「ねぇ」
ぶっきらぼうな声に顔を上げると、ユウを挟んで反対側の席にいたはずのアイが、ラギーのすぐ真横で仁王立ちしていた。
終業後まもなくのこの時間、フロアには業務から解放されどことなく緩んだ雰囲気が漂っている。まばらに帰宅を急ぐ同僚たちの背中に恨めしげな視線をやる。ああ、珍しく定時で上がれそうだったのに。
ラギーは見えないよう小さくため息をつき、荷物を片付ける手を止めアイの方へ向き直った。
「何でしょ?」
「ちょっと、ツラ貸しなさい」
アイはそれだけ告げると踵を返し、カツカツと甲高いヒールの音を響かせながら出ていった。
…ついてこい、ということか。呼び出される理由は特に思い当たらない。が、部署の先輩の言うことはおとなしく聞いておくべきだろう。
ラギーは軽く肩をすくめて、渋々重い腰を上げた。
連れていかれたのは無人の自販機コーナーだった。飲み物でも買ってくれるのかと思ったら、もちろんそっちにも思い当たる理由はない。何より、アイの吊り上がった目がそうではないと告げていた。
「……何スか、話って」
何も言わないアイに、ラギーはおっかなびっくり切り出した。仕事はもう終わったのだから一刻も早く帰りたい。帰ってやりたいことはたくさんあるのだ。
そわそわと落ち着きなく立ち尽くすラギーをじろりとアイの目が睨めつける。怒られる理由がわからないと顔に書いている彼を見上げ、すぅっと、おもむろにルージュの艶めく唇が開いた。
「…この、変態」
でてきたのは、身に覚えのない罵倒、だった。
言葉の意味が理解できずラギーは目を見開いたまま硬直した。その一瞬の間にアイが一歩詰め寄って、ラギーに掴みかからん勢いで畳みかけてきた。
「この変態、ドS、ケダモノ、DV野郎! なんだってあんな…!」
「ちょちょ、ちょっと待った! いきなり何なんスか!?」
ラギーは慌てて、だんだんヒートアップするアイの怒声を遮った。人に聞かれたら誤解されてしまいそうだ。咄嗟に耳をそば立て声が聞こえる範囲に人がいないことを確認して、猫のように毛を逆立てるアイの顔を覗き込んだ。
「…オレ、アイ先輩にそんなこと言われる筋合いないんスけど。何かしましたっけ?」
身に覚えがまったくなかった。もちろん、アイとラギーはそんな関係ではない。考えられるとすれば酒に酔ってという展開だが、ラギーはもともと酒に弱くもなければ飲みすぎることもない。それに最近は愛しい女性と晴れて恋人になれて有頂天なのだ。一人を愛するので手いっぱいだというのに、さっそく浮気をする時間も気持ちも欠片とてない。完全に濡れ衣、もしや人違いではないだろうか。
冷静に言い返されてアイの方も少しは落ち着いたらしい。フゥーっと長く息を吐いて、ゆるくウェーブする茶色の髪を苦々しげにかき上げた。
「……この間、ユウと近くにできた銭湯に行ったんだけど」
「え、何それうらや……いや何でもないッス」
黙れと刺すような目にラギーは慌てて口を噤む。
自分の口をしっかりと両手で押さえたラギーを確認して、アイは言葉を重ねた。
「時間が遅かったから貸切状態で喜んでたんだけど、服を脱いでお風呂に入る時……私、見たのよ」
「……何を?」
「あの子の、背中を」
ぐっと、悔しげにアイが唇を噛んだ。
ぷるぷると震えること数秒。次の瞬間、再びアイは噴火する怒りに任せ、ラギーのネクタイをぐわしと掴んでぐらぐらと力任せに揺すった。
「あの子の! 真っ白だったキレイな背中が! たっくさんの痣と歯型に! まみれてたんだけど!! あれ、どういうことなのか説明してくれるんでしょうね!!?」
「いたたたたっちょちょちょアイ先輩ストップストップ!!!」
ラギーの悲痛な叫びが廊下にまで轟いた。さすがにやりすぎたと思ったのかアイはすぐに手を離し、しかし糾弾する目は向けたままふんと顎を逸らして腕組みをした。
ラギーは引っ張られて締まった首元を整えながらしかめっ面でアイを見下ろした。
「説明してもいいッスけど、本当に聞きたいんスか?」
「…撤回する。人の性癖にとやかく言う権利もないし、親友の歪んだシュミなんて知りたくない」
「一応弁解しときますけど、別に先パイもオレもああいうのがシュミってわけじゃないッスから。そこは安心してほしいッス」
「………どういうこと。逆にわからなくなったんだけど」
「ただのちょーっと行き過ぎた愛情表現ッスよ」
「あっそ。……まぁいいわ」
はぁ、と、アイが深々とため息をつく。結局余計なものを垣間見てしまって頭が痛くなる思いだった。
「…………怪我じゃ、ないのね」
「当然。オレが先パイを傷つけるわけないでしょ」
「そんなだから信用できないのよ。傷じゃないならいい。ただし、今後あの子の痛がることはしないで、絶対に。……もし、あんたがあの子を傷つけたら……」
アイがラギーを睨む。ラギーはそれを冷静な目で正面から受け止める。
自分が彼女を傷つけるなどありえない。これ以上なく愛しているのに、そんなこと、あるわけがない。
絶対的な自信をもってアイを見つめ返すラギーの耳が、ふいにぱたりとはためいた。
「…あ、いた」
小さな足音と共にひょっこりと顔を出したのは、話題の中心たるユウだった。
アイの顔から怒りが消える。こういう切り替えの早さは女性特有だなとラギーは心の中でひとりごちた。
「ユウ!」
「こっちの方から声がしたからいるのかなって。…ごめん、邪魔しちゃった?」
「ううん、もう終わったから大丈夫。戻るわよ、ハイエナくん」
「はぁい。……あ、アイ先輩」
歩き出したアイの肩をラギーが軽く叩いて引き止める。
足を止めたアイの耳元に口を寄せ、ラギーはふっと口元を歪めて囁いた。
「…ある意味『キズモノ』にはしちまったんで、その分の責任はちゃーんととるッスよ」
「……!?!!??」
ぽんと肩を叩いてアイを追い抜く。
「先パ~イ♡」と甘ったるい声を出して駆け寄った後ろからなにやらどつかれたような気がしたが、気にしないことにした。