Cafaea Avium:episode 1 涼しげな音を立てたウィンドチャイムは、鳥の形をしている。
「――いらっしゃいませ」
低く落ち着いた声で出迎えてくれた長身の店主が、窓際のお席へどうぞと微笑んだ。空の色を思わせる青い目が印象的だ。
テーブルを挟んで向かい合った二人がけのソファにそれぞれ腰を降ろしたところで、水のグラスとおしぼり、メニューが提供される。
「ご注文は、後程お伺いしましょうか」
そうしてください、と答えたのはセオドアだった。
「私は今日が初めてなのですが、カレーもグラタンも絶品だと伺っています。どちらにするのか、少し悩ませていただければ」
「それは――ありがとうございます」
頭を下げ、常連の二人へ向かっては微笑みかけて、店主は戻って行った。開いたメニューをテーブルの上に置いたセオドアが、さて、と身を乗り出す。
「今日は僕のおごりだからね。何でも好きなものを言いなさい」
「え……そんな、申し訳ないですよ」
緊張した面持ちで沈黙していた青年が、おずおずと口を開いた。聞いていた印象はどちらかと云えば少し生意気な今時の若者と云ったふうだったが、初対面の、しかも何やら大仰な肩書きがいくつも纏わりついているような男の前では、そうそう普段の調子は出ないらしい。ただ、この場で真っ先に言葉を発することができるだけ、大したものではあるのかもしれなかった。
「お会いしたばっかりで、ご馳走になるなんて。ねえ――先生」
「……そう――だな……?」
やっと我に返ったかのような顔で瞬いた青灰色の目が、緩々とこちらへ向けられる。助けを求められているのかもしれないが、期待に沿えるかどうかは正直判らない。うきうきとメニューを覗き込む兄の横顔を眺め、そうして、ユリウスはひとつため息を吐いた。
「――兄さん」
「どうした、ユリウス。どれにするのか決まったかい」
「では、なく」
何で兄さんが仕切るんだ――と言えば、きょとんと目を見開き、やがて首を傾げる。
「……年長者だから……?」
「そこはせめて、自分でも納得できる答えを用意しておいてくれ。とにかく」
向かい側の席で未だ固まっているエルヴェと、その隣で落ち着かない様子の青年へ、ユリウスは視線を向けた。
「エルヴェはともかく、ナタくんとは初対面だ。距離感を考えろ」
「それは――まあ、そうか。びっくりするよね。初めて会ったよく知らないおじさんに、突然ぐいぐい来られたら」
ごめんねと明るい声を上げるセオドアを見て、青年――ナタは、曖昧な笑みを浮かべた。『初めて会った』の部分はその通りだが、『よく知らない』は多分違う。むしろある程度のことを知っているからこその反応だと思うのだが、敢えてそこを指摘する気にはなれなかった。
「弟に友達ができたのが嬉しくて、はしゃぎすぎてしまったかな」
「……何歳だと思ってるんだ」
「何歳になっても弟は弟だからね。心配もするし、ついつい構いたくなってしまうんだ。エルくんにもその節は、ご迷惑を掛けてしまったね」
高校時代の同級生からおよそ十年ぶりにメールをもらったことを伝えた時、口に出しては何も言わなかった兄の、抱いただろう懸念には無論気づいていた。
ゲーム音楽制作や動画で名が売れ始め、初のリサイタルを控えていた自分に、新しい人間関係に対して慎重になってもらいたかったのだろうことも理解している。結果、全国チェーンの焼き鳥居酒屋の席に、今思えば場違い甚だしい三人が向かい合うことになったのだが――それはまた別の話だ。
「弟はずっと音楽一筋でね。友人と呼べるような相手は、多分エルくんが初めてだと思うよ。素直でいい子なんだが、どうも口下手なところがあって」
「あ――それは、」
隣に座る男をちらと見上げて、先生も同じですからと青年が言う。
「僕が知る限り、友人と呼べるような方はユリウスさんだけです。実は高校の頃から気になっていたみたいですけど、声を掛けられなかったらしくて」
「ユリウスはね、エルくんが書いた文章を何かの折に読んだことがあったそうだ。それで話してみたいと思ったのに、何となくできないまま卒業してしまったと」
「何だ。じゃあ、似たもの同士ってことですね」
漸く笑顔を見せた青年は、当初の混乱と居心地の悪さを開始十分にしてあっさりと振り払ってしまったらしい。
「こんな人ですから、ユリウスさんとお兄さんを困らせているんじゃないかって心配していました」
「とんでもない。僕も普段は行かないような場所にご一緒させてもらえて、実はかなり楽しんでいるんだよ」
「先生、僕が経済ニュースのインタビュー記事を見てる時に、『この人と一緒にラーメン食べた』って言うんですよ。意味判らなさすぎて、もう」
「それは驚かせたよね」
あはは、と笑う兄を見、もはや彫像のように固まりきった友人を見て、そうして――ユリウスは口を開いた。
「――兄さん」
いい加減少し控えてほしい。保護者か。……いや、保護者なのか。そして、この場では一番の年少者であるにも関わらず、経済界の若手トップ5に数えられるような男と保護者トークを繰り広げて一切物怖じしていない青年については、もはや舌を巻くしかなかった。色々と言いたいことはあるが、とても突っ込みが追いつかない。とにかく。
「先に、注文を決めないか」
「ああ――そうだった。ごめんごめん」
「マスターさんをお待たせしてしまってますもんね。すみません、お忙しいのに」
「……いえ。大丈夫ですから、ごゆっくり」
カウンターの向こうで顔を上げた店主が、やわらかな微笑みを見せた。整った顔立ちは色素の薄さも相俟って、どこか蒼みを帯びた月のような印象がある。
「ええと――カレー、カツカレーとエビグラタン、ハムチーズか、卵のサンドイッチ」
改めてメニューを覗き込み目を通したセオドアが、なるほどと首を捻った。
「エルくんのお勧めは、カツカレーだったね」
「先生がそれしか食べないって云うだけで、グラタンもサンドイッチも、どっちも美味しいですよ」
「迷うけど、今日のところはカツカレーにしておくよ。ユリウスはどうする?」
「同じで」
「あっ、皆さんカツカレーですか? じゃあ、僕も今日はそれにしようかな」
やや声をひそめて、同じもののほうがマスターさんも助かりますよね――と青年は言った。口が減らないようでいて、その実何かと空気を読もうとするところは、今時の若者らしさなのだろうか。オーダーお願いします、と手を上げたのはやはりセオドアで、仕切らないでいると云うのはどだい無理な話であるらしい。
「時間を掛けてしまって申し訳ない。カツカレーを四つで」
「承りました。ランチセットならプラス三百円でこちらのお飲み物をお付けできますが、どうされますか」
店主が示してみせたメニューのページ下部へと視線を向けて、ホットコーヒーをお願いしますとセオドアは言った。お先にどうぞとメニューを回してくれた青年に礼を述べ、アイスコーヒーを――と伝えれば、頷き微笑んだ店主が手もとの伝票にペンを走らせる。薄く形のよい唇の左下に、ちいさなほくろが二つ並んでいた。
「ええと、僕はアイスカフェラテで。念のために訊きますけど、先生もいつものでいいですか」
「……ああ」
こくりとエルヴェが頷く。こちらはこちらで完全に仕切られているし、もともと饒舌な男ではないが、思えば今日はほぼ口を開いてすらいない。
「アイスコーヒーを二つ、アイスカフェラテと、ホットコーヒーですね」
優雅な仕草で一礼し、少々お待ちくださいと言い残して、店主は立ち去った。
「何と云うか――不思議な店だね」
店内をぐるりと見回して、セオドアが言う。昼時にはまだ少し早い所為もあってか、他に客はいない。
「マスターさんは、鳥と猫が好きなのかな」
そう思って見れば確かに、店内の装飾はその二つのモチーフで統一されていた。どちらも動物だが、密接に繋がりがあるかと云えばよく判らない。配置は一見無造作なようでいて雑多な雰囲気はなく、用具やカップの並ぶ棚もきれいに整頓されている。窓枠の隅にまで掃除が行き届いているところを見ても、店主は相当に几帳面な性質なのだろう。
「建物自体はかなり年期が入っていそうだけど、この店はいつ頃からやっているんだろうね。壁紙も床もきれいだし、リフォームが入ってからそんなには経っていなさそうだ」
「このビルは昭和の頃からあったみたいです。レトロな雰囲気がオシャレだとか、多分そんな理由で残されたんじゃないですかね。最初にここに来たのって――そう云えば、先生と初めて顔合わせした時じゃなかったでしたっけ。去年? あれ? 一昨年? 先生、」
「……一昨年だ」
仕切り役二人の会話を半ば聞き流していたらしいエルヴェが、突如投げかけられた質問に答えるまでにはやや間があった。
「編集長と――きみと、三人で」
「そうでした。もう二年か。なんか、あっと云う間ですよね」
僅かに顔をしかめた青年の横顔を暫し見つめて、そうだな――とエルヴェは呟いた。日頃あまり表情を変えない男の、唇の端に滲ませた笑みが、微かに甘い。互いに想い合う二人の今がここから始まったのなら、その記憶は特別なものであるに違いなかった。
「あの時はまさか、こんなことになるなんて思いませんでした。ね、先生」
「……こんなこと、とは」
「それ、言わなきゃ判らないやつですか?」
青年は眉根を寄せた。
「生活力皆無ですぐ餓死しそうになる作家の面倒を見る羽目になったり、取材に付き合わされて酷い目に遭ったり――ですよ」
拗ねたような渋面が、その言葉と同じく照れ隠しであることは知っている。容赦のない憎まれ口を利きながら、その実年上の恋人に対してどんなふうに接しているのか――そこそこにあけすけな詳細を聞かされてしまっている身としては、自然生暖かい目になるしかない。
「いいねえ。仲良しで」
微妙な空気感を漂わせる恋人たちをにこにこと眺めていたセオドアの――その暢気かつ雑な感想には、だが、完全に同意せざるを得なかった。
「――お待たせ致しました」
盆に載せて運んできた皿を店主がテーブルに置くと、スパイスの芳香が湯気と共に押し寄せる。白くつややかな米と、薄めのカツ。カレーはやや濃いめの、深みのある色合いだ。カツカレーと飲み物が全て揃ったところで、ごゆっくりどうぞ、と店主は一礼した。カトラリーの籠が取り回され、銘々の手にスプーンとフォークが行き渡ったのを見て、口を開いたのはやはりセオドアだった。
「じゃあ、いただこうか。冷めないうちに」
「いただきます! ほら、先生も」
「あ――ああ、」
恋人に促されるままエルヴェが手を合わせ、こちらを一瞥した兄と同じタイミングでユリウスもそれに倣う。
「――いただきます」
米とルウの中間を掬い上げ、口に入れた瞬間、弾けるようなスパイスの香りが広がった。舌先に感じる辛味はやや強めだが、その向こう側には何層にも重なり合う甘味や酸味がある。果物をふんだんに使っているのだろう。隣でスプーンを手に取ったセオドアがひと匙を口に運び、味わい、嚥下する。程なくして、感じ入ったような吐息がひとつこぼれ落ちた。
「……確かに美味いね。ユリウス」
「ああ」
次にフォークを取り上げ、カツのひと切れと共にふた口目。衣はさくさくと軽く、脂の甘味がカレーの辛さをまろやかに中和するようだった。
「カツカレーと云えば粗めのパン粉でボリューム感を出す店が多いけど、それだとせっかくの繊細なカレーの味わいを打ち消してしまうだろうから、このバランスが正解かな」
「……あの、」
黙々とカレーを咀嚼するエルヴェの隣で、ナタがふと顔を上げた。
「今後飲食業界への参入も視野に入れているって仰ってましたよね。この間のインタビュー記事で」
「え? ああ、うん。言ったかな」
「普段行く機会がない店に積極的に足を運ばれるようになったのって、多少は市場調査の意味合いもあったりするのかなって、少し思っただけなんですけど――的外れだったらすみません」
きみ鋭いなあ、とセオドアは苦笑する。
「そのつもりが全くないとは言わないよ。ターゲットになる顧客層と自分の感覚がずれていないかどうかは、常に気になるところだからね。ただ、そこはまあ――ついで、だね」
「ついで、ですか」
「きみは学校帰りに友人とハンバーガーを食べたり、コンビニで買い食いしたりしたことがある?」
ありますよと青年は答える。
「ごく普通の男子高校生でしたから、まあ」
「弟もそうだが、僕にも経験する機会のなかったことはそれなりにある。そして、エルくんもどうやらそうらしい」
不意に名指しされたエルヴェが、長い睫毛の奥の目をぱちりと瞬いた。
「僕はきみやユリウスと一緒に食べたことがないものを食べるのが、とても楽しくてね」
「……それは、よかったです」
おずおずとエルヴェは微笑んだ。
自由の過ぎる兄をあまり甘やかすのはどうかとも思うが、こんなふうに言われてしまっては無碍にしづらい。ご兄弟仲良しでいいですね、と素直な感想を述べる青年には曖昧な笑みを向け、掬い上げたカレーはひと口分にはやや多かった。
「――重役会議でも、そんなふうに仕切ってるのか」
詰め込みすぎたカレーを漸く嚥下し、水を飲む。紫色の目をきょとんと見開いて、そんなことないよとセオドアは言った。
「ああ云った場で僕が話すことに真っ向から反論するのは難しいし、僕の機嫌を取るためだけに同意されるのも困るしね。でも、ユリウスはそうじゃないだろう」
「それは――まあ、」
「僕の言うことを聞いて無条件に同意するなんてことはしないし、時々ビシッと厳しいことは言うし」
突っ込まずにいられないことをするからだ――と言えば、なぜか嬉しそうに、そう云うとこだよねとセオドアは笑う。
「感性が鋭いって云うのかな。僕なんかが及びもつかないくらい物事を深く考えていたり、とても思いつかないようなアイデアを持っていたりするよね。でも、こっちが『さあ話して』って待ち構えていると、途端に黙ってしまうだろう」
悔しいが否定する要素は何もなかったので、無言のまま皿に残ったカレーを掻き集めることに専念する。飲み干した水のグラスを置いたエルヴェが、その時不意に口を開いた。
「……あの、」
判ります――と続けた後、一度上げた視線を、緩々と落とす。
「ユリウスの言葉は、いつも――的確で、迷いがない」
白い顔の輪郭に沿って、今日は結んでいない亜麻色の髪がさらさらと滑り落ちた。
「本当に、感謝しています」
隣で大きな目をぱちりと見開いた青年が、どうしたんですか先生と不審げな表情を作る。
「突然、今日いちよく喋りましたね」
「えっ、何? ユリウス、その話、詳しく聞きたいんだけど――」
俄然身を乗り出す兄を制して、聞かせる訳がないだろうとユリウスは言った。
「守秘義務の伴う情報を身内に明かすことはコンプライアンス違反には当たらないのか」
「……あっ、ごめん。そうだよね。何だか、つい嬉しくなっちゃって」
軽く睨んでやった視線の先、だって、と微笑んだ表情がやわらかい。
「あの人付き合いの苦手だったユリウスが、お友達の相談に乗ってあげているだなんて思わなかった」
「……何歳だと思っているんだ」
そうだね、とセオドアはちいさな息を吐いた。
「幾つになっても弟は弟だけど、認識はちゃんと改めていかないといけないな」
苦笑するその横顔は満足げでもあり、そして同時に僅かな寂寥を滲ませていた。
「――次は」
アイスカフェラテにストローを突っ込みながら、ユリウスは言った。
「ハンバーグにしよう。ファミレスの。……四人で」
「えっ、僕もですか」
いいんですかと視線を左右させた青年は、意外にも嬉しそうな表情をしている。
「ファミレスのハンバーグとか、高校の時以来ですよ」
「……そうか。きみは経験者か」
「ドリンクバーって云うのがあるんだよね、確か。あれ、楽しそうだよねえ」
「――え?」
「ご教示の程よろしくお願い致します。――先輩」
揶揄うつもりもなく頭を下げると、嘘でしょう――と呻いた後、やがて、青年はテーブルに突っ伏した。どうやら、笑いを堪えられなかったらしい。
「――ご馳走様でした。とても美味しかったです」
礼を述べたセオドアに頭を下げて、ありがとうございますと店主は微笑んだ。伝票を取り上げ、合計金額を告げる。
「あの、僕たちの分は――」
「ナタくん。ここは、年長者の顔を立ててほしいな」
財布を握り締めていた青年は、セオドアが出した黒いカードを見た途端に制止した。ぽかりと開いた唇が、声のない感嘆符を形づくる。
「こちらで、お願いします」
差し出されたそれを凝視し、店主はだが、戸惑ったかのように眉を寄せた。顔を上げ、端正な顔に申し訳なさそうな表情を浮かべて、口を開く。
「大変申し訳ございませんが――取り扱いが、現金のみでして……」
「……あ」
それはおそらく、予想しておくべきだった。時流に合わせてキャッシュレス決済を導入する企業が増えているとは云え、個人経営の店では手間とコストの面から敬遠されることは多い。これは失礼しました、とカードを引っ込めた兄がジャケットのポケットに手を遣り、やがて――肩越しにこちらを振り返った。
「……ユリウス」
「……皆まで言うな」
深い息を吐いて、ユリウスは鞄を探った。
「こう云う時もあるんだから、少しくらいの現金は持ち歩いてくれ」
「あっ、じゃあ、ここは僕たち三人の割り勘ってことでどうですか? ええと――」
一人二千円ですとナタが言い、エルヴェから受け取った紙幣と合わせて四枚の千円札を差し出した。そこへ更に二千円を足して、レジカウンターのトレイに置く。
「……六千円、ちょうどいただきます」
ありがとうございました、と言って店主は微笑んだ。ひややかさを感じさせる整った顔立ちではあるが、目もとを細めた笑顔は思っていたよりも甘く、優しい。
「本当に――面目ない」
深々と頭を下げたセオドアに、全然大丈夫ですよとナタが手を振ってみせる。
「次、またご一緒させてください」
「いや、反省したよ。財布を持ち歩く習慣を付けないといけないね。カードが使える店かどうかも、予め調べておかないと――」
「……いいじゃないか。お陰でいい経験ができた」
どう云うこと、と訝しげな表情を浮かべた兄の肩に手を置いて、ユリウスは笑った。
「兄さんに奢ってやる機会なんて、一生ないと思っていたからな」