もしも🍽で働かなかったらifヴィロその日、ヴィンセントはレストランで提供する新メニューのために御用達の食料雑貨店へ向かっていた。普段通っていた道が、生憎工事によって通行止めされてたことが理由で少しばかり遠回りをしたために、いつもの日常の中で見ているものとは違った道、異なった風景、まったく変わった雰囲気がヴィンセントを迎える。ヴィンセントにはそれが何故だか新しいものでは無くむしろ不気味に思える様な、そんな感覚を抱いていた。
そうした感覚を隅に、普段よりも幾ばくか遠くなったその道をフラフラと辿っていた時であった。
「ねえアンタ、腹減ってない?」
良ければうちのハンバーガーはどう、と声を掛けてきた男がいた。きっと制服のデザインなのだろう。ハツラツとした原色に近い、橙を基調としたシャツに少年のような黒の短パン、白いエプロンを雑に腰にかけ、更には同色のローラースケートまで履いているといった如何にもファストフード店のスタッフですと主張している、そんな格好をした男はペイントが施された矢印型の看板を脇に、つい立ち止まってしまったヴィンセントの快い返事を今かと待ち構えているような様子だった。
普通であればもしかしたら、確かにそうかもしれないですねと笑って返事でもして、少し食べていこうかなと寄るのかもしれない。だが、ヴィンセントは一寸たりともそうは思わなかった。否、そう思えなかったと言うべきだろうか。
ヴィンセントは一つ重大な問題を抱えていたからだった。
ヴィンセントには"味覚"がない。
生物の三大欲求の一つである食欲を満たす要となる味覚。
そんな重要な部分が彼には欠けていたのである。
故に、ヴィンセントは食への関心が常人よりも著しく少なかった。幾ら何を食べようが微かな味もせず、油粘土でも食しているのかの様に錯覚させ、挙句には吐き気さえ催される。
それほどヴィンセントには味覚というものが無かった。ただ、唯一レモンのような強い刺激を持ち、あの"味覚"というものを思い出させてくれる食べ物だけが、ヴィンセントにとっての貴重な好物になる程だった。
「あー、いや…残念だが、お前が言うそのハンバーガーってのは俺には合わないと思う。」
ヴィンセントには一切申し訳ないという気持ちは無かったが、取り敢えずは彼に反応してしまった以上一言返事をすべきだろうと思い、そう応えると、
「…もしかして、食べたこと無かったりする?」
予想していた回答とは大それた返事が返ってきたのだろう、男は文字通り豆鉄砲を食らった鳩のような表情をして、そのようなことを恐る恐る聞いてきたので、ヴィンセントは少し鼻についたような気持ちにさせられた。そんな奇妙な顔をするほどに自分のような存在が珍しいのか。確かに、味覚の問題で食への関心が無いあまり、日頃から必要最低限の栄養が取れる分の食事で済ませてきていることもあるが、そもそもヴィンセント自身の職業柄ファストフードというものには一度も手をつけたことは無かったし、つける気すら無かった。
ヴィンセントがどう返答すべきかといまいち考えあぐねていると、男は突然何か素晴らしいことでも閃いた少年のような顔を見せて、そして笑顔で再びヴィンセントへと声を掛けてきた。
「お兄さん、ここでちょっと待っててよ。すぐ戻るから!」
そう一言だけ言い残して、店の中へと走り込んでいく男の後ろ姿を、ヴィンセントは呆然とした顔で眺めた。
正直な話、ヴィンセントは出来ることならさっさと目的の場所へ向かいたかった。というのも、自身の構えたレストランが大方軌道に乗っているとはいえ、そこで振る舞っている料理の調理以外は全て一人で回している影響で、中々どこかへ行くような纏まった時間を作ることが難しかったからだ。
今日はたまたま、こうして用事を済ませる為の時間を作ることが出来ていたので、だからこそ尚更一刻でも早く用事を済ませたいという気持ちが強かった。一体彼はいつ戻ってくるのか。無視して帰ることも出来たのだが、どうしてかそうしようと思う気持ちはヴィンセントには湧かなかった。
本当はそれほど時間は経っていないのだろうが、先程挙げた理由もあって、気の遠くなりそうなほどに時間が経っている様な感覚が漠然としてヴィンセントにはあった。
…どれほどの時間が経ったのであろう、突如として扉が大きな音を立てて勢いよく開き、そして紙包みを一つ片手に持った例の男が再びヴィンセントの前へ姿を見せた。
「これ!タダで良いからさ、一度食べてみて!」
「……どうも。」
…まさか、ここのボスはこんな見ず知らずの人間にタダで料理を与える事を許すのか、と小さく呟きながらも真っ直ぐな善意を持って渡されている以上、ヴィンセントは紙で包まれたそれを渋々ながらも受け取る。これもどうせ味はしないのだ、そう考えてヴィンセントは適当な場所で捨てるなりしようと考えていたのだが、どうやら男はヴィンセントが口にする姿を見てみたいらしい。男からどこか期待しているような、見た限りの年齢とは裏腹に子どものようなキラキラとした明るい眼差しを向けられていることに気がついたヴィンセントは、あまりの居心地の悪さに一瞬躊躇ったが、どうにも仕方なくただ一口だけ、紙包みに包まれていたまだ温かいハンバーガーを口にする。
味なんて無かった。
「大丈夫、こういうのボスは気にしないしさ!」
どうやら先程の呟きは男の耳にまで届いていたらしい。それに大親友みたいなもんだし、と何故か誇らしげな顔で語る男を横目に、これ以上ここに立ち止まっていては果たせる目的も果たせなくなるだろうと思い、形ばかりの感謝を伝えヴィンセントは急ぎ早にその場を去ることにした。
口の中が気持ち悪い、そんな不快感を抱えながら。
あれから暫く歩いて見つけたゴミ箱へ、乱雑に紙包みを投げ捨て、唾を吐き捨てる。幾ら善意で、またタダで貰ったものであったとしても、ヴィンセントにとってそれは味のしないただの有機性の塊でしかなかった。