに押し付けることしかできなかった。
* * *
ふと、指に何かが触れる感触がした。
優しく、何かが指先を撫でる。関節をなぞり、爪の形を辿り、指の腹を握られる。ふにふにと柔らかい手ざわりを楽しんだ後、揃えた指をまた優しく撫でられた。
さわさわとふれる感触がくすぐったくて、ユウはゆるりと目を開けた。つけていたはずのテレビはもう消えていて――代わりに、すぐ目の前で見慣れた青灰色が瞬いた。
「…わあっ!? ら、ラギー先輩!?」
「お、起きた。おはよーッス、ユウくん」
シシッと肩を揺らしながらラギーが身体を起こす。バクバク鳴る心臓を押さえつつ、ユウもソファの上に上半身を起こした。
「ったく、待ってなくていいって言ってんのにまーたこんなとこで寝て。風邪引いても知らないッスよ」
「す、すみません。でも今日は毛布持ってきてましたし」
「ダーメ。寒くなってきたんスから、ちゃんと部屋に戻ってベッドで寝るッス。……まぁでも、ありがと」
ラギーがへらりと表情を緩めて、ユウの髪を撫でた。愛おしむような手付きにとくんと胸が高鳴る。ラギーの笑顔が直視できずにぱっと目を逸らした瞬間、ふわりと、鼻腔を強い臭いがくすぐった。
「……あれ、お酒、ですか?」
「ん、ああごめん。そんなに臭う?」
くんとラギーが自分の袖を鼻先に寄せる。吐いた息を確かめる彼にふるふると首を振って、ユウは小首を傾げて問うた。
「いえ、大丈夫です。……でも、そんなに飲むなんて珍しいですね?」
「まぁ、ちょっとね。すぐ風呂入ってくるから許してよ」
「許すって…別に怒ってないですよ。明日に残らないよう寝る前にお水多めに飲んでくださいね。お味噌汁の方がいいですか?」
「いや、水でじゅーぶん。…それよりもさァ、ユウくん」
ずいっと、ソファに手をついたラギーが顔を近づけてきた。アルコールににおいと共に、ラギーの匂いも鼻先を掠める。昼間のことを思い出して身体を強張らせたユウに、ラギーはこてんと小首を傾げてみせた。
「オネガイがあるんスけど」
「な、何ですか?」
近くなった分、無意識にソファの上で距離をとる。少しばかり空いたそれもすぐに埋めるように、ラギーが身を乗り出してくる。逃げ場をなくして焦りが強くなるユウに、ラギーはにこりと微笑んで言った。
「風呂から上がったら、またマッサージお願いしてもいいッスか? 今度は、オレの部屋で」
「……先輩の、おへや…ですか」
「うん。こないだソファでやってもらった時、やりづらそうだったんで。ダメ? 眠い?」
「いえ……大丈夫、ですけど」
「やった。そんじゃ、あとでオレの部屋来てほしいッス。頼んだッスよ~」
ユウが返事をする前に、ラギーはソファから立ち上がり、ひらひらと手を振りながらリビングを出ていった。数分も経たないうちに、浴室からシャワーの音が響いてくる。
シャワーの音が聞こえだしても、ユウはソファから動くことができなかった。先ほどのラギーの言葉を口の中で繰り返す度、頬の温度が上がっていく。
「…………ラギーせんぱいの、おへや、に」
互いの部屋には勝手に入らないこと。最初に決めたルール。だから今まで、ユウとラギーは不可侵と無関心を貫いてきた。家のことを任されてはいたが、ラギーの部屋に立ち入ったことも、招き入れられることもなかった。
――昼間と言い、急にどうしてしまったんだろう。突然距離を詰められ懐を明かされて、戸惑いばかりが募る。包み込まれた温かさが心地いいから、余計に。
唐突に、シャワーの音が止んだ。続いて浴室の扉が開く音も。マッサージを頼まれていたことを思い出し、ユウは慌ててソファから立ち上がった。
* * *
自分と違う、筋肉のついた背中。握った拳にぐっぐっと体重をかけながら、意識しないよう今週の献立を必死に考える。
触れる度、思い知らされる。細身だと思っていても服のサイズは圧倒的に違うし、腕の太さも上背も、まごうことなき男性だ。それでもただの『先輩』なんだと言い聞かせ、ユウは無心に寝そべったラギーの背中を押し続けた。
「あ~そこそこ……ユウくんやっぱ上手いッスねぇ」
「えっあっ、ありがとう、ございます…」
突然声をかけられて飛び上がるほどに驚いた。咄嗟に身を強張らせたせいで太ももでラギーの腰を挟んでしまい、慌てて足を開く。いまさらながらはしたないことをしているような気になって、心臓がぎゅうっと縮こまった。
「もう大丈夫ッスよ。ありがと」
「あ、はい」
ラギーの制止に、これ幸いと背中から飛びのく。起き上がるラギーに背を向けて熱くなった頬をぱたぱたと冷ましていると、背後でシーツの擦れる音が鳴った。
「…先輩?」
「ユウくん、こっちきて。お返しにユウくんもやったげるッス」
「えっ!?」
言うなり、ラギーがユウの両肩をぐわしと掴んだ。腰を浮かしかけていたユウが再びベッドの上に着地する。背中に近づいてきたラギーの体温を感じて、ユウの身体がびくりと硬直した。
「えっ、いや、私、先輩っ」
「遠慮しなくていいッスよ。いつも頑張ってくれてるし、たまにはいーでしょ」
首筋をさすったラギーの指が、ユウの細い肩を解し始める。探る手つきがこそばゆくて声が出そうになったのを、慌てて手で塞いだ。
「あー、お客さん凝ってるッスねぇ。腕結構使ってるでしょ~」
「お、お客さんって…」
「雰囲気雰囲気。あーあーかなり凝ってら。ダメッスよ無理しちゃあ」
「……ふふっ」
柔らかいユウの肩をふにふにと揉みながらおどけた口調で言うラギーに、ユウは竦めていた首を緩めて笑みをこぼした。緊張の解けた彼女を後ろから見下ろしながら、ラギーの口元も自然と緩む。
肩を揉まれながら、ユウは改めてラギーの部屋を見回した。あまりじろじろ見てはいけないと思いつつ、ナイトレイブンカレッジの頃と変わらず質素な部屋に目を瞠る。机の上の見知ったイボイノシシの貯金箱と家族の写真立てに変わらない彼を示しているようで、思わずくすりと笑みをこぼした。
ユウの肩と二の腕、それから肩甲骨あたりまでを揉みほぐしたところで、ラギーが口を開いた。
「……あのさぁユウくん」
「何ですか?」
「今度の休み、暇?」
「今度の? 特に予定はありませんけど……どうかしました?」
言いながら、ついと視線を上げる。後ろから覗き込んできたラギーの瞳と目が合って、その青灰色が、逡巡するように揺れた。
「あーいや、疲れてなかったらでいいんスけど……ちょっと、遠出しない?」
「遠出、ですか」
「うん」
手を止めて答えを待つラギーに、ユウはうーんと首を捻る。遠出なんて提案も初めてのことだった。
「お買い物ですか?」
「いや、ユウくん、せっかく学園から出てきたのに、近所しか出歩いてないでしょ。たまにはその、観光名所とか、行ってみたらいいんじゃねーかなって」
「……はぁ、観光」
突然の提案に、ユウは間の抜けた返事をする。今まで、そんなこと考えてもみなかった。
いまいち掴み切れていないユウの反応を見て、ラギーはさらに言葉を重ねる。
「夕焼けの草原にもそういうとこあるんスよ。普段のお礼に、トクベツに案内してあげるッス。オレ、ガイドのバイトもしたことあるから、結構自信あるッスよ」
「おお、先輩のガイド付き…! すごく楽しそうですね、行きたいです!」
パッと表情を輝かせたユウに、ラギーはシシッと肩を揺らし、ぽんぽんと後ろからユウの肩を叩いた。
「じゃ、今度の休み、よろしく。ピクニックできるとこもあるからお弁当も作っていこ。オレも手伝うから」
「わぁ、楽しみです! あ、お水飲み終わりました? 空のコップ貸してください。まだ他にも洗い物残ってるので、お皿洗ったら私も寝ますね」
「うん、ありがと。おやすみ、ユウくん」
「はい。おやすみなさい」
ぱたんと、ラギーの部屋の扉が閉まった。閉まる直前のラギーの笑顔を思い出しながら、ユウは鼻歌を口ずさみつつキッチンに向かう。
遊びに行くのなんて久しぶりだ。ラギーと『結婚』してから日々忙しく、エースやデュースたちとも会えていない。出掛けると言っても日用品の買い物ばかりで、服を買うのも通販で済ませていた。
しかも行先は観光地。ラギーの案内付きだなんて自分ひとりにはもったいないくらいだ。
(…………あれ?)
流しにコップを置きながら、はたとユウは気が付いた。
ラギーと二人で純粋に遊びに出かけるのなんて、初めてじゃないだろうか。
――というか。
(……もしかして、これって)
捻った蛇口から勢いよく噴出した流水がスポンジを持った手を濡らす。
どんどん冷たくなっていく手と裏腹に、首から上が茹で上がるように熱い。
黙って流水に手を打たれながら、ユウの思考がひとつの答えを導き出した。
(…………俗にいう、デート、なんじゃ)
名目上は『夫婦』である男女が、二人で遊びに出かける。
これって、どこからどうみても、デートなんじゃないだろうか。
それに思い当たった瞬間、ユウはばちゃりと音を立て、スポンジをぎゅうと握り潰していた。
(いや、いやいやいや)
別にラギーは二人きりとは言わなかったし、目的はユウの観光巡りだ。決してデートなんかじゃない。第一、自分たちはそういう関係ではないのだから。
(……で、でも、)
――そうじゃないとわかっていても、お弁当の中身よりも当日着ていく服のことが浮かんでしまい、ユウは何度も何度も同じコップにスポンジを滑らせていた。