キスから始まるあれやこれ部屋に小さく、しかしやけに響く水音にタブロイドは舌打ちしたかったがその舌はトリガーのそれに弄ばれていた。逃げれば絡め取られやり返せば逃げられる。呼吸が出来ない。タブロイドは目の前のトリガーの広く厚い胸を押すがびくともしない。このままだと窒息死させられてしまいそうだ。あまりこういうことをするタイプではなかったが仕方がないとタブロイドは押すのをやめて拳に力を込めてその胸を叩いた。
「は、っ、やめろって!」
「なんで?別にいいじゃん」
「トリガーはしつこいんだよ!」
トリガーはさもそれが悪い事だと思う様子もなく、てらり、と濡れるタブロイドの唇を見て密かに喉を鳴らした。本当はこんなものでは到底足りない。喉を食い破ってその血を飲み尽くしたい。身体の隅々まで暴き尽くしたい。しかしタブロイドに恐がられるのは本意ではない。今は大人しくキスのみで耐えているのだ。今は、まだ。
「もっかい」
「ダメだ!」
「つけるだけ!」
「わ、わかった!でもそれだけだぞ!」
「Yes sir!」
言うやいなやちゅ、と小さな音を立てて未だ濡れたタブロイドの唇に口付けた。それだけなのにタブロイドの体は小さくびく、と跳ねる。たったこれだけ。これだけなのにこんな反応をするタブロイドをトリガーは可愛いと思った。
「はい終わり終わり!」
「残念」
「十分だろう?」
「んー、もったいな……かゆ」
「うん?」
言葉を打ち切ってトリガーは顎をぽりぽりと引っ掻く。タブロイドはそれをなんとはなしに見ていたが、特になにも思うことは無かった。
「顎がチクチクする」
「荒れたんじゃないの」
「んー……タブロイドの髭がチクチクするんだよね」
「は」
トリガーは自分の顎を撫で、ついでタブロイドの顎を撫で、ざらりとしたその髭の触感を楽しむ。タブロイドは髭を整えはするがそりはしない。なにかこだわりがあるのかないのか、トリガーには分からないが。
「だったらこんなことやめてくれ」
「嫌だね」
「やめて」
「嫌だ」
やめてと嫌だの押し問答がしばらく続いた後、いいこと思いついた、とトリガーがきりだす。
「タブロイド、髭剃ろう!」
「はぁ?」
「そうすれば解決する」
「しないしなんで俺が妥協しなきゃなんないんだ」
「痒くなくなるし、髭剃ったタブロイドも見てみたいし」
爛々とした目で自分を見るトリガーにタブロイドは言葉を失う。嫌なら辞めればいい話であるし、そのためにこっちが何かをしなければならないというのもお門違いこの上ない。
やめてくれるのが一番いいが恐らくそれは無理だとわかっている。悔しいが体格の違いから力の差は歴然で抑え込まれれば逃げられない。タブロイドは逃げ道を必死で探すがなかなか見つからない。しかしそれは突然に降って湧いた。トリガーの方から選ぶことの出来る条件を突きつけてきた。乗るか降りるかで言えば乗る。少しでも希望があるのなら賭けて見るべきだとタブロイドは思った。
「ゲームして決めよう」
「……ゲーム?」
「なんでもいい、勝ち負けで決めよう。それならいいだろ?」
「俺が勝てばやめてくれると」
「俺が勝てば剃って」
「わかった。乗るよ」
やっちまったな、とタブロイドは毒づいた。ゲームは五分五分で進むもので、それなら勝ち目は十分にあると思ったのはつかの間、あれよあれよと運はトリガーに向かい、タブロイドは、惨敗だった。
「約束は守るよね?」
「……イカサマしてないだろうな」
「カウントじゃあるまいし」
「わーかった。わかったよ」
「じゃあ剃って」
「風呂入る時にな。今からはめんどくさい」
そう言って以前よりは柔らかいものの、硬いベッドに身を沈ませる。何がどうしてこうなったのか。考えるのも億劫だし覗き込んでくるトリガーの顔を見るのも気に触ったのでタブロイドはそっぽを向いた。
「ほらよ」
言われたからには、と徹底的に髭を剃り落としたその顔は自分の事ながらどこか違和感があるな、とタブロイドは思った。長年付き合ってきたそれが無くなるだけでこうも変わるのか、不思議なものだと関心もした。
トリガーはと言うとあんぐりと口を開けたままタブロイドの顔を凝視していてその視線から逃げるようにタブロイドは顔を背けた。
「なんだいそんなにおかしいか?」
「おかしくない。かわいい」
「はぁ?」
お前大丈夫?俺は三十路の男だぞ、とタブロイドが心配してもトリガーは可愛い可愛いと連呼している。そんなトリガーの感覚はタブロイドには一生かかっても分からないだろう。我に返って最後のかわいい、をトリガーが口にした時ついにタブロイドはトリガーの頭を殴り付けた。
「可愛いなんて言うなよ『大馬鹿野郎』」
「だってほんとにかわいい。あと若い」
「若い?」
「おれと同い年くらいに感じる」
「……そんなまさか」
若いと言われどうとればいいのか、タブロイドには分からなかった。いつもが老けてると言いたいのか髭がない自然な状態だと童顔に見えるとでも言いたいのか。嬉しい訳でもなく嬉しくないわけでも……いや嬉しくないその言葉にタブロイドは眉を寄せた。それに対しトリガーがまた可愛い、と言った。
「カウントに見てもらえばわかるよ」
「嫌だ。からかわれるだけだ」
「そんなことないよ」
「ある」
「新入りだって紹介したらきっと気づかない」
「詐欺師の目は誤魔化せないだろう」
「いいや誤魔化せるね」
「言ってろ」
話は終わったとばかりにタブロイドがトリガーから離れようとするがトリガーはそんなタブロイドの腕をとって強引に歩き始めた。体格差で負けるタブロイドはその手を振りほどけず仕方なく、本当に仕方なくトリガーについていく他なかった。
「カウントー」
「んあ、なんだ?」
カウントはフーシェンと立ち話をしていた。命をかけたあの時から、このふたりの距離は近くなっていた。もしかしたら、とタブロイドは思ってはいたが、詐欺師の前では到底見抜けるはずもなかった。
トリガーは続いてフーシェンの名も呼び、ちょうど良かった、と口にした。タブロイドにとってはちっとも良くない。恥を晒す相手が増えただけだ。
「今日から新入りが来たんだ。紹介しようと思って」
「新入りぃ?そんな話聞いてないぞ」
なぁ、とカウントがフーシェンに振ると聞いてないな、と同様の答えを返していた。タブロイドは今の自分の立場をさておいてやはりこのふたりは、などと思っていた。顔がニヤつきそうになったところでトリガーに背を叩かれ起立することを促される。いたいな、と噛み付いたがトリガーは笑っているだけだった。
「さ、ほら、自己紹介しないと」
「……自己紹介って」
「新入りなんだから。虐められるよ」
「そりゃ結構なことで」
カウントとフーシェンは目の前のやり取りを怪しげに見ている。あのトリガーがわざわざ新入りなんぞに関わるはずがない。二人の見解は一致していた。だが確かに見覚えがない……ような?だんだんと訳が分からなくなっていた。
「で、誰なんだよそいつ」
「……俺だよ俺」
「ほほう、詐欺師の俺相手にオレオレ詐欺を仕掛けるとはいい度胸だ」
「お前は黙っとけ」
話が進まないとばかりにカウントを引き下がらせたフーシェンもどこか詐欺にでもあっているかのような感覚を覚えていた。見覚えがあるようでないような。ただ、声は聞いたことがあった。
「俺。タブロイド。わからないか?」
「え」
先に声を上げたのはカウント。フーシェンは目を丸くして声も出さずにタブロイドを見つめていた。トリガーはしてやったり、と得意げに笑い、タブロイドは居心地悪そうにもぞり、と動いた。
「ほらやっぱり。カウント気づかなかった」
「たまたまだろう、たまたま。見慣れない奴がいたらそりゃ怪しむだろ?」
「だからタブロイドはそれほどに変わったっていってるの」
「変わってないって」
「カウントも、フーシェンも、分からなかったのに?」
「……そうだよ」
何を言っても覆らないと分かってはいても否定はする。しなければ恥をかいただけで屈辱だ。どうしろと言うんだ、と目の前のカウントとフーシェンを見やるとじっ、とこちらを見ていた。その鋭さにタブロイドは後ずさる。
「ほぉ、確かに新入りにみえるわな」
「そうだな、言われないと気づかないかもな」
「でしょう?」
「てっきりトリガーの同期かと思ったぜ」
「はぁ?」
「でしょう!」
トリガーと、同期?12も年が違うのに?三十路の男を20代に見えるとどう見たら言えるのか、とタブロイドはなにかの冗談だ、と思ったが、フーシェンまでその意見に肯定していたのを聞きただただ唖然とするしかなかった。
「トリガーと、同期……」
「言ったろ、若く見えるって」
「それにしたって……」
「いい事じゃないか。老けて見えるよりは」
フーシェンはカラカラと笑って言うが、タブロイドにはショックなだけであった。威厳が欲しい訳では無いが年相応には見てほしい。しかも若い、と言うより幼い、というようなインテンションに聞こえて複雑も複雑だ。トリガーより年上として振る舞いたいしそれくらいしか取り柄がないような気がしているのを全て取り上げられた気分だ。
「……もういい」
「何もそこまで凹まなくても」
「もう1度のばしゃいいだろうが」
「それまでの間これなのに?」
「……そんなに嫌?」
「嫌だって言っただろう?」
みるみるうちに肩を落とすタブロイドに流石に一同は慌てた。何事も穏便に済ませたがるタブロイドはテンションを上げたり下げたりをなかなかすることは無い。それが今は急降下とばかりに下げ続けている。理由はもとより明快だ。
「あー、今のお前ならモテそうだぞ」
「そうだな、女ウケする顔だぞ」
慌てたカウントとフーシェンはそれを食い止めようと今現在のタブロイドの印象で持ち上げようとするがそれも虚しくタブロイドの心を冷やすだけだった。
「……まぁ、トリガー以外にモテるならそれもありだなぁ」
「えっそんな!」
タブロイドが投げやりにぽつりと呟いた言葉にトリガーが即反応した。自分がしでかしたことなのに何故か逆風が吹き始めたことに気づいたのだ。
「トリガーの相手は疲れる。普通の人間に好かれてみたいよ」
「ダメに決まってる」
「こんなことさせたやつと一緒にいたいと思うか?」
タブロイドは多少の怒りを織りまぜた笑みを浮かべてトリガーを見上げた。事の発端は自分なのに何をぬけぬけと。ここまで来ればつかえるものは使った方がいいのかもしれないと、思い始めていた。
「そうだな、女の子のひとりでも引っ掛けてみようか?若い子がいいな」
「ダメ!」
「だって俺は可愛くて若いんだろ?トリガーがさせた事だし何してもいいだろう?」
「ダメ!」
かわいいは正義、だとどこかで聞いた。それならばそれさえ使えるのだろう。フル活用してトリガーから離れてみるのも一興かもしれない。成功する確率は限りなく低そうではあるが。
「タブロイド髭伸ばそう!」
「そう簡単には伸びないよ」
「おれが伸ばしてみせる」
「いや無理だろ」
ぎゃーぎゃーと騒ぐトリガーとタブロイド。元は自分が悪いトリガーと吹っ切ってそれに乗っかろうとするタブロイド。それを眺めるカウントとフーシェンは呆れ返っていた。実にくだらない。トリガーはしっぺ返しを受けただけだしタブロイドはトリガーにしてやられただけ。概ねいつもと変わらない様子。
「……なんなんだろうな」
「とりあえずトリガーは後先を考えないことを再確認した」
「だな」
止めるべきかほうっておくべきか。カウントとフーシェンはしばらく悩んでいたが。巻き込まれるのも馬鹿らしい、とその場を離れた。
「元に戻ってよ!」
「無理」
二人のやり取りはしばらく平行線を辿り、トリガーが半泣きになって謝り出すまで終わることは無かった。