ペンギン散歩道 アクアリウムと、反射して揺れる光と影が織り成す美しい青の世界。水族館は俺のインスピレーションを刺激する最高の空間である。
俺は油彩で生き物の絵を描くことが好きだった。だから、ときどきここで描くものを決める。今日もそういう理由で来ていた。
仕事を定時で上がれたものの、閉館の手前に来てしまったので人は少ない。ゆっくりと見る時間がないのが惜しいが、邪魔するものがないのはありがたい。
しかし、そんな中で気になるものを発見してしまった。あまりにもおかしな“それ”について聞くために飼育員さんを呼ぶことにした。
「すみません!」
俺が声をかけると、青髪の飼育員さんとその横にいたキングペンギンが動きを合わせてこちらを向いた。俺と目が合うと、そのまま小走りで目の前まで来てくれた。ペンギンもしっかりとそのあとを着いてきていた。
続けて俺の言葉が出る前に、飼育員さんが口を開いた。
「……どうかなさいましたか?」
「あの、ペンギンの館内散歩は今日の分すでに終わってましたよね?そこにペンギン、いますけど……」
俺がそう言って指をさしたのは、まさに先程こちらを振り向いてくれたペンギンだった。しかもその子がたっているのはガラス越しではなく、客側の通路である。
飼育員さんはまるで何度も聞かれた質問だと言うふうに、ため息をついて呆れた。その後、俺に向き直ると人当たりのいい表情に戻った。
……俺はその雑な所作を見て、なんとなく子供っぽい人だと思った。
「この子のことですね?お客様の仰る通り、ペンギンの館内散歩のプログラムはすでに終わっています。でもこの子は特別なんです」
飼育員さんがそう言うと、それに合わせるようにペンギンが「クァラララァ!」とサイレンのような声を出した。ちょっとうるさい。
「そもそも、ペンギンの散歩はプログラムであると同時に、ペンギンの健康を守るための運動にもなってるんです」
「へぇ、そうなんですね。散歩をしないとどうなるんですか?」
飼育員さんは右足を前に伸ばし、踵でトントンと地面を蹴った。
「趾瘤症(しりゅうしょう)っていう足の病気に罹ってしまうことがあります」
「じゃあこの子は散歩に参加しなかった子~……とかですか?」
話題に上がったペンギンはフリッパーをパタパタと振り、伸びをした。
「……見たかんじ、アクティブそうな子ですけど」
すると、飼育員さんは呆れたように笑った。ペンギンを見つめるその表情は優しかった。
「そう。元気なんです。さっき散歩してたら、色んな物に興味を惹かれて結局途中で帰ったんですけど、ちょっと時間が経ったらドアの前で出待ちしてたんです。それでなんとなく、散歩し足りないんだなぁと思いまして」
「それはかわいいですね」
「かわいいんですよ。今日はお客さんも少ないので一緒に散歩してるんです。運動できるのはペンギンにとってもいいことですからね」
俺はそのちょっとレアな現場に立ち会うことができたのかと少し嬉しくなった。それにしても、ペンギンと水族館を回るなんて素敵だ。
「いいですね。ペンギンと、水族館デート。ロマンチックじゃないですか」
「デートって……はぁ、こう見えても俺もこの子も男なんですけど」
「おや?……あはは、それは失礼しました」
「……」
飼育員さんはむっとした表情になった。
俺はただ冗談を言っただけであり、声質でこの人のことを普通に男だと判断していた。しかし、改めてしっかりと男だと強調して言われると、男にしては顔が綺麗でたしかに少し中性的な雰囲気があった。正直サンバイザーに隠れてよく見えないが。
反応から推測すると、性別をたまに間違えられるのだろう。それをよく思わないのであれば、まずそのゆるふわな髪型をどうにかすればいいのでは?とも思うがそんなこと言うわけにはいかない。
などと考えながら髪の毛を見ていたが、ふとあることに気がついた。
「でも、その黄色のメッシュ、イワトビペンギンとかの飾り羽みたいですね。ペンギンお好きなんですか?」
気になったことを聞いてみると、飼育員さんは驚いた顔をした。
「え、あぁ、まぁ、好きですけど……そういう事情ではないです」
「あ!そうなんですね……」
何故か訝しげな表情を向けられて、ドギマギとしてしまう。これでは余計に不審だが、仕方がないだろう。ここまで警戒される理由もわからないのだから。
「……あの、ペンギンもまだ散歩したいみたいですし、そろそろ失礼しますね。後はごゆっくりお楽しみくださいませ」
「あ、ちょっと待ってください。そのペンギンの散歩ついてっていいですか?」
「エッ……」
俺が咄嗟に申し出るとあからさまに嫌な顔をされた。
なんとなく、この人は他人と関わることがあまり好きではないように見えた。しかし、少しだけ興味を引かれる何かを持っている。
1人を好む人には独特のオーラがある。この人も表面上は穏やかで接しやすいが、そのオーラが感じられた。
あとこの人、水族館の雰囲気と相まってめちゃくちゃ神聖な生き物に見える。まさに水族館にいるべき存在と言っても過言ではないくらいに、この場所に馴染んでいる。
だから少し気になった。俺のインスピレーションが刺激されるし。
――もっと話を聞きたい。
しかし、飼育員さんは渋い顔で地面を見ていた。
そこまであからさまに嫌な顔をされるとちょっと傷つく。ただ、この人がそういった他人との関わりを嫌がっていることに勘づいていながら声をかけてしまった自分が悪い。
「……えぇと、じゃあ僕と一緒に水族館回りますか?ペンギンのペースに配慮しなきゃなりませんし、閉館も近いのであまりオススメはしないんですけど……」
「……!回ってもいいんですか!」
拒絶の意志を感じつつも、思いもよらない反応に少し食い気味に返事をする。
一方げんなりした顔の飼育員さんはため息をついた。ちょっと客に対して失礼すぎる気がするが、まぁ無理もないだろう。
しかし、向き直った飼育員さんの表情はキリッとしていた。……まるで何かのスイッチが入ったように。
「一緒に回りますが、僕はボランティアなんです。だから、少なくとも自分の野望を叶えるためにここにいるってことになります。お金もらってないんですから」
急になんの説明だろうか。ボランティアということは飼育員ではない?
俺が不思議に思っていると、飼育員さん(?)はそのまま続けた。
「そういうわけですので、生き物の今置かれている状況についてしっかり解説していきます。僕はその“ガイドのためのボランティア”です。覚悟しておいて下さいよ」
飼育員さん(?)が力強い眼差しで見つめてきた。さきほどの面倒くさそうなオーラが消え、メラメラと燃える情熱さえ感じた。
……この人ガチだ!
「僕のことは美波って呼んでください。短い時間ですが、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
ガラリと変わった雰囲気に圧倒され、弱々しく返事をしてしまった。
しかし、「美波」という名前に聞き覚えがある。どこで聞いたのだろう。知人にはいないはずだったけれど……?
考える俺を置いてスタスタ進んでいく美波さん。閉館が近いから早く追い出したいのだろう。後ろをついて歩くペンギンは、よたよたとゆっくりとした足取りでついて行く。もう少し配慮して合わせて歩いてあげてもいいのではないだろうか?
美波さんが足を止めたのはサンゴの水槽だ。
「サンゴだけの水槽って、地味だと思いませんか」
美波さんはこちらを向いて問いかけてきた。そして、目の前の水槽を見上げてみた。
横に長い大きな水槽には、巨大なサンゴが展示されている。そこには色とりどりの魚がたくさん泳いでいた。俺はここの水槽が好きだが、どうしてサンゴだけの展示の話になるのだろうか。
とりあえず、この水槽から生き物が居なくなった姿を想像してみる……静かではあるが、インスピレーションに響くものがあった。
「生き物の生活環境のみの展示……でしょうか?俺はこういうの好きですよ。よく絵を描くんです。こういう、海の中を想像して……」
俺がそう言うと、美波さんは少し驚いた顔をした。その表情にはやはり子供っぽさがあった。彼はボランティアと言っていたが、実は子供なのだろうか?
美波さんは考え込むように水槽を見つめると、その瞳に少し光がさした。――まるで、何かに気づいたように。
「サンゴって、動いてないですけど刺胞動物と呼ばれるれっきとした“生き物”なんです。水族館では背景のように展示されていますが、魚よりよっぽど飼育が大変なんです」
俺は水槽を見ながらその説明を聞いた。
「地球の7割が海なんです。その大自然をこの陸の小さな建物に再現するのは難しいことなんですよ。それでも、お客さんはサンゴだけの水槽を見てガッカリするんですよ。俺が伝えたいのは、そんなものじゃない」
美波さんは俺に向き直ると、じっくりと俺の目を見た。サンバイザーで見えづらかった瞳はその瞬間、まるで獲物を見つけたサメのようにオレンジに煌めいた。
「……この水槽が自然に近づくために、今まで多くの努力をしてきました。サンゴは自分で動けないので、海流と日光がなくては生きられないんです。それを再現したところで、普通のお客さんにとっては背景と何ら変わりない。水族館ほとんどの要素が、大自然の一部を切り取って構成しているというのに……」
聞いていると、本題から少し逸れているような気がして疑問に思う。話がちぐはぐしているというか……でも、どうしてか、そのときは真剣に聞いてしまった。この人の目に何か仕掛けでもあるのだろうか。
「けど、貴方には、自然の海の魅力を伝えられるでしょう?」
俺の目頭がひくりと動いた。
「水族館の存在意義は種の保存です。でも、ここに珍しい生き物を閉じ込めていること自体が正解なわけじゃないんです。貴方がた、ここに来たすべてのお客様に、海を守ろうという意識を芽生えさせることに意味があるんです。少なくとも、俺はそう思ってます」
俺に絵を描いて魅力を伝えてくれということなのだろうか。
「なるほど、これからは俺ももうあなたの仲間なんですね。美波さん」
「は……?」
美波さんはそこで子供のような表情に戻った。心做しか横にいるペンギンも首を傾げているように見えた。
「だって、俺に海を描いて海の魅力を伝えろって言ってるんですよね!」
「え、あ?いや、貴方が絵を描いていると仰っていたので、話を都合よく組み合わせたってだけですね……。要はそういう俺の理念を踏まえてから俺のガイドを聞いて欲しいってことです」
なんだか冷めた返答にちょっとだけ傷ついた。
「へ?……えーっ!俺なら自然の魅力が伝えられるって言われたとき、絵描きとしての心がめちゃくちゃ燃え上がったのになー!」
「はぁ、あ、いえ、それでいいんです。まぁ、貴方の言った通り、僕と貴方と……それから館長もこれからは仲間です。生き物を守るための」
美波さんはそう言って、今までより和やかに笑った。その表情に間違いなく見覚えがあった。これは一体……?
考える間もなく次の水槽へと進んでいく美波さんを追いかけ、妙にソワソワする気持ちを抑える。
しかしこのガイド、無料でいいのだろうか?変わらず横で解説する美波さんと、落ち着いた様子で水槽を眺めるキングペンギン。
「チンアナゴってすごく人気ですよね。混同しちゃいがちなのが、このオレンジのシマシマの方で、よく模様の違うチンアナゴと言われるんですが、全くの別種なんです。難しい話をすると、チンアナゴはチンアナゴ属、ニシキアナゴはシンジュアナゴ属で――」
色とりどり泳ぐ魚の中から有名なものをピックアップして解説が進められる。俺は一応相槌を打ちながら聞いていたが、自分の中での海の中のイメージがより鮮明なものとなっていった。ここでならめちゃくちゃいい絵が描けると思う。
美波さんの解説は止まらない。
「ここにいるルリスズメダイなんかは、観賞魚として有名ですよね。こんな綺麗な青色が自然にも存在するというのに……工業排水や戦争に使われなかった毒兵器をそのまま海に流していた時期のことを考えるとゾッとしませんか?頭がおかしいとしか……コホン!いえ、貴方に言ってもどうにもなりません。失礼しました。進んでいきましょう」
美波さんは本当に海が好きなのか、ちょいちょい自分の世界に入ってしまうところがあった。キングペンギンも少し心配そうな眼差しを向けていた。
少し進んで、提灯が辺りを淡く照らすトンネルに入った。お祭りのような装飾に金魚が泳いでいる。
美波さんは心底嫌そうに顔を顰めた。
「俺金魚すくい好きじゃないんですけどね。でも、この展示はお客様の評判がすごくいいんですよね。ほんと趣味悪い。……あ、いえ、このパネルの図を見てわかる通り、金魚は交配や突然変異によって種類を増やした観賞魚です。だから同じ金魚でも、品種によってはとても希少で、高価になってしまうことがあるんです」
驚くほどさらりと本音を零すのでつい笑ってしまう。それに気づいたのかその後は至極真面目に解説していた。
金魚は日本で一番と言っていいほどメジャーな観賞魚だ。俺はそこまで目を向けていたわけではないが、申し訳ないことにこの展示で見るとより一層の美しく見えた。美波さんからしたら、俺は趣味の悪いお客様の一人となってしまった。ちなみに、俺は金魚すくいが好きである。
「金魚って結構奥深いんですねぇ」
「まぁ、多様性という意味では俺もすごく面白いと思うんですが、やっぱ人口交配とかちょっとキモチワルイと思います……」
俺は吹き出しそうになるのを必死で抑えた。
次にあったのは深海魚のゾーンだ。黒いトンネルから続いて、黒ずくめの展示である。
深海の魚は半透明だったり、不思議な形のエビであったり、宇宙にでも行った気分になる。
「タカアシガニが歩いてますね。動いてるの珍しいですよ。ほら」
美波さんにそう言われて水槽を見た。タカアシガニや他の魚も元気よく動いているようだった。なんだかテンションが高い。
「深海の魚を見るとわかるんですけど、赤い魚ってこの水槽で見ると見えづらいじゃないですか。一見目立ちそうな色ですが、実は海は赤い光を通さないんです。つまり、海底だと赤い色は見えないんですよ。陸上だと赤い血液も、海底だと真っ黒なんです」
何故血液で例えたのか。少し冷や汗をかきつつ、その他の解説には感心して聞いていた。
「深海の魚は「赤」って色を見た事がないんですね。ぜひ、見てほしいですね」
「……余談にはなってしまうんですけど、カメの色覚なんかは人間よりも多いという話も聞きますよ。一般的には人間は三色型色覚といって、赤、青、緑に反応する錐体を持っているのですが、カメや爬虫類には四色型色覚と言って、赤、青、緑の他に黄の錐体を持っているものがいるそうですよ。それらは人間よりも多くの色を識別できるんです。きっと魚の見ている世界も人間には想像もつかないですね」
俺はそこで思い出した。世界には四色型色覚のアーティストがいるということを。俺はそれを知ったとき、その人が見ている世界を見てみたいと思ったのだった。
美波さんは意図しているのかはわからないが、絵描き心をくすぐるのがなんとも上手である。
「じゃあ、次はうちのメイン水槽とか言われてる「アクアドーム水槽」ですね。そこから通路が少し枝分かれしてるので、俺はそこから一旦ペンギンを帰してきます。またここで合流しましょう」
キングペンギンは同調するように鳴くと美波さんに着いていった。俺は追うように歩みを進め、開けた場所に出た。
美波さんの言った「アクアドーム」とはこの水族館の名前であり、メイン水槽の名前である。暗いトンネルを抜けた先には、巨大なドーム型の水槽があった。
この水槽では、エイが空を飛ぶように水槽を泳ぎ、小魚が大きな魚を避けて巨大な群れを作っていた。大自然の海の中に落っことされたようで、夢のような空間である。
水面まで伸びる巨大な藻が揺れ、岩礁には魚が住み着き、サメなどの大きな魚が雄大に泳いでいる。そして、水槽の上から直接日が差しているのかと思うほど、眩しい光で照らされていた。さすがに夕方ということもあり、上からの光は抑えめで床から間接照明の光が出ていた。
さらに、枝分かれした道の先に簡易的なカフェがある。ドームの形に沿ってベンチとテーブルが何個か点在し、ここで食事をしながら時間を潰せるようになっている。
俺もたまにここで時間を潰すが、水族館のぼったくり価格と人の混み具合のこともあってカフェを利用するのは稀である。
しかし、今は人がおらず優雅に時間を過ごせる。カフェはさすがに閉まっていたので、ひとまずはベンチに腰を下ろした。
程なくして帰ってきた美波さんは、俺を見て「満足しましたか」と言って経路を進んだ。
美波さんの急かすような態度はさっきから続いていたが、特にここにはあまり長居したくないのかもしれない。なんとなくそう思わせる気迫があった。
古代魚のゾーンに入ると、また美波さんの様子が変わった。ペンギンを置いてきてから少し機嫌が悪そうだったのが、心做しかテンションが上がったように見えた。
閉館が近いので全ての水槽を解説するわけではなかったが、このスペースだけは一瞬足を止めて眺める仕草が見られた。俺が好きなのはサンゴ礁の色とりどりの魚たちだが、どうやら美波さんは古代魚が好きなようだ。
「アロワナっていいですよね。いや、なんか、すごく、好き」
美波さんの語彙力が消え去った瞬間だった。
「アジアアロワナは少なくとも5600万年前からほとんど形を変えずに、現世まで種を守り続けてきました。ロマンを感じませんか?」
「あは、たしかにそれはロマンを感じます。美波さんも男の子らしいところあるんですね」
「からかってんですか?そういうの嫌いです」
「そういうわけじゃないんだけどなぁ」
俺に向き直った美波さんは少し考えてから再び説明に入った。
「一般的に知られるアロワナは……本当にリッチな層が飼うような観賞魚であるのはご存知ですよね。値段は高いのに、その後の維持費も設備もとにかくお金がかかります。……なんというか、特に生き物好きでもないのに、自己顕示欲のために飼ってる人も少なからずいると思うんです」
「それはまぁ、たしかに。家にアロワナいたらちょっとリッチな感じがしちゃいますよね」
「だから嫌なんですよね。ただの高級な魚って認識なのが……。この時代まで同じ遺伝子を紡いできたことのすごさを知ってほしい……」
あれだけ海が好きで何故ここまでアロワナ推しなのか意味がわからなかったが、たぶん美波さん自身もアロワナを飼っているのだろう。それを言わないのは「自己顕示欲」と思われるのが嫌なんだろうが、この子は誰よりも立派なアロワナを育てているはずだ。
「美波さんはアロワナ好きなんですね」
「違う……アロワナは絶滅危惧種なんだ。販売されてるのはすべて養殖個体だけど、だからってそれで納得するべきじゃない……俺は自然の多様性を守りたいんだよ……」
その言葉を聞いて、美波さんの言っていた「野望」とはこれのことだったのかと、今更のように気がついた。思えば最初から自分の「理念」を説明してくれていたのに、どうしてか俺はずっとただの生き物好きだと思っていた。しかし、どうやら認識を改める必要がありそうだ。
考えてもみれば、美波さんはちょいちょい人間の過ちをディスっていたが、それは全て自然の多様性を失うような行為に対してだった。
優しいんだか、辛辣なんだか、不思議でよく分からない人間だな。
「美波さんは真剣に生き物と向き合ってる」
「今更ですか?俺にしてはかなり丁寧に解説してたつもりなんですけど」
「いえ、いえ、俺が思ってた以上に美波さんが生き物を大切にしてるんだなと、改めて感じただけですよ」
そう言うと、ものすごく顔を顰めた。褒めてもこの子には響かないのだろう。
「俺は別に、あんたに感心されるためにガイドしてたわけじゃないんだけど」
見るからにイライラしている!たぶん、本性が出ているのだろう。先ほどまでとは口調が明らかに違う。
「まぁいいや。貴方にはたぶん、俺が何を伝えたいか、伝わったはずなので。でも俺のガイドはここまでにします。もう、あと5分で閉館なので」
「えっ……」
そこで時計を確認した。今の時間は5時55分…………
「うわぁぁ!すみません!すぐ出ます!」
「はい、ありがとうございました」
美波さんは小さく手を振った。そのまま俺は走って古代魚ゾーンを抜けた。そこでふと振り返ってみると、美波さんの目の前の水槽にいたピラルクが大きく跳ねた。
目を奪われている隙もなく足を動かし、程なくして出口までたどり着いた。そこにはまた従業員がいた。
「遅くなってすみません!」
「あら、そんなに慌てなくていいですよ」
「あ、あれ……?」
その従業員は青髪をポニーテールでまとめた女性の方だった。名札には「美波」と書いてある。一瞬にして頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。
「え、あれ、美波さんって……」
「はい、私は館長の美波雪と申します」
「あっ……あ、あぁ!!!」
そこで俺は気がついた。さっき美波さんと会ったときに抱いた既視感の正体は、この館長の「美波雪」さんの存在だということに……。
水族館のHPには館長の顔写真と、水族館の経営方針についても書いてあった。そこで見た「美波」という文字と、この青髪が俺を混乱させたということだ。しかし、まるでこれでは親子のようではないか?
「……?あ、お客様、もしかして“美波彗くん”に会いましたか?」
「え、いえ、フルネームは教えてくれませんでした……」
「あらあら、彗ったらもう……乱暴なこと言われませんでしたか?」
「いえ、むしろ為になるガイドをたくさんしてくれましたよ!」
少々乱暴であったことは隠した。それ以上に価値のある知識を与えられたのは間違いないので。
しかし、それを聞いた美波さんは驚いた顔をして固まってしまった。
「彗がお客様にガイドを……」
「あの、気になってたんですが雪さんと彗さんの関係って……」
固まっている美波さんには申し訳ないが、ものすごく気になっている。この2人は親子なのか?兄弟なのか?はたまた夫婦なのか?
「そうねぇ……。彗は私の息子ですよ」
「やっぱ親子……え、息子さん何歳なんですか!?」
「16歳です」
「え、え、えええええええええええええええええ!?!?!?」
驚きのあまり大声を上げてしまう。子供っぽいとは思っていたが、16歳だとは思わなかった。16歳であのガイドができるなんて……立派すぎやしないか?
「基本的に彗は裏方なんですけど、今日はペンギンの散歩をするとか言って表に出てましたね。うちの息子のガイドなんて滅多に聞けないですよ」
「へ、へぇ……なんかラッキーでした」
「ふふ、ラッキーでしたね」
雪さんの笑顔が、彗さんの穏やかな笑顔と重なった。
「とりあえず、息子さんにお礼言っといてください。とりあえず、お駄賃に……」
俺がおずおずと2000円差し出すと、美波さんは慌ててそれを仕舞わせた。
「とんでもないですよ……!彗はお金じゃ喜ばないですし……!」
たしかに、ボランティアって言ってたな。しかし、何か形に残るものでお礼がしたい。
「彗へのお礼でしたら、生き物を守るための活動に参加することです。水族館の公式アカウントがあるので、イベントの情報などをここでご確認ください」
「それに参加すればまた会えますか?」
すかさずそう聞くと、美波さんは渋い顔をした。
「どうでしょうかねぇ……でも、近くから見ているのは間違いないので、彗へのお礼になるはずです!」
「そうですか……ありがとうございます!」
「いえ、こちらこそありがとうございました!またのお越しをお待ちしております!」
そう言ってお互いに手を振った。
今までの不思議な時間が蘇り、絵のイメージが膨らんだ。これはきっと、美波彗さんのお礼にもなるだろう。俺には、この大自然の魅力を伝える術があるのだから、存分に使わせて頂こうと思った。
黄昏に染まる赤紫色の海を見ながら、俺は帰路についた。