黒巌村拾遺①序章1
大通りを一本外れただけで、空気が変わったような気がした。
危険な感じとか、厭な雰囲気だとか云う訳ではない。静かさの割合が増した。そんな感覚を覚えたのだ。
看板のフォントさえ古色蒼然とした幾つかの店は、おそらく四、五十年前から営業しているに違いない。それらの隙間に、レトロモダンを模した小洒落たショップを無理矢理押し込んだような、どうにもちぐはぐなレイアウトの通りだった。
一応は『商店街』と云う看板が立っている以上、そう呼ぶべきなのだろう。昔はこちらのほうが大通りだったのだと、誰かから聞いたことがあるような気がする。
そんな商店街の一角に、そのビルはあった。
昔からある建物のままなのか、古い建築様式を真似て建てたものなのかは判らない。
何と呼ぶのかも知らない、装飾めいた意匠が所々に施されている。一階にはカフェが入っているらしいが、ドアには『臨時休業』の札が下がっていた。明かりの消えた店内を窓越しに覗き込みながら、脇の共用階段へと向かう。
足を踏み入れたエントランスは狭く、冷えた日陰の空気がじんわりと溜まっているようだった。壁際に貼られたプラスチックのパネルによれば、目的の場所は三階であるらしい。一階部分には『Cafe Luna』とあり、二階は空白になっている。
コンクリートで固められた階段を昇り、二階の踊り場に差し掛かったところで、何となしに足が止まった。
『探偵事務所』と呼ばれる場所に足を運ぶことになるなどとは、二十六年生きてきて一度も考えたことはない。探偵などと云う存在が果たして信頼に足るものかどうか――と云う不安は、依然として捨て去れないでいる。
ただ。ここで引き返してしまったら、何も変わらないのだ。
唇を噛んで顔を上げ、階段を昇り切る。
上部に磨りガラスの嵌まったドアをノックすると、すぐに「はーい」と云う明るい声が聞こえた。内側から扉を引き開けたのは、まだ若い男だった。大学生くらいに見えるから、二、三歳年下と云ったところだろうか。きらきらとした目を囲む、濃く長い睫毛が印象的だ。そんな状況でもないのに、可愛い子だな――などと、思わず余計なことを考えてしまう。
にっこりと笑って、どうそお入りください、と青年は言った。
「――先生が、あちらでお待ちです」
序章2
一旦差し出したカップを引いて、やっぱり止まってからにしてください――とナタは言った。がたつきながら路肩に停車したシトロエンのサイドブレーキを引き、ギアを入れて、エルヴェはサングラスを外した。乱れて額に落ちかかる髪をはさりと掻き上げる。
誰もが見惚れてしまう端麗な美貌はだが、この男のことを不本意にも熟知してしまった今となってはむしろ、腹立さしさを覚える要素のひとつにしかならなかった。
黙って差し出された手にカップを押しつけて、ナタは、熱いコーヒーをぼんやりと啜り始めた小説家の横顔をじったりと睨み付けた。
「先生。道、これで合ってるんですか?」
「……地図の通り、走っているつもりだが」
「ガタガタででこぼこだし、狭いし。この先に集落があるなんて、とても思えませんけど」 ペットボトルの蓋を開け、一口水を飲んでから、大体――と続ける。
「紙の地図にしか載ってない村とか、ありえます? 令和ですよ、今」
「必要とする人間がいない――と云うことなんだろう」
「でも、史料に残っているんですよね。民俗学だか文化人類学だかのフィールドワークで、訪れる人もいるってことじゃないですか」
「それは、外から来る人間の都合だからな。村の住民は自分たちの伝統を守り、祭祀を行い、伝承やルールを次の世代に受け継いでいく。それが外界からどう見えるかについて考えることもないし、その必要もない」
「それはまあ――判りますけど」
それにしたって、とナタはため息を吐く。
「わざわざガソリン代と労力を費やしてこんなところに来るよりも、図書館とか民族史料館とか大学とか、そう云うところで資料を探せばよかったんじゃないですか」
「黒巌村の祭事に関しての近年の記録はない。最も新しいものでも、昭和二十二年――」
「昭和二十二年って……百年前じゃないですか、それ」
「七十八年前だ」
同じですよとナタは言った。空になったカップを受け取り、魔法瓶にセットして、足元に置いたトートバッグへと戻す。
「で――後どのくらいで着くんです」
「一時間……弱と云うところだな」
「僕、寝てていいですか」
ダッシュボードに置いていたサングラスを掛け直すついで、ちらとこちらを一瞥して、エルヴェは微かに笑ったようだった。サイドブレーキを解除し、アクセルを踏む。
「出発する時も、確かそう言っていたが」
「――先生の運転が不安すぎて、全然眠れないんですよっ」
『普通』の生活がなかなかにままならない男の、車の運転は決して下手ではない。カーナビがなくとも、おそらく道に迷うことはない。ただ――その隣の助手席で、安心しきったかのように熟睡してしまうことは何となく癪だし、なぜか悔しかった。その理由は判らない。
ふいと顔を背けた窓の外で、傾き始めた太陽が空の端を赤く染めている。
なめらかに滑り出した車体は、凹凸ばかりの道の上で、またがたりごとりと揺れ始めた。
第一章
「――もうとっくに、警察に話したけど」
困惑した表情を見せながらも、女が立ち去る様子はなかった。
敢えて観察しなくとも、瞬きの回数が増えていることは一目瞭然だ。
「もちろん、承知していますが――」
氷の色をした目をやや細めるようにして、グレイは微笑んだ。
「私がお訊きしたいのは事件のことではなく、彼の行方についての手がかりです。親しいご友人の方から、ご依頼をいただきまして」
「親しい友人って、彼女? 付き合っている子がいたなんて、聞いたことないけど……」
探偵の曖昧な微笑がどんな効果を与えたものか、どこか夢見るような目をして、女は言葉を切った。茫洋と彷徨わせた視線で空を探り、手がかりねえ――と首を傾げてみせる。
「無断欠勤どころか、病欠だってしたことなかったの。真面目。すっごく」
「旋盤工を――されていたと」
「そう。わたしは経理だから、仕事の内容は詳しくないわよ」
事務服のポケットから電子タバコのケースを取り出して、いい? と女は問う。
「嫌いだったら、やめとくけど」
「――大丈夫です」
切れの長い目がちらとこちらへ向けた視線はおそらく、風下にいないようにと云う気遣いのそれだろう。程なくして独特の匂いが仄かに漂い始める頃、ふう、と盛大に息を吐き出して、それで――と、女は言った。
「何が知りたいの? 探偵さん」
「こちらの工場の従業員数は、三十二名だそうですね」
「そんなもんだっけ。多分ね」
「その中に、彼と親しかった方はいますか」
「それね。警察にも同じこと、訊かれたけど――」
いなかったんじゃないかな、と女は言った。
「コミュ障とか、そう云うんじゃないの。人当たりは悪くなかったし、探偵さん程じゃないけど、イケメンだったし」
粘度を含んだ上目遣いを受け流す男の横顔は、あくまでも涼しげで、掴みどころがない。反応がないことにやや不満そうな表情を浮かべながら、だからねと女は肩を竦める。
「おばちゃんたちには、可愛がられてたわよ。だからって、おじさんたちに嫌われてたって話も聞かないし。仕事終わりに飲みに行くとか、最近の子はしないじゃない」
「特別仲が良かった同僚もおらず、トラブルもなかったと」
「だと思うわよ。でもわたし、さっきも言ったけど、経理だから。作業場の人たちとは、昼休みにしか会う機会ないし――細かいことまでは、判らない」
作業場、と繰り返したグレイを見上げて、向こうの一階、と女は言った。傍らにあった灰皿に吸い殻を投げ入れ、道路を挟んだ建物を指す。
「あそこ。よかったら、案内してあげましょうか」
「――いえ。これ以上、お手間を取らせる訳には」
「え――別に、いいのに」
「ご協力いただき、ありがとうございました」
女の申し出をさらりと躱して、グレイは一度、肩越しに振り返った。
視線だけで促し歩き出した背中を追い、隣に並ぶ。
「――先生」
少しだけ、ほんの少しだけ、詰るような響きが滲んだだろうか。
ん、と――微かな応えをくれる人は、もうすっかりいつもの通りだ。
何を続けるべきか見失い、モテますね、と軽い言葉で紛らわせる。
「有利に働くなら、利用する」
男の返事は簡潔で、迷いがなかった。
「警戒心を解く。情報を引き出す。必要な――ことだ」
「判って、ますけど」
ひたりと、足が止まった。ぶつかりそうになった背中の寸前で慌てて立ち止まると、振り向いた氷色の目が、きらりと光を過らせた。
「妬いてくれたのか」
掴みどころのない微笑。けれど、さっきとは全然違う。はい、と真っ直ぐに答えれば、返ってきたのはひと息に深みを増したような眼差しで――思わず息が詰まる。
「……それは」
笑みを刻んだままの唇をふ、と噤んで、やがて、男は歩き出した。
嬉しいなと、そう言ってくれたような気がしたのは、さすがに妄想が過ぎるだろうか。色々なものを振り払い、小走りに追いついて、握り締めたままだった手帳を開く。
「あの――先生」
「――うん」
「さっきの人の言っていたこと――ですけど」
真面目。容姿は整っているが、目立つタイプではない。
依頼人から聞いた話と、完全に合致する。
「警察が疑っているようなことは、やっぱりしてないんじゃないかって」
「判断するのは、まだ早いな」
両開きの扉を見上げる場所で、グレイは立ち止まった。巨大な鉄扉は、トラックが乗り入れるための運搬口らしい。建物の横手を覗き込めば、手摺りのあるステップが見えた。
「先生――ここから、入れそうですよ」
コンクリートの三段ステップを昇り、アルミ製のドアノブを掴む。機械の稼働音が震動となって、手のひらにびりびりと伝わるようだった。施錠はされていない。ノブを回し、扉を引き開けようとした、その時――。
「――あ、」
「あ……っ、と」
ちょうど内側からこちらに向かって押し開けようとしていたらしい――男が、後少しで前髪の触れそうな距離で、面食らったように目を見開くのが見えた。
「すみません……! いらっしゃるの、気づかなくて、」
慌てて頭を下げるナタを見下ろして、いや、と男は苦笑する。スーツ姿にアタッシュケースを提げているところを見れば、商談に訪れた営業マンだろうか。随分と背が高い。
「よかったよ。きみの顔面にぶつけなくて」
「本当に、すみませんでした」
もう一度ぺこりと一礼し、顔を上げる。その時――。
男は不意に、怪訝な表情を浮かべた。
「……あれ?」
「――え?」
紫を帯びたその双眸は、頭上を飛び越して背後へと向けられている。
その視線を辿り、端正な面差しに淡い驚きを広げてゆくグレイを、ナタは振り返った。
「……先生?」
お知り合いですか――と口を開くより早く、あの時は、と男は言った。
「ありがとうございました」
後頭部でひとつに纏めた髪は、金色と銀色の中間のような色合いをしている。
「――お陰で、美味いカレーに出会えましたよ」