とある料理店裏での出来事「……勤務中にそんなことが出来るなんて、お前はよっぽど暇なようだな」
背後から不意に声を掛けられ、オレは一瞬肩を跳ねさせてしまった。幸いなことにどうにか声をあげることは無かったので、現在進行形でオレへ痛いほどの視線を向けてきているだろう彼には、オレが驚いたということには気づいていないと願いたい。
「はは……ヴィンセントさん聞いてください、オレは別にサボろうとしてた訳じゃ無いんです、ただ、その───」
「私はお前の言い訳が聞きたくて声を掛けたんじゃない」
彼──ヴィンセント、オレの働くレストランのオーナーだ───に、咄嗟に今こうして裏にいる理由を話そうとしたが、呆気なく遮られてしまう。きっとこのまま黙っていれば彼から説教を食らうだけでは済みそうにない気がして、どうにか再び事の顛末を話すことを彼の方へ振り返りつつ試みる。
「言い訳じゃなくて、ただ……この猫がケガをしていたので助けてあげようとしただけなんです」
そう、オレはたまたまゴミ捨てをする為に裏に向かったら、この黒猫が佇んでいるのを見かけたのだ。
ただそこに居るだけなら、オレだってこんな勤務中にちょっかいをかけようだなんて思わない。でも、今回は無視する訳にはいかなかった。どうやらその猫がケガをしていると分かったからだ。四肢の何処かから血が出ているらしく、恐らくここまで歩いてきただろう方向には、歪な肉球型の血痕が遺されていたのだ。それでオレは、猫に応急処置をしてあげようとどうにか奮起していたところを彼に目撃されてしまったという訳だ。
やけに彼の顔を見るのが怖くて顔を向けられない。
多分、彼から見たら今のオレはかなりの挙動不審だと思うが、そんなことを気にしている訳にはいかない。なんだって説教だけでなく減給までされたら、オレ自身かなり困るのだ。それも色々な理由で。
「ヴィンセントさんの言う通り、まだ勤務時間なのに仕事以外のことをしていたのは謝ります、でも……」
どうか減給だけは、そう言いかけたところで突然彼はこちらに近づいてきた。また驚いて、さっきまでずっと泳がせていた視線をつい彼の方へ向けると、オレの想像とは違ってどうやら彼はそこまで怒った顔をしていたわけではないようだった。というよりも、おもちゃを取られた子供のような不満を抱えた、そういった例えの方が合う気がする表情をしていた。そんな顔をした彼を見て、三度も驚き動けずにいたオレの横を彼は真っ直ぐ通り過ぎる。どうやらオレの少し後ろにいるはずの猫の方へ向かったようだ。
ハッとして、オレがすぐさま振り返ると同時に突然大きな唸り声が聞こえてきた。どうやら猫が近づいてきた彼に対して威嚇したらしい。僅かに驚いたような様子で中途半端に片手を向けたまま動きを止めている彼の後ろ姿と、さっきまでずっと大人しかったあの黒猫がまるで全く違う猫のように牙を剥き、そして文字通り必死に威嚇をしている様子が目に映った。そして次の瞬間には、猫は目にも留まらぬ速さでオレの横を走り去っていったのだ、前脚を怪我していたのにもかかわらず。たった数秒の出来事の後に、オレと彼の間には何とも言えない気まずい雰囲気が流れる。正直、オレはいつも何を考えているのかいまいち分からない彼のことがどうにも苦手だったので、今のようなこんな状況になるのはかなり勘弁して欲しかった。
「あの……大丈夫ですか、ヴィンセントさん」
どうにかこの状況を打開すべく、とりあえず彼に声を掛けてみる。もうどうにでもなれという、そんな感じだった。
「……あぁ、特に引っ掻かれてたりはしていない」
そう一言だけ返されて、再び静寂に包まれる。あの気まずい雰囲気は未だ残ったままだ。彼のあの底の見えない真っ黒な瞳がオレに向けられたまま動かないので、ほんの少しだけ、怖いと思ってしまったのはここだけの話である。オレはどうにかしてもう一度何か会話を始めたいと、何とか喉を振り絞って声をかけようとした。だが、それが間違いだったのだと気づいたのは声を出したその直後だった。
「なんというか、あの、ヴィンセントさんって結構猫に似てるなと思うんですけど、猫にはあんなに嫌われてるって意外というか……はは」
ついオレは口を滑らせた上に笑ってしまったのだ。最悪にも程がある。職場の上司、それもオーナーにこんな失礼なことを言ってしまったらもう減給は確定だろう。それどころかクビすらも危ういレベルだとも思った。もうオレは、きっと烈火のごとく怒るだろう彼からクビ宣告をされる前に開き直ってエプロンを彼の顔に叩きつけ、オレもう辞めますと先手を打ってしまおうかだなんて、先程うっかりで上げた口角をそのままに考えていると、
「……まあ、実際私はどうも生き物から好かれにくい人間であるってことは否定出来ない」
今みたいに威嚇されるのもよくあることだしな、と何故か嬉しそうに語り始めた彼に、オレはかなり困惑した。猫に威嚇され、そして自分で言うのもあれだがオレから失礼なことを言われたというのに、どうしてそんな何かとても良いものを見ることが出来たかのような顔で話しているのか。混乱しているオレの様子に気づいていないのか、彼はそのまま再び横を通り過ぎて、固まったままのオレへと声を掛けてきた。
「まだ営業時間内だ、客も待たせてるだろうから早く戻るぞ」
そうとだけ言い残して、裏口から厨房へ姿を消した彼の後を、オレは一瞬遅れつつも何とか着いていく。さっきのはなんだったのだろう。言葉にできない不安が胸の中で渦巻いているのをどうにか落ち着かせようと深呼吸して、もしかしたら偶然さっきの発言がいい感じに彼を和ませたのかも、なんて考えてみた。実際、なんとか減給もクビも逃れることが出来ているのだし。
オレはその事実を胸の中で咀嚼して、再びあの嵐のように忙しいレストランへ戻っていった。