花道がアメリカに発つ日。洋平は自分の車で花道を成田空港まで送っていくことにした。定員オーバーになるため他三名は乗らなかった。極狭のトランクには入らなかった特大のキャリーバッグを後部座席に押し込む。
軽自動車の助手席は花道には狭かった。シートを限界まで下げても足は窮屈そうに折りたたまれているし、肩が少し背もたれからはみ出る。シートベルトが苦しいという文句がおかしくて、笑いながら洋平も運転席に乗り込んだ。
洋平は免許を取って半年も経たなかったが、危なげなく車を走らせていく。
「すげえな洋平、運転もう慣れっこか」
「まあな。花道は免許取るとしたら……アメリカで取れるんかね」
「わかんねー!」
しばらく他愛のないことを話していたが、やがて花道は助手席で眠りこけていた。昨晩は時差ボケ対策と称して夜通し連中と騒いでいたから眠くなるのも当然だろう。カーステレオのボリュームを下げた。
古いエンジンが小さく車体を揺らす。信号で止まるたび花道の寝顔を盗み見た。すがすがしいほどの快晴のせいで日がまぶしい。花道が眉間を寄せているのを見て、洋平は気休めにサンシェードを下げる。帽子でもあれば被せてやったのに、生憎持っていない。花道は熟睡していて、まぶしさなんかものともしないだろうけど。
信号が青に変わった。ゆるくアクセルを踏めば、車はゆっくりとスピードを上げてゆく。苦しいと言っていたシートベルトに器用に頭を凭れさせて、ぐっすりと眠る花道が愛おしかった。
「……花道、好き。すげー好き。……大好き」
万が一にも聞こえてしまわないように、起こさないように、ごく小さな声で呟いた。
留学を機に別れるという話はふたりの間に一度も出なかった。花道はただ前だけを見ていて、洋平はその後ろ姿を見ていた。
花道は優しくて純真だから、洋平が寂しいと言えばきっと約束をくれるだろう。「絶対に別れない」「ずっと一緒だ」と曇りのない目で言うに違いなかった。そんなふうに花道の後ろ髪をひくような真似をすることはしたくない。するつもりもない。
だからこの日まで、寂しさも不安も隠し通してきてしまった。湿った声で「好き」だなんて呟いてしまうほど、留めておきたいくせに。自分の情けなさのあまり、後悔した。
らしくない。なんていうか、俺ららしくない。
花道の穏やかすぎる寝息のせいで、旅立ちの日という特別さのせいで感傷的な気分になっただけだ。
洋平は思考を切り替えて、空港までの道を黙々と走った。目的地まではあと数キロだった。地元から百キロの距離を走ってきたが少しも疲れていない。
「……んん、寝てた」
しばらくして、目を覚ました花道が額を洋平の肩に擦りつけた。
「まだ着かねえぞー。もうちょい」
「洋平は眠くねえのか」
「ぜんぜん」
甘えてくる花道の頭を撫でまわしてやりたいのに、あいにくハンドルから手を離せそうにない。内心うずうずする洋平をよそに、花道は「なんかよお」と甘ったれた声を出した。
「……キスしてえ」
「まじ?」
「マジ」
「……俺もしたい。空港の駐車場着いたらするか。端の方に停めれば人いねえと思うし」
洋平の答えに、花道はふんすと鼻息をついて助手席にふんぞり返った。横目で見た頬が少し赤かった。
成田空港の駐車場は第一から第五駐車場まで用意されている。
目当てのターミナルの前に位置する第一駐車場は一番広かったが空きは少なかった。車を置いたままにしている人も多いのだろう。片隅でようやく見つけたスペースに車を停めた。
「さてと」
道が渋滞していた場合を考えて、少し早めに出たおかげで出発時間までは余裕がある。
洋平はシートの背もたれを少し倒し、花道のほうへ体ごと向き直った。キスをするために体を少し寄せると、洋平の動きで車体がふわふわと揺れた。
「車揺れるの、なんか…あれだな……」
もごもごと花道が照れてつぶやくものだから、洋平はにやけ顔を隠さずにからかう。
「揺れるとなに? えろい?」
「はっきり言うな!」
「ははは! さすがにココじゃ手出せねえよ」
からからと笑う洋平に花道がふぬ……。と不満げに口を尖らせる。それじゃまるで手出して欲しいみたいだぞ。胸中にとどめたがそう言ってやりたかった。
「花道」
名前を呼んで、花道の頬に手を伸ばす。初めて出会ったころから比べて随分と精悍な顔立ちになったものだ。
「目ぇ閉じて」
触れた指先から、やっぱりどうしようもない悲しみが伝わってしまいそうだった。ずっと俺を好きでいて。どこにも行かないで。子どもじみたわがままがばれませんように、と願いながら口づけた。
出発ロビーは平日にもかかわらず人で賑わっていた。車を停めた場所からエントランスまでは距離があったが、花道は大きなキャリーケースをものともせずに運んだ。
チェックインを済ませて手荷物を預け、すっかり身軽になった花道とトンカツを食べる。カツ以外はおかわり自由のよくあるチェーン店だったが、腹いっぱい食べて花道は満足げだ。
あとは搭乗口に向かうだけとなったが、このままあっさり別れるのも名残惜しい。どちらからともなく保安検査場のそばの壁際に寄って駄弁る。
駐車場の隅で乳繰り合っていたせいか思っていたよりも時間がない。
「そういや、最後の日本食がトンカツでよかったのかよ?」
「おう。リョーちんがよ、トンカツがないって言うんだよ」
「ええ、あっちトンカツねえんだ」
「リョーちん」こと宮城は、昨年花道と同じプログラムでアメリカに留学している。
ついでに言うと流川はインターハイが終わってすぐにまったく別口で渡米した。同じチームの選手が立て続けに留学していったので、そのころの花道は悔しがって、ライバルである流川に差をつけられると焦っていた。
花道にとって、この日の渡米はやっと訪れた華々しい門出の日だ。
「……最後にトンカツ食ったせいで、逆にあっちでも恋しくなりそ」
「食えなくなるってわかってんだったら食っといた方がトクだろ?」
そこまで言ったあと、花道が「あ! だからか?」と声を上げた。
「うん?」
「だからさっきキスしたとき妙にさびしそーな顔してたんか? キスしたから逆に寂しくなると思って?」
花道の乗る飛行機に関するアナウンスが館内に流れた。丁寧な口調で伝えられたのはあと10分以内に保安検査場を通れという脅し文句だった。
「そ……んなことは……あるけどさぁ……」
できれば墓場まで持っていきたかった自分のセンチメンタルな感情がダダ洩れだったと知り、洋平の言葉尻が弱くなる。
「洋平って案外、ばかだよな」
「え、えぇー……」
「……『好きだ』って、オレが寝てるときに言っただろ。さっき」
「お前、聞いてたのか?」
洋平は目を見開いた。花道が起きていたとしても聞き取れないような声で言ったつもりだったのだ。しかし花道の地獄耳の前では甲斐がないらしい。
「うっすら起きてた。あんっな情けない声でおまえ……今生の別れじゃあるまいし」
「そうは言うけどよ。……俺、アメリカなんか行ったことないし」
「洋平が行ったことある場所なんかたかが知れてるだろ。アメリカがそんなに遠いか?」
花道の通う大学までは直線距離で一万キロ程度。これから花道が乗る飛行機は乗り継ぎ含めて半日以上のフライト時間だ。
――アメリカがそんなに遠いか。
どう考えたって近くはないのに、花道があまりにも堂々と問うものだからそう遠くないような気がしてくる。不思議だった。考えてみれば、今日だって百キロ運転してここまで来たしな、と強気にすらなる。
初めて会った日から、花道といると無敵になれた。虎の威を借るのとは違う。自信だとか、無鉄砲な勇気だとか、胸の内が熱くなり血の湧くような。
そしてそれは、花道がプレーするバスケを観戦しているときも同じだった。花道が世界で活躍するのは洋平の本心からの望みだ。
「離れたって年取っておやじになったって、オレたちは別れねー!」
保安検査場を通過しなければならない時間が迫っている。繰り返されるアナウンスに、洋平は思わず花道の手を握った。
「っわかったから花道、時間!」
「本当にわかったのかてめえ!」
急かすために握った手は逆に花道から握り返された。花道のもう片方の手は洋平の胸倉をつかみ、空港の床からふわりと洋平のスニーカーが浮く。重力に逆らう感覚に思わず目を閉じたが、降ってきたのは花道からの熱烈なキスだった。
一回、二回、角度を変えて三回。最後に額同士をこすり合わせて、洋平はようやく着地を許された。
「今日はこれで勘弁してやる! 次会ったらいやってくらいオレの愛をわからせてやるからな! 覚えとけよ!」
もう時間だから行く! あと着いたら連絡する!
洋平に向かってそう叫びながら保安検査場に駆け込む花道。チケットを探して慌ただしくしているうちに奥へと追いやられて、振り返らずに行ってしまった。なんだそれと笑うひまも与えられなかった。
「っはは、流石花道……」
照れと喜びとおかしさが同時にこみ上げてきて、洋平は思わずその場にしゃがみ込む。
通行人が興味深そうにじろじろと見ているのが気にならなかったわけではなかったが、構う余裕はひとつもなかった。
それから洋平はのろのろと駐車場に停めた自分の車まで戻った。
飛行機のジェット音が鳴り響く青空の下、倒したままのシートに凭れて三十分ほど目を閉じた。昨晩は洋平も夜通し騒いでいたのだ。花道を見送って、ようやく眠気がきた。
中古で安く買ったこの車の、これまでの走行距離は十万キロを超えている。地球の円周はだいたい四万キロで、アメリカまでの直線距離は一万キロ程度。
この軽自動車はまだまだ走れる。つまり、アメリカはそう遠くないということだ。