🆕💚💛「おしえて」「なぁ、どうして丹恒先生は伊達メガネなんてしてるんだ?」
講師控室に置かれている革張りのソファに座ってアイスを食べようとしていた穹が、不意にそんなことを訊いた。
「……今更じゃないのか」
「まあそうなんだけどさぁ」
言いながら、引き出しから小さなスプーンを取り出すと、アイスクリームをひと匙掬う。
「うま!」
「声が大きい」
「はーい……」
勝手知ったる、というべきか。講義のない空き時間になると、穹はこうして俺の控室に来るようになった。学生たちには講義のない時間に使用できるラウンジが用意されているが、穹は「ラウンジはうるさくて好きじゃない」のだと言う。
大半の人間が初対面の際に抱く印象が「人当たりがよくて話しやすい」穹は、思いの外一人の時間を好むタイプだった。
性別問わず多くの人間に声をかけられている人気者の学生が、学内の図書館の、殆ど誰も使わないような書庫の奥で本を読み耽っていた時は驚いたものだ。周りに慕われ、賑やかな場に身を置く姿からは想像もつかなかった。
生きていくには角が立たないようにしておくのも必要だという持論があるようで、「ある程度はコミュニケーションは取るけどね」と言った時の感情の読めない表情を、ふと思い出す。
『丹恒先生は空き時間、いつもここにいるの』
『……いや、いつもは控室にいる。今日はここにしかない文献を探しに来たんだ』
『ふーん……。実は俺、この硬い椅子にそろそろ疲れてきちゃったなぁって思ってたんだけど』
『……そうか』
『…………』
『………………一コマ分だけ。それ以上は駄目だ』
『やったー!』
お願い、と言わんばかりの上目遣いに負け、なし崩し的に宛てがわれている講師控室に迎え入れてしまったが最後。穹は試験期間を除いたほとんどの日を、ここに入り浸って過ごしている。
それゆえに、ラップトップと資料を置いてしまったら他には何も置けないくらい小さな机の引き出しは、今では穹の私物が半分以上を占拠している状態だ。
スマホの充電器、姉からもらったというキャラクターのついたヘアピン、口寂しくなった時のためのグミやキャンディ。
講義がないからと頻繁に入って来られている身としては、俺のプライベートはどうなるんだ、と思わない訳ではない。けれど、もう慣れてしまった。
それに、いなければいないで静かすぎて落ち着かないのも事実だったりする。それほどに、穹の存在はこの部屋と俺の中に馴染んでしまった。
「だって先生、俺のことずいぶん遠くから見つけただろ?」
思考を本題に戻された。
昨日、大学にほぼ隣接してる大型のショッピングモール内で穹と遭った。双子の姉と並んで歩く目立つ姿を、見間違えようがなかった。
名を呼ばれて振り返った穹は、「え?は?えっ?」と人相が変わるくらい目を細めて、あと数歩の距離まで近付いてきた俺を、信じられないものでも見るような顔で見つめてきた。
たしかに、十数メートル先から裸眼で見つけられたら、普段のメガネの意味は?となるかもしれない。俺の視力の良さに反して、穹はコンタクトを着けなくてはいけないくらい裸眼の視力が良くないらしいから、なおさら驚いただろう。
「……お前はどう思う?。俺が伊達眼鏡をかけている理由を」
「せんせー、質問してるの俺なんだけど」
集中力は話しかけられた時点で途切れてしまったから、ひと息つくためのコーヒーを淹れようかとマグカップを取り出す。
読書や講師の業務の供にコーヒーは最高の相棒だ。
本当なら豆から挽きたいところだが、一人用の決して広くはない控室に生憎とその一式を置くスペースがあるはずもなく、インスタントコーヒーで妥協している。それに、近頃のインスタントコーヒーはそれなりに美味いので馬鹿にできない。
肩越しに穹を見ると、食べ終えたアイスのカップを見つめながら返した質問の解答を考えているようだった。
うーん、と唸りながら指先で触れている唇は、アイスのせいなのか、艶やかに見えて仕方ない。新作のキャラメル味だと喜んでいたから、くちの中はさぞ甘いだろうな、などと思う。
真剣な穹とは真逆に不埒な思考を始めた自分の脳を覚ますため、粉を多めに入れる。恩師によく淹れてもらった濃厚すぎるコーヒーを参考に。けれど、胃がやられない程度に手加減はして。
もう一つのマグカップには、愛飲者への冒涜か、と思われそうなくらい薄めのものを。そこにあたためた牛乳とたっぷりの砂糖を加えて穹仕様のコーヒーの完成だ。
どうぞ、とテーブルに置いてやると、射し込む夕陽を受けて煌めく眼差しが見上げる。十数秒ほどの僅かな時間、視線が絡み合った。
「冷めるぞ」
資料をまとめて端に寄せようとした俺の手に穹の手が重なり、そしてす、と眼鏡を外して顔を寄せる。
「俺みたいに、先生にキスしたいなって思う人間を遠ざけるため」
大正解?
そう言って笑うと、穹の呼気が唇に触れた。
(ああ、やっぱり甘いな)
狭いソファーに自ら寝転んだ穹に抱き寄せられて、俺はキャラメルの味のする唇を食んだ。