熾火⑤「――ナタ、」
淡い困惑を浮かべた青灰色の目が、やがて、背後を振り返る。
椅子を引いて立ち上がった男の精悍な面差しは、だが――その時、僅かに表情を変えたようだった。壁際のフックに掛けられていた上着を取り、やがて、こちらへと歩み寄る。
戸惑ったように見上げるエルヴェの頬に一度手のひらを触れた後、男は穏やかに微笑んだ。
「……少々、用があったのを思い出した」
声は深く優しく、見下ろす鮮緑の双眸は凪いだ海に似ている。
「せっかく訪ねてきてくれたにも関わらず、申し訳ない」
ゆっくり茶でも飲んでいきなさい、と男は言った。戸口を潜って出てゆく広い背中を黙って見送り、そうして――エルヴェはひとつ、ちいさな息を吐いた。
「……入りなさい」
迎え入れてくれた人の脇を通り抜け、数日前と何ひとつ様子の変わらぬ清潔な厨の床を踏む。勧められた椅子に腰を下ろせば、胸の前に抱えたままの布包みの中で、かちゃりと硬質の音が鳴った。
「――朝食は? もしまだなら、簡単なものは用意できるが」
卓の上の食器を片付けながら、エルヴェは言った。
肩の上で片結びにした髪も、柔らかい麻地のシャツも、記憶の中にはない。結構です、と答えたナタを暫しの間見下ろし、重ねた皿を流しの脇に置く。取り上げた薬缶に清水を注ぎ、まだ消していなかったらしい火を熾して、竈に掛ける。ひとつひとつの動作には当たり前のように迷いがなく、幾度も繰り返してきたことであるに違いなかった。
「……先生」
顔を上げて、ナタは、目の前に立つ男を見た。
歳月を経てなお類い希な美貌、青灰色の目の奥に滲む、淡く優しい憂いの色を。
「急に押しかけたりして、申し訳ありませんでした」
「それは――構わないが」
「あの……方にも、実は」
「……そのことも、聞いている」
つややかな唇を微かに緩めて、俺の所為だからな、とエルヴェは言った。
「辛い思いをさせた。いや――そんな、簡単な話ではないな。おまえは……」
「先生……俺は、」
がたりと椅子が鳴り、ナタは言葉を切った。
「……僕は、」
抱えた胸の中でまた、砕けた欠片が音を立てる。
外れかけた革紐を引き、布を開く。それが何であるかを知っていたのだろうエルヴェはただ、微かに息を詰めただけだった。
「――先生のことが、好きでした」
ナタは言った。
「優しくて強い人だと、思っていました。僕にくれる言葉も、差し出してくれる手も、全部、大好きでした。でもそれは多分、僕が見たいと思っていた――先生で、」
「ナタ――」
「本当のあなたがどんな人かなんて、僕は知らなかったし、知ろうともしていなかった。勝手に好きになって、勝手に恨んで、勝手に……想い続けて」
大人として向き合うことを決めてきた覚悟など、何の役にも立たなかった。流れ出す涙を手の甲で拭い、震える喉に呼気を通す。
「僕は子供で、求めてばかりで、あなたを、きっと……苦しめて、」
「ナタ……それは、」
違う、とエルヴェは言った。
卓を回り込み足もとへと跪いた男の美貌を、滲んだ視界の中でも確かな光を湛えた青灰色の双眸を、ナタは見下ろす。かつて白い獣であった大剣の、その亡骸を掴み抱く手の上に、骨張って少し冷たい手が重ねられた。
「助けてほしいとか、何かを手に入れてほしいとか、俺に理解できたのは、そう云うことだけだ。『できること』じゃない、存在そのものを求める感情があることを、知らなかった」
微かに笑った顔は、どこか苦しげでもあるように見えた。
「俺は――おまえが言ったように優しくも、強くもない」
エルヴェは言う。
「何も入っていない、打たれて響くだけのがらんどうで、ただ少し、丈夫だっただけだ」
「先生は、でも、」
「幻滅――しただろう」
「……いいえ」
いいえ、とナタは首を振った。
「それは先生が望んでそうしたことではないし、隠すつもりがあった訳じゃない。僕は子供で、自分の理想をあなたに押しつけた。それだけの――こと、なんです」
いつか、理解したのかもしれない。
理解できぬまま、破綻したのかもしれない。選ばなかった道の先がどこへ繋がっているのかなど、誰も知らない。けれど。
重ねられた手をもう一方の手で包み込み、そっと握り締める。
「僕では、先生に、こんな顔を――させてあげられなかった」
静謐な湖の色に似た色の目が、ゆるりと溶けるようだった。
長い睫毛に纏わりついた微細な雫が、澄んだ朝の光を受けてきらきらと輝く。
「……それだけは、判ります」
好きなだけここにいてもいい。いつ飛び去ってもいい。
ただ庇護し慈しむ、何も求めぬその手だからこそ、地図を持たぬ鳥に止まり木を与えることができたのだろう。
「この剣を使うことは、もう、ありません」
生きるための、よすがであったもの。
手放せぬまま縛られ続けた恋の形見。
「大剣を使うことも、もしかしたら――それはまだ、判りませんけど」
「……そうか」
「だからこれは、先生にお返しするつもりでした」
でも、とナタは言った。
「ここに置いておいて欲しいって言うのも、やっぱり、何か違うような気がして。旦那さんにも、悪いですし」
辛うじて浮かべてみせた微笑を見て、エルヴェはただ、黙って頷いた。
「――『なかったこと』には、しません」
少しだけひやりとしたその白い手の、長い指先を握り締める。
立ち竦むだけの子供を導いてくれた人の――力強く、揺るぎないもののように思っていた手は、記憶にあるよりもずっと柔らかで、そして、どこか儚い。
「ずっと、大切に、覚えているつもりです」
やがてゆっくりと解かれた指が、軽く頭を叩いて、離れてゆく。
幼い頃、そうしてくれたように。
「明日――戻ると、聞いた」
「……はい。調査も一区切り着きましたし」
湯の沸いた薬缶を火から下ろしたエルヴェが、茶葉を入れたポットに湯を注いでゆく。布の覆いを被せ、残った湯でカップを温める。
「――見送りに行っても、構わないか」
やがて差し出されたカップを受け取って、はい、とナタは言った。
美しい琥珀色の茶をひと口含み、飲み下す。
優しく穏やかな香りの向こうに仄かな苦味が広がり、溶けてゆく。
ゆっくりと溢れて、押し流される。
いつか――豪雨に閉ざされたテントで同じ手が淹れてくれた茶の味が。
十二年の歳月が。叶わなかった想いが。
「……美味しいです」
流れ落ちる涙を拭わぬままもうひと口を飲み、旦那さんのお茶と同じ味ですね――とナタは言った。
◇
「エルヴェさん! 来てくれたのね!」
「ノノ――ここ通路だから、迷惑だよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるノノの服の裾を掴んで、漆黒のアイルーが顔を顰める。もの珍しげに近づいたセレネーが、うわあ真っ黒だねえ! と声を上げた。
「初めまして! ボク、セレネー! よろしくね! それと、元気でね!」
「ええ……」
黒いアイル――ニクスと云う名であるらしい――の困惑をものともせず、その手を掴んでぶんぶんと振り回すセレネーを見下ろして、相変わらずだなとナタが笑った。
「今はサポート班にいるんだってな。ちゃんとサポートできてるのか?」
「あったりまえでしょぉ! ボク、こう見えてベテランなんだから! ナタこそちゃんとハンターできてる? ハンモックから落ちてない?」
「いつの話だよ」
セレネーと小突き合い笑い合う青年の横顔は、朝陽にその陰影を拭われて、少しだけ幼い。
「せっかく会えたのにもう帰っちゃうの、つまんない! ねえエル、たまには遊びに行こうよぉ」
「……会えなかったのは、おまえがあちこちふらふらしていたからだろう」
だってえ、と頬を膨らませる白いアイルーの頭をわさわさと掻き回しながら、そうですよとナタが言った。
「ジェマだって、先生に会いたがってると思います」
「会うのはいいが――叱られそうだ」
「それはそうでしょう。心配してましたから。じゃあ、旦那さんと一緒に」
考えておこう、と応えて、エルヴェは微笑んだ。
「おまえの弟子にも会ってみたい。ミナ――だったか。まだ、歩き始めた頃のことしか知らないからな」
「そっか。そうよね。きっとびっくりするわよ。すっかり生意気になっちゃって、ナタくんにだって平気で口答えするの」
「ああ云うところ、さすがきみの姪って感じだよ」
なんですってとノノが振り上げてみせるこぶしを掻い潜って、ナタは笑った。明るい陽光を受けたはしばみ色の瞳が、不意に――こちらへと向けられる。
「……俺もまた、会いに来ていいですか」
「――もちろん」
汽笛が鳴った。急がなきゃ! とノノが飛び上がり、荷物を乗せた二頭のセクレトの手綱を引いて、慌ただしくタラップへと向かう。
「じゃあまた来ます! 次はクナファのチーズ、持ってくるわね!」
「ダメだよノノ、そんなに日持ちしないよ」
ぶんぶんと手を振るノノの隣で、ニクスが呆れたように髭を震わせる。まったねー! と跳ねるセレネーの手を握り、こちらへ向かっては一度黙礼して、ナタは背を向けた。タラップを上がってゆく背筋の伸びた長身が――だが、不意に足を止める。
「……ナタくん?」
「ごめん、ちょっと――待って」
荷物を抱えて上がってゆく船員の脇をすり抜け、走り下りるその姿を訝しく見守るうち、やがて――真っ直ぐにこちらへと駆け寄った青年の腕に、気づけば抱き締められていた。
「ナタ――」
「先生、」
戸惑うエルヴェの背を強く抱いて、あなたは、とナタは言った。
「これからも、ずっと、僕の――たった一人の、先生です」
僅かに掠れた声の向こう側に、揺れる微かな感情が淡く、仄かに瞬くようだった。
「お別れもですけど、お礼も言わせてくれませんでしたよね」
最後に一度だけ縋りつくように力を込めた腕を解いて、青年は笑う。
「ありがとう――ございました」
「……ああ。また、な」
差し出された手を握ったエルヴェの視線の先、はしばみ色の目を滲ませるきらめきを指先で払ったナタが、やがて、振り切るように息を吐く。
「――本当に、大好きでした」
翳りのないその笑顔は、遠い昔の幼かった少年の面影を確かに湛えていた。
ナタくん早く! と叫ぶノノに手を振り、今度こそ振り向かず駆け戻ってゆく。
タラップが引き上げられ、出港の汽笛が響き渡る。
やがてゆっくりと動き出す砂上船を見上げれば、吹き抜けてゆく風はどこか懐かしい、乾いた砂の匂いを含んでいた。