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    persona1icetwst

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    記憶をなくして元の世界に帰ったユウくんが大学生の夏に焼きそば作ってた金髪碧眼のお兄さんにナンパされる話(ナンパに見せかけたラギー・ブッチによるガチお迎え)

    ##ラギ監

     それは、水平線の向こうに沈む夕陽に溶けていきそうな、きらめきを透かす鈍い金色で。
     ちくりと胸を刺す夏の向こう、逆光の中に一瞬だけ揺らめいた獣耳のような影が、今でも網膜の奥に焼き付いて離れない。
     舌の上で転がした彼の名前が、知らないはずなのに涙が出るほど懐かしくて。
     夏の魔物と言い切ってしまえばそれまでなのに――どうしてか、それで終わらせることはできなかった。



    * * *



     うだるような夏まっさかりの晴天。真上から降り注ぐ陽射しを白い砂浜が照り返し、突き刺すような光が弾けて視界を隅々まで染め上げる。焼き尽くされてしまいそうな眩しさに目を細めながら、わたしは恨めしい気持ちで右手で作ったピースサインを見下ろした。

    「はい、ユウの負け~!」
    「……あ~あ、負けちゃった……」

     がっくりと肩を落とす。日除けのための大きなパラソルの下、けらけらと笑う三人の友人が落ち込むわたしを順番に宥めた。

    「ドリンクはうちらが買ってくるからさ。ね?」
    「ごめんってばユウ~。でも約束じゃん?」
    「じゃあこれ、買い出しメモ。そんじゃよろしく~」

     手を振る三人に背を向けて、意を決してパラソルの下から一歩踏み出す。途端、容赦ない真夏の太陽がわたしを突き刺して、羽織った長袖のパーカーの下でぶわっと汗が噴き出した。
     勝負は勝負。約束は約束。ため息をつきながら昼ご飯を求める人でごった返す海の家へ足を向ける。とぼとぼと歩きながら、敗者の二本指で買い物メモを挟んで太陽にかざす。チョキは勝利のブイサインだから勝ちたい勝負にはこれだと、そう言ったのは誰だったか。

     ―――ほーらね、またオレの勝ちッス。

     じり、と、目の奥が焼けつく。ひきつったような笑い声の幻聴が鼓膜を掠める。
     時たま僅かに蓋を開けるしまい込んだ記憶。古いオルゴールのように気まぐれに軋んだ音を立てるそれは、いつも同じ誰かの姿をしていて、ちらちらと頭の隅に淡い影を覗かせた。

     ―――あなたは、いったい―――。

     ぐにゃりと視界が歪む。ふらりとよろけたわたしから、すれ違ったカップルが慌てて離れていく。カップルの方から迷惑そうな舌打ちが聞こえて、ぐらついた意識が現実に引き戻された。
     ……こんなところでだめだ、しっかりしないと。
     一瞬歪んだ視界も奥底から湧き上がってくる頭痛もすべて夏の陽射しのせいにして、わたしはかぶりを振って、まとわりつく記憶の残滓を振り払った。





     わたしは今年で19歳。大学1年生になる………らしい。
     らしい、というのは、それはわたしが目が覚めたときに、両親から聞かされた年齢だからからだ。
     およそ半年前、わたしは交通事故に遭った。その時のショックだか何だかで、16歳から18歳までのすべての記憶を失った。自分が何をしていたのかも、どこの高校に通っていたのかも、高校生の時にできた友人の顔も、何一つとして思い出せない。今でもそう。高校時代の友人だという人たちがこぞってお見舞いに来てくれたけれど、顔も名前も誰一人として記憶の中に見出すことはできなかった。
     空白の三年間。記憶のど真ん中にぽっかりと空いた穴に、意外にもわたしはそれほど動揺しなかった。幾度となく周囲から虚勢ではないかと心配されたけれど、当のわたしはあまり困ったことのように思えず、逆に周りの心配が不思議なほどだった。
     幸いにして時期は春、念願かなって合格した大学の入学式前のこと。人や思い出に関する記憶を失った以外の外傷は軽度で入学式までに無事回復したわたしは、つつがなく新生活をスタートさせた。知識に関する記憶も問題なく、高校から友達だという人と大学で出来た友達とに囲まれて、我ながら順風満帆な日々だった。相変わらずいつまで経っても記憶は取り戻せず、人の顔と名前を覚えるのが大変だったけれど。

     でも時折、不思議なことがあった。ふと鏡を見た瞬間、そこに、いないはずの誰かが映っているような気がして足が止まることがあった。もちろんいくら目を凝らしても誰もいないんだけど、一緒に歩いている友達の姿に重なるように、鮮やかな赤と青がちらついたような気がした。……そんな髪の色をした人なんて、周りにいなかったはずなのに。
     夜ベッドで眠るときは誰もいないのにおやすみを言ってしまったり、ご飯も二人分用意しようとしたり、まるで、誰かと二人でずっと一緒に暮らしていたような気分が抜けなかった。廊下の曲がり角や開いたドアの影からフォークみたいな三又の尻尾のような何かが見えることもあって、頭を打ってから本当におかしくなってしまったのかと悩んだ日もあった。
     極めつけは食べ物だ。道端に生えている雑草を見るとこれは食べられるなとぼんやり考えてしまったり、外食で残っている食事を見ると持って帰りたい衝動に駆られた。雑草を食べたことも、出先にタッパーを持っていったこともないはずだ。気分転換にお菓子作りでもしようかと手を動かせば、いつの間にかドーナツばかり作ってしまっていたこともある。以前はそこまで好きではなかったはずなのに、どうしてだか、誰かが好きだったような気がしてならなかった。

     その『誰か』の正体は、きっと消えた記憶の中にある。記憶を失ったことに特段興味はなかったけれど、それが何者なのかは少しばかり気になった。ときどき頭の中で響く掠れた笑い声のその人は、思い出したように背後から何事かを囁いては姿を消した。嘲笑うような声をいくら辿っても顔は見えず、代わりに、肩を揺らして笑うその頭上に、獣の耳のような輪郭が生えているのだけがうすぼんやりと見えていた。
     彼もまた、赤髪や青髪の人、三又尻尾のタヌキと同じような、わたしの空想上の人、なんだろうか。それとも、記憶を失っている間にそういう漫画やゲームにでもはまっていたんだろうか。誰に話してもそんなキャラクターは存在しないと首を傾げられたけれど、自分の中の幻覚をそう位置付けて気を逸らすことに徹していた。――思い出せないということは、今はまだ、思い出すべきではないということ。医者からそう告げられたからだった。
     『忘れる』というのは脳の防衛本能なのだという。つらいことがあったとき、人は簡単に記憶を消す。完全に忘却の彼方に押しやってしまうか蓋をするだけなのかは人によるけれど、無理に思い出すと心が壊れてしまう可能性もある。あまり気にせずゆっくり思い出していったらいいという医者の診断に従い、新しい生活に慣れることに意識を注いでいた。




     そして、何事もなく季節が通り過ぎ、太陽の照りつける暑い夏がやって来た。




    * * *




     ようやく注文を伝える頃にはお昼ご飯を求める行列はだいぶ落ち着いていて、わたしは閑散とし始めた出店の前で、店頭で焼きそばを作る様子をぼんやりと眺めていた。
     ジュウジュウと空腹を刺激する音と匂いを放ちながら、鉄板の上でソースと絡まった麺とキャベツが踊る。それらが鮮やかな手つきでくるりと宙を舞った瞬間、噎せ返りそうな熱気とソースの香ばしい匂いが顔を覆った。

    「いやぁ~お待たせしてごめんなさいッス。ちょうどさっき作り置きが尽きちゃって。ただ出来立てはめーっちゃ美味しいから、それで勘弁して、ね?」
    「えっ!? あ、いえ、そんな」

     突然話しかけられてハッと顔を上げる。大きな麦わら帽子にオーバーサイズの派手なアロハシャツを羽織った店員さんが、人好きのする笑顔を浮かべてもう一度焼きそばをひっくり返した。

    「お姉さん一人ッスか? 結構いっぱい注文してたけど持てる? もうちょっとかかるから、待ってる間に彼氏呼んできた方がいいッスよ」
    「か、カレシなんて! 友達と来てて、その、罰ゲームというか……なので、大丈夫です」
    「へぇ、そう。あ、持てるようビニール袋入れてあげるッス。ちょっと待ってて」

     あっという間に出来上がった焼きそばをささっと透明な容器に入れて、店員さんが後ろの台を振り返る。がさがさとわたしが注文したものをすべて詰めてくれて、ひょいとカウンター越しに差し出された。

    「はい。重たいから気を付けて。代金は全部で3000円になるッス」
    「あ、ありがとうございます。お金これで」
    「はーい、ちょうどッスね」

     商品と引き換えに代金を手渡し、差し出された手からビニール袋を受け取る。店員さんの手から取っ手を掴み持ち上げたところで――不意に、店員さんがわたしの手を掬い取るように掴んだ。

    「――えっ」

     一瞬、息が止まる。ビニール袋を持ったまま硬直したわたしの手ごと、男の人の大きな手が包んでいた。慣れない感触に、わたしの心臓が飛び出していきそうなほど跳ね上がる。それはさっきまで焼きそばを作っていたせいかすごく熱くて、汗ばんでいて、じっと凝視する先で、骨ばった指がするりと手の甲を撫でた。

    「……アンタさ、どっかで会ったこと、ない?」

     麦わら帽子の下で、透けるような薄い水色の瞳が、じっとわたしを見つめていた。
     印象的な垂れ目。顔立ちはどちらかというと童顔なのに、骨ばった手はわたしの手を包み込めるほど大きくて。
     見覚えはなかった。そもそも、青い目の知り合いなんて記憶を失った頃にもいなかったはずだ。外国の人なんて、英語の授業でたまに呼ばれる外部講師くらいしか会ったことはない。

     ――でも、でも。

     どうしてだか、その瞳から目が逸らせなかった。
     ごくりと息を吞む。強い視線。まるで、獲物を見つけた肉食獣みたいな光。
     この目。薄く曇った空みたいな色。見覚えはないはず――そのはずなのに、どうしてだろう。なんだか、ひどく懐かしい、ような―――。

     ――――会ったこと、あったっけ。

    「……な、ない、ですっ!」

     ばっと手を振り払い、ビニール袋を握り締めたまま後ろに飛び退った。
     そんなわけない。こんな人、知らない。会ったことなんて、ない。
     あんなのたちの悪いナンパの常套句だ。わたしったらなに絆されそうになってるんだろう。
     握られていた手が熱い。どくどくと動き出した心臓を押さえ、「あ、ちょっと!」という声を無視して回れ右をして、わたしは一目散に友達の待つパラソルへと戻っていった。




    * * *




     昼食を済ませたわたしたちはそのまま海に出る気も起きずに、パラソルの下でだらだらと食後のかき氷を食べていた。安っぽい氷が先の平たいストローにかき混ぜられてしゃくしゃくと小気味よい音を立てる。正直もうお腹はいっぱいだったけれど、せっかく遠出して海にまで来たのだから、夏を隅から隅まで堪能しないともったいないなんて妙な焦燥感に駆られていた。

    「……にしても、いい人いないねぇ」
    「ホント。あーあ、いい出会いを期待してたのに」

     三人の友人が揃って深いため息をつく。苦笑して曖昧な相槌を打ちながら、そういえば彼女たちはそれも目的のひとつだったかといまさらながら思い出した。
     ひと夏のアバンチュール。旅行先での刺激的な恋。そんな雑誌に載っていた薄っぺらい言葉を振りかざして、わたしたちは普段暮らしている街からうんと遠いこの海までやってきた。もちろんみんな口で言うほど期待はしていない。わたしに至っては誘われたから適当に口を合わせてついてきただけという、目的も何もあったものではないものだった。

     溶けたかき氷を混ぜながら先ほどの出来事を思い出す。昼食を買いに行った出店で、突然手を握られたアレ。大きな麦わら帽子に派手なアロハシャツ、顔ははっきりと覚えてないけれど……獲物を見る肉食獣みたいな鋭い瞳を思い出して、思わず氷を混ぜる手に力がこもった。
     あんな人、全然タイプなんかじゃない。もしかしたらかっこいいかもしれないけど、でも、あんな風にいきなり人の手を握って、強引に誘ってくる人なんて。
     わたしのタイプはもっと優しくて、穏やかで、隣にいて心地いい陽だまりみたいな――。

    「……ウ、ユウっ!」
    「…………え?」

     大きく肩を揺さぶられて、わたしはハッと顔を上げた。キョロキョロとあたりを見回すわたしを見て、友人たちが揃ってほっと胸を撫で下ろす。テーブルの上に乗り出した身体を戻し、隣の友人が肩を竦めた。

    「もう、声をかけてもずっとかき氷混ぜてるからびっくりしちゃった。全部溶けちゃってるよ?」
    「あ……ホントだ。ごめん」

     強く混ぜすぎて飛び散ったピンク色の滴が水着の上に点々と散っている。慌てておしぼりで拭う横から別の友人が口を挟んだ。

    「ユウ、なーんかご飯買ってきてくれてからぼーっとしてない? …あ、もしかして?」
     やけに弾んだ語尾に嫌な予感がして視線を上げた。途端、にまにまと三日月型になった6つの視線と目が合って、ひくりとわたしの口元が引きつった。

    「……え、え?」
    「さっきなんかあったんでしょ!? もー何で言ってくれないの!?」
    「ねぇねぇどんな人? なんてナンパされたの? もうユウばっかりずるい~!」
    「や、ちが……何もないって!」

     三人に一斉に詰め寄られて思わず仰け反る。逃げ場を求めて立ち上がり、座っていた椅子をテーブルに戻してわたわたとおしぼりと貴重品を手に取った。

    「ちょっと水着の汚れたとこ洗ってくるね! シミになっちゃうとやだし…。適当に戻ってくるから先遊んでて!」
    「あ、ちょっとー!」

     引き止める声を背に、振り返ることなく走り出した。今日は逃げてばっかりだななんて思いながら、これまた行列の出来ている女子トイレへと駆けこんでいった。




    * * *




     か弱い被捕食動物は群れで生活をする。いったいなぜか。そんなの決まっている。群れからはぐれた一頭だけでは、捕食してくる敵に太刀打ちできないからだ。
     そんなことを、昔誰かから聞いたような気がする。だから一人で行動してはいけないと、何度も口酸っぱく言われた。いまさら思い出したって遅いのにと心の中でため息をついて、わたしは目の前に立ち塞がる二人の男を絶望的な気分で見上げていた。

    「お姉さん一人? 俺ら男二人で寂しくってさぁ」
    「お喋りだけでもいいから、ね? お茶くらいなら奢るって」

     男たちは揃って日に焼けた顔に胡散臭い下卑た笑みを張り付けて言った。こうもテンプレな台詞を繰り返す人間がいるものかと呆れすら生まれる。逃げ道を探す視線をことごとく遮られて焦りが募る。近道をしようと人の少ない裏を通ろうとしたのが間違いだった。
     スマホと財布を入れたポシェットの紐を握りしめる。相手が二人組では下手に友人たちに助けを求めるわけにもいかない。というか悠長に連絡させてくれるわけも無いだろうが。
     自分で招いたトラブルだ。誰かを巻き込むわけにはいかない。……でも、どうやって逃げよう。冷や汗を背中に感じながら一歩後退った瞬間――意外な声が空気を割って入り込んできた。

    「あーっ! もー、こんなとこにいたんスか!」
     突然、後ろから右腕を掴まれた。聞き覚えのない声にびくりと肩が竦んで、弾かれたように振り返る。
     そこには、さっき海の家で焼きそばを作っていたお兄さんが、垂れ目をめいっぱい吊り上げてそこに仁王立ちしていた。

    「…えっ」
    「オレが上がるまで待っててって言ったでしょ。すーぐ勝手にどっか行っちまうんだから…」

     ぽかんと口を開けるわたしの前でお兄さんはぷりぷりと頬を膨らませる。わたしの腕を掴んで引き寄せる彼を見て、二人連れの男がはぁと肩を落とした。

    「んだよ、男連れかよ…。でもこんなカワイイ彼女ほっとくやつより俺たちと遊んだ方が楽しいって、なぁ?」

     男たちはなおも下卑た笑みを隠そうともせずわたしに一歩近づいてきた。ひっと喉からひきつった声を漏らすと、不意に掴まれた腕がグイッと引かれ、お兄さんがそっとわたしの耳元に顔を寄せた。

    「知り合い?」
    「いっいえっ…」

     反射的に首を振った。こんな人たち、お近づきにもなりたくない。「ふぅん」と納得した声を漏らしたお兄さんにさらに腕を引かれ、よろけたわたしと彼の立ち位置がくるりと入れ替わった。

    「アンタたち、この子に何か用ッスか?」

     すっと、広い背中に庇われた。ぶかぶかのアロハシャツが風をはらんでぶわりと広がる。浮きそうになった麦わら帽子の下で、ふわふわの砂色の髪が揺れた。

    「いや、用って……アンタがほっといてたから遊んでやろうとしたんじゃん?」
    「ほっとくってことは要らないってことだろ? じゃあその子も一人で寂しくしてるより俺らと遊んだ方が――」
    「結構ッス。――もう、離さないんで」

     彼がそうぴしゃりと跳ねのけると同時――グルル、と、獣の唸り声のようなものが響いた。二人組もわたしも思わず周囲を見回す。犬でもいるんだろうかと思ったけれど、影も形も見当たらない。不思議に思いつつ視線を戻すと――二人組の男が、頬を引きつらせながらお兄さんを見下ろしていた。

    「……え」
    「や、あ、あははー。まぁ連れがいんならしょうがねーか」
    「そ、そうだな。うん、行くか」

     二人組の男はあっさりと踵を返し、ばたばたと砂埃を立てて駆けだしていった。唖然と見つめるわたしの前で、アロハシャツのお兄さんが肩越しにこちらを振り返り、人好きのする笑みを浮かべて口を開いた。

    「大丈夫だったッスか?」
    「え、あ、はい……ありがとう、ございます」
    「いーえ。気をつけなきゃダメッスよ」

     シシッとお兄さんは肩を揺らして笑う。笑うと幼くなる表情にどきりと胸が高鳴る。初めてみる人のはずなのに、どうしてだか、久しぶりに見たような気分になった。

    「……で、助けてやったお礼なんスけど」
    「え、お礼?」

     お兄さんがずいっと顔を近づける。仰け反りながら唐突なセリフに首を傾げると、目の高さを合わせたお兄さんの垂れ目がにまりと意地悪く歪んだ。

    「うん。やだなぁ、見返りなしで助けてくれる人がいると思ったんスか? このお人よし」

     お兄さんが嘲るように嗤った。そ、そんなの、押し売りにもほどがある…! 
     助けてくれなんて言ってないのになんてことだ…。自分の迂闊さに頭を抱えつつ、3つの三日月を描く顔を見上げた。

    「お、お金は、あんまり持ってません」
    「あー、金ならいいッスよ。こっちの金なんてもらっても仕方ないし。それよりも、ねぇ」

     ついと、右手で髪をひと房掬われる。湿り気を帯びたそれをほぐすように弄びながら、お兄さんが小首を傾げた。

    「オレと、ちょっとお話しないッスか?」
    「………はい?」

     お兄さんはにこにこと笑って、綺麗な青灰色の瞳を瞬かせた。返事を待つ、というよりも、確認の意味を込めた視線がわたしを見下ろす。
     ……これじゃあさっきの人と何も変わらないんじゃないだろうか。そう思いつつも、恩を売り込まれてしまったわたしは逃れる術を知らず、ため息をついて頷いたのだった。




    * * *




     鮮やかなハワイアンブルーの上に乗ったバニラアイスとピンク色のエディブルフラワー。目の前に置かれたいかにも映えそうなドリンクを見つめ、わたしは椅子の上にカチコチになったまま口を開いた。

    「……あの、本当にいいんですか」
    「何が?」
    「わたしまで奢ってもらって…」
    「ああうん。ひつよーけいひってやつなんで、別にいいッスよ」

     お兄さんがシンプルな本革の財布をひらひらと振って無造作にポケットにねじ込んだ。…なんというか、この人に似つかわしくないブランド物だ。初対面の人に失礼な話だけれど、お札しか入らないようなお財布は持たなそうな印象なのに。
     あまり深くは聞かないことにして目の前のドリンクに向き直る。爽やかなブルーソーダとバニラアイスの境目は徐々に徐々に溶け合い始めていた。淡く濁っていくドリンクを見守りながらバニラアイスを口に含むと甘いミルクの風味が口いっぱいに広がって、わたしは思わず顔を綻ばせて二口目を掬った。

    「……美味いッスか?」
    「はいっ! ………あ」

     咄嗟に元気よく返事をしてしまってハッと口を噤む。赤くなって俯くわたしの正面で、お兄さんが肩を揺らして笑った。




     お兄さんに連れられてやってきたのは、海辺の近くにあるおしゃれなカフェだ。ここの海はリゾート開発が進んでいて、海の家以外にも水着で出入りできるカフェやレストラン、ホテルが充実している。他のお店は混んでいるのに、ここは値段設定が高めだからか若干空いていて、すぐに席に案内された。
     テラス席の隅っこに座って注文を待つ間に友人たちに連絡を入れた。昔の知り合いに会ってと言い訳すると『後で聞かせなさいよ』と親指を立てた絵文字が送られてきた。…誤解、ではないんだけど、盛大に勘違いされたような気がする。後で訂正する努力を思うと今からめまいがする思いだった。

    「シシッ、お友達に何か言われた?」
    「………いーえ、何でも」

     目の前で笑う元凶を睨みながらスマホをしまう。お兄さんはニコニコ目を細めてじっとこちらを見ていた。視線の集中する居心地の悪さに耐えかねて、わたしは無理やりに話題を絞り出した。

    「……帽子、とらないんですか?」
    「ん?」
    「ここ屋根あるのに、その……窮屈、じゃないですか?」

     わたしはおずおずとお兄さんの頭に乗っかったままの大きな麦わら帽子を指差した。お兄さんはわたしの問いに不思議そうに首を傾げ、頭上を見上げながら手をやった。

    「…アンタには、そう見えてるんスね」
    「え?」
    「何でもないッス。これはオレのトレードマークみたいなもんなんで、気にしないで。っていうか、窮屈って何なんスか。普通暑くないかとか、そっちじゃない?」
    「え、あ」

     言われてみれば。…どうして、窮屈そうだなんて思ったんだろう。
     あんなに大きな麦わら帽子なら、頭に対して小さいなんてこともないのに。
     うーんと首を傾げる。けれど、その答えが出る前に、頬杖をついてじっとこちらを見つめていたお兄さんが不意に口を開いた。

    「オレのこと、ガイジンさんですかとか、聞かないんスか?」
    「へ?」
    「今日だけで結構言われたッスよ。日本語上手ですねーとか」
    「あー……」

     どうしてだろう、そんなこと、気にもならなかった。
     麦わら帽子から覗く金髪とグレーがかった青色の瞳。絶対に日本人ではありえない色なのに、そんな彼から発せられる流暢な日本語を違和感なく受け入れてしまっていた。

    「外人さんなんですか?」
    「んー、まぁ、そうかな」
    「どこの国から来たんですか?」
    「……ずーっと遠いとこ」
    「遠い……えっと、具体的な国名、とかは?」
    「言ってもきっとわからないッスよ」
    「そんなの、聞かないとわからないじゃないですか」

     そうだ、聞かないと何もわからない。例え聞いても分からなかったとしても、そんな国が、世界があることなんて、知ることすらできずに終わってしまう。
     そんなのは――嫌だった。
     お兄さんはぱちくりと垂れ目をしばたかせて、ふっと肩を竦めた。
     その唇が僅かに動いて小さな言葉を紡ぐ。無意識に漏れたであろうそれは「…相変わらず、頑固ッスね」といったように聞こえた。
     ……相変わらず? 心の中で首を捻る。彼とわたしは初対面のはずだ。どこかで会ったかと最初に訊かれたけれど、あれはナンパの常套句だったはずで、実際ここまで彼がわたしを知っているような素振りは一度もなかった。
     訝しげに思いつつも、逸らしたら負けだとばかりにじっと凝視し続ける。呆れたように息をついて、お兄さんが口を開こうとして――。

    「お待たせしましたー」

     コトリと、お兄さんの前に透き通ったオレンジ色のトロピカルジュースが置かれた。それから大盛りのパスタとカレーライス、ピザまでもが次々とテーブルに並ぶ。あっという間に美味しそうな食事で埋まったテーブルを眺め、わたしはぽつりとこぼした。

    「……たくさん食べるんですね」
    「まぁね。食える時に食っとかなきゃあもったいないッス」

     お兄さんはシシシッと楽し気に肩を揺らしてスプーンとフォークを手に取った。いそいそと食事を始める彼を唖然と見つめながら、聞き覚えのあるそのセリフを以前どこで聞いたのかをずっと頭の隅で考え込んでいた。




    * * *




     お兄さんが食事をとるのを横目に他愛ない会話をぽつりぽつりと交わし、気が付けばすっかり陽が傾く時間になっていた。一泊二日のつもりで近くに宿をとっていたから遅くなっても問題はない。念のため友人にホテルに直接戻ると連絡を入れると「朝帰りでも問題なし」と薄情な返事が返ってきた。さすがにそこまで軽くはないと一人憤慨しつつ、乱暴にスマホをポシェットにしまった。
     人気の少なくなった海辺を歩く。日帰りの人はもう帰途に着く頃で、あんなに人でごった返していた砂浜は、夕陽を眺めるカップルがまばらに見えるくらいですっかり静かになっていた。
     波の音だけが鼓膜をくすぐる。潮風に吹かれながら眺める水平線は濃い夕焼けに染まって、夕陽を中心にオレンジからネイビーへ移り変わるグラデーションがため息が漏れるほどに綺麗だった。

    「………綺麗……」
    「ん、そーッスね」

     思わず漏れた独り言に返事をされたことに驚いて、弾かれたように振り返る。お兄さんはじっと夕陽を見つめたまま、垂れ目を細めて口を開いた。

    「オレの故郷も夕焼けが綺麗なんスよ。思い出すなぁ」
    「そう……なんですか」
    「うん。海はないけどね」

     お兄さんが笑う。わたしも表情を崩して、夕闇に沈んでいく海に再び視線を投げた。

    「…わたし、海に来るのって初めてで」
    「へぇ。記憶をなくしてる間にも来たことないんスか?」
    「ええと、たぶん。周りにはないって言われました。でも……」

     高校生の頃の記憶がないことは、食事中の会話で伝えていた。そんなセンシティブなことも話題に出来るほどこの短時間で打ち解けられていたことにいまさらながら驚く。ナンパしてきただけあって仲良くなるのは得意なんだろうかと、頭の隅で思った。

    「…でも?」
    「あ、いえ、こういうの、デジャヴって言うんですかね。なんだか懐かしいような気もするんです」

     ほぅ、と、肺に詰まった息を吐く。
     水を含んだまとわりつくような潮風。昼間と違って温度も湿度も少し下がったそれがふわりと服の裾を巻き上げる。今日のために買った真新しいビーチサンダルが打ち寄せてきた波に濡れて、爪先のペディキュアが夕陽を反射してきらめいた。

    「―――本当に、見たことないんスか?」
    「…え?」

     唐突に低い声でそう訊ねられ、わたしはハッと振り返った。
     瞬間、目の前に見慣れない青灰色がずいっと迫って、熱い頬を大きな両手で包み込まれた。
     吐息が重なる。触れそうなほど近くに男の人の顔があることを認識した途端、耳の縁が火が付いたように熱くなった。

    「……オレの秘密、教えてあげる」

     掠れた声が耳朶を打つ。吐息が混じりあうほど近くで、大きな垂れ目がゆっくりとまばたきをする。
     こくりと息を呑んだわたしの前で、お兄さんの目尻がふっと優しく緩んだ。

    「オレ、“まほーつかい” なんスよ」
    「……まほう、つかい?」
    「そ。……だから、アンタの記憶、取り戻してやれるかもしれないッス」
    「っ…」

     とんでもない大口に、わたしは咄嗟に反論しようとした。そんなの無理だ。お医者さんだってお薬だって、たくさん検査だってしたのに無理だったんだから。

     ―――でも、でも。

     どうしてだろう。
     心の中がざわついた。――この人なら、大丈夫かもしれないって、わたしの中の何かが懸命に訴えていた。
     この人なら信用してもいいって……前みたいに、信じていればいいって。

     ……前みたいに?

     やっぱり会ったことがあるんだろうかと記憶を探るけれど、ぽっかり空いた穴の中には何もない。もどかしさと悔しさで涙が滲む。そんな段階は、とっくに乗り越えたはずなのに。
     思い出せない。思い出したい。わたしはきっと―――この人を、知っている。

    「…………あ」

     不意に、お兄さんが手を離した。突然解放されて立ち尽くすわたしから離れ、ぱちゃぱちゃと海の中へ入っていく。
     膝が半分浸かるほどのところで足を止めて、お兄さんはくるりとこちらへ向き直った。

    「……名前」
    「え」
    「そう言えば名乗ってなかったッスね。オレはラギー・ブッチ。ラギー、ッス。アンタの名前は?」
    「えっと……ユウ、です。ラギーさん、ええと…カッコいい名前、ですね」

     わたしがそう答えた瞬間、ラギーさんが、これでもかというほど目を見開いた。
     晴れる間際の空みたいな、くすんだ青色が光を反射する。夕陽に照らされて赤くなった頬。息を呑んだ薄い唇が一瞬わなないて、緩やかに弧を描いた。

    「でしょ。結構気に入ってるんスよ、自分の名前」

     笑っているのに今にも泣きだしそうな顔をして、ラギーさんは優しくそう言った。
     ほぼ半日一緒にいたのに名前も知らなかったことに動揺した。まぁ、所詮一時的に時間を共有しただけの他人だ。ラギーさんには悪いけれど、ひと夏のアバンチュールを楽しむ気は毛頭ない。奢ってもらったことに感謝はするけど、もう会うこともないんだろう。
     ちくりと何かが胸を刺す。――罪悪感、だろうか。ここまで良くしてもらっておいて立ち去ろうなんて虫がいいと、自分の中の良心がご不満らしい。いやいや、もしうっかりついていってしまったら本当に朝帰りになりかねない。そんなの自分から食べてと差し出しに行くようなものだ。売られた恩は、忘れるのが一番だ。
     そうかぶりを振って自分の世界から現実に立ち戻ろうとしたとき、明るい声が鼓膜を揺らした。

    「監督生くん」
    「はい、何です――」

     ぱっと顔を上げて、はたと気付く。
     今、何て呼ばれた?
     自分が呼ばれたと思って返事をしたけれど、よくよく思い返せば違う名前だった気がする。なんだっけ、カントクセイ? 今しがた名乗ったばかりなのに、早速、しかも盛大に間違うだなんて、そんなことある?

     違うと弁明すべきか間違うなと怒るべきか対応に困っていると、ラギーさんがざばざばと無造作に波をかき分けてこちらへ近づいてきた。すぐ目の前に立ってじっと見下ろしてくる彼にさらに混乱して、わたしはとりあえずと自分の名前を訂正することにした。

    「あ、あの……わたし、カントクセイなんて名前じゃ、ないです。ユウです、ユウ。今名乗りましたよね?」
    「あー、うん。ごめんなさいッス。…………まだ、無理か」
    「えっ?」

     ぽつりと落ちてきた独り言にますます首を捻る。『まだ』って、どういう意味だろう。まだも何も、カントクセイだなんて呼ばれていたことは一度もない。必死に頭をかきまわしても、そんな珍妙なあだ名に心当たりはなかった。
     うんうんと唸るわたしに、ラギーさんがついと視線を合わせて言った。

    「そろそろ暗くなるし、帰りましょーか。ホテルまで送るッスよ」
    「え!? い、いや、結構です! 一人で帰れます!!」

     わたしは慌ててぶんぶんと両手を振った。泊っているホテルはすぐそこだし、よく知らない人に泊っている場所を知られるのも嫌だし、何より、うっかり友人たちに一緒にいるのを見られてしまったらコトだ。なんとしても防がなければ。
     固く拒む姿勢を崩さないわたしを見てか、ラギーさんはあっさり「そうッスか」と引きさがってくれた。代わりに何かを取り出してわたしの前に差し出す。ゆっくりと視線を向ければ、それは肩から下げているポシェットに入っているはずの、わたしのスマホだった。

    「……えっ!?」
    「そんじゃ、また会いましょ、ユウくん。オレの連絡先入れといたんで」
    「え、え、いつの間に!?」
    「シシッ。油断大敵ッスよ。じゃ、ばいばーい」

     わたしにスマホを渡し、ラギーさんはひらひらと手を振りながら背を向けた。
     歩き去っていくその背中を茫然と見つめ――一瞬、麦わら帽子が消えた気がして慌てて目を擦る。でも何度見直してもそこには大きな麦わら帽子があるだけで、わたしは首を傾げながら渡されたスマホに目を落とした。
     開かれたメッセージアプリに新しく追加されたハイエナのアイコンが、夏の思い出のようにきらきらと明滅していた。
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