太陽——こぽり。
何かが口から溢れるような感覚がして、ゆっくりと目を開ける。
……開けた、感覚がした。
「……どこだ、ここ」
思わず呟いて辺りを見渡す。周囲は闇に包まれていて、何も見えない。どこまでも果てしなく広がっているような気がするし、すぐそばに壁があるような気もした。
目を開けたかどうかわからなかったのは、あまりの暗さにまばたきをしても変わらなかったからだ。
自分の体が存在しているであろうと位置に視線を向けてみても、どれだけ目を凝らしても体を動かしてみても、その動きどころか姿形さえ捉えられなかった。
耳を澄ませてみても何も聞こえない。
空気が動いているわけでもない。
匂いもない。
立っているのか座っているのか、それとも倒れているのかもわからない。
……ただ、ほんの少しだけ寒い、気がした。
「まあ……いいか。どこでも」
今まで自分が何をしていたのか思い返そうとするものの、ひどく億劫になってやめた。
どこかに行こうとしても、自分が動いているのかもわからず、どこに行きたいのかもわからない。
何か大切なことを忘れている気がしなくもないが、もうどうでもよかった。
それよりも、今はただ何もせず、何も考えずにこの何もない世界に身を任せていたかった。
この闇は心地がいい。
たぷりと羊水に浸かったような安心感に心が凪いでいく。水面を揺らす波紋が段々と落ち着きやがて何もなくなるように、感情が穏やかになり、何も感じなくなっていく。
体の輪郭も、思考も、溶けていく。
ここにあるのはたった一つの心臓だけだ。
ずっとここに居られたらいい。ずっとここに居られればいい。
——そう思っていた、はずだった。
「——…………、」
「……?」
ふと、何かが聞こえた気がした。
耳を凝らしてみるが、わからない。気のせいかもしれない。
「…………、」
いや、確かに聞こえた。
自分以外の誰かがいる。
そう思った途端、何も無かったはずの暗闇が一直線に割れる。
その瞬間、一瞬だけ世界が真っ白になった。
「……っ、」
思わず目を逸らす。ちかちかと瞬く視界に網膜が焼かれたかのように眩暈がした。
少しだけ時間を置いて、ようやく目に入ってきたのがそれが光だとわかる。
ゆっくりと顔を上げると、そこにはさっきまでなかったはずの人影。後ろから四角く切り取られた穴から差し込むように強い光が放たれていて、まるで開いたドアから外の光が入ってきてあるようだ。
そんな光を背負う人影は、逆光で真っ黒に塗りつぶされて誰だかわからない。
入ってきた光が、自分の体にあたるのを感じる。
——あたたかい、と思った。
「……こんなところにいたのか」
平坦だが、優しい声が影から放たれた。
まるで迷子の子供を見つけた親のように穏やかなその声は、自分を照らす光によく似ている。冷えた体をじんわりとあたためるようなその声は、同時に鳥肌が立つほどの寒気がするようだった。
あんたは、一体誰だ。
「……行こう。待ってる」
待ってるって、誰が。
「いろんな人が、君を待っている」
いやだ。
咄嗟にそう思った。
だって、“俺”は知っている。
自分を照らすあの光の向こうは、恐ろしい場所だ。
押し潰されそうなほど寂しくて、悶え苦しむほど辛くて、身が裂けそうなほど痛くて、死にたくなるほど悲しくて、呆然とするほどの虚しさがあるところだ。
「それだけじゃないことを、君は知っているだろう」
それだけじゃないって何だ。
アンタが何を知っている。俺の何がわかる。
「わかる。僕も同じ苦しみを知っている」
それならそっとしておいてくれ。
「君を必要としている人がいる」
そんなの関係ない。
だって、どうせ全部なくなるのだ。どれだけ大事にしたって、どれだけ信じたって、跡形もなく、まるでなかったかのように溶けて泡になって消えていくのだ。
そのくせ、そこに陣取っていた空間だけはいつまでも残るのだからタチが悪い。いっそ、全部なかったことに出来ればどれほどいいか。
無くすことも、埋めることもできず、その空虚を抱え続けることがどれほど辛いか、アンタにわかるか。
「……それでも君は心決めたんだろう」
ゆるり、と影から手が伸びる。俺の前で逡巡した後、ゆっくりと手首に伸ばされて緩く握られる。
相変わらず影になっているせいで誰だかわからない。それでも、その手は何だか知っている気がした。曖昧な輪郭が形作られていくような感覚がした。
「最初に手を差し出したのは君だったな」
そうだったっけ。
……そうだったな。
「大丈夫だ、君は一人じゃない。二人で戦うんだ」
「…………し、んじてくれ」」
そう言った影の言葉はほんの少しだけ震えていた。
それでも、その声は何よりもどこまでも真っ直ぐに突き刺さって、止まっていたはずの心臓を動かしていくようだった。
……正直、まだ怖い。足が竦むし、手は震える。目の前の光に心が潰されそうだ。
体を落ち着かせるために、すう、と息を吸って、はあ、と大きく吐く。そうして下を向いた拍子に、赤いマフラーが揺れた。
それを見て、ようやく腹を括れた。
「……わかった。そこまで言うなら、アンタを信じてみることにしよう」
本郷。
そう言って己の手首を掴むその手を握り返す。
すると、影がほんの少しだけ笑った気がした。
「……ありがとう、一文字」
——はくり。
何かが喉を通り吐き出される感覚がして、目を開ける。
「……どこだ、ここ」
思わず呟いて辺りを見渡す。
窓から差し込む太陽の光が部屋を明るく照らす。周囲には何やらよくわからん機械が並べられ、その中に紛れている心電図らしきものがピッピッと一定の音を立てて画面に波形を描いていた。
どうやら、今の俺はベッドで寝かされているらしい。腕を動かすとシーツのさらさらとした触り心地がすると共に、何が引っ掛かる感覚がする。
思わず視線を下げれば、いつも着ているはずの防護服はなく、まるっと上裸にされていた。包帯やらガーゼやらの合間にポツポツと開いた接続用のコネクタには様々な色のコードが差し込まれている。普段は防護服で隠されているため、こうして改めて自分の体を見るとなかなかに人間離れしていることを再確認する。なんだこれ、すんげー光景。
呑気にそう思っていれば、どうやら体が覚醒し始めたらしい。全身のあらゆるところがズキズキミシミシジワジワと痛み出す。なんだこれ、すんげーいってえ。
「——気がついたか」
思わず「アイチチチ……」と呻いていると、ノックもなしに部屋の扉が開く。
入ってきたのは、これまで散々顔を付き合わせてきたおっさん二匹。相変わらず真っ黒いスーツに真っ黒のネクタイを締めている。正直、毎回同じ格好をしていて見ててつまらん。そろそろネクタイくらいは個性があるものに変えてもいいんじゃないかと思う。ハートとか、チェックとか。言ってもどうせシカトされんだろうけど。
「なぁ、これどういう状況だ?」
「覚えてないのか」
滝が言うには、先日俺はショッカーとの戦闘で大怪我を負ったとのことだった。辛くも勝利を収めたものの、命に関わるほどの相当な深手を負っていたとか。それこそ、オーグメントの回復力をもってしても危ないほどだったらしい。
意識レベルもどん底近くまで落ちている状態で、正直な話今後目覚めるかどうかすら確かな状態ではなかったと言われた。
話を聞きながらも、よく生きてたなぁとぼんやり思う。確かにこんなにコテンパンにやられたのは初めてかもしれん。
そう考えたところで、唐突に一番大事なことを思い出した。
「そういや、マスクは無事なのか? 本郷は!?」
俺の言葉に、立花と滝はちらりと視線を俺の頭の方に向けた。
痛む体を無理やり動かしてその方向を見てみると、サイドテーブルに傷だらけのマスクが置いてある。そこから二本のコードが伸びていて、一本は側のテーブルの上にあるノートPCに、もう一本はなんと俺自身の体に繋がっていた。
愕然として、はく、と思わず空気が口から抜ける。
「な、んだ……これ」
「先ほど伝えたように、戦闘で負ったダメージによって意識はほとんど最低レベルまでに落ち込んでいた。それこそ、二度と目が覚めない可能性もあるほどにな。そのため、外部から刺激することで意識を引き上げることが現段階において最も有効だと我々は判断した」
「……つまり?」
「マスクに固定化させた本郷猛のプラーナを一時的に解放し、君の意識に介入させた」
「ッはぁ!?」
思わず飛びあがろうとしたものの、体が上手く動かずに、身体中に走った激痛によって無様にのたうち回るはめになる。深呼吸することでなんとか痛みから逃れるものの、どっと出た冷や汗が止まらない。それは、きっと痛みのせいじゃない。
「そ、そんなことをしたら本郷は、」
「あぁ、プラーナが漏出しそのまま消滅する可能性もあった。ただ、今現在緑川ルリ子がプラーナの再摘出と固定化の作業に入っている。成功すれば、再び本郷猛のプラーナがマスクに戻るはずだ」
「絶対戻るんだろうな」
「成功率は65%とのことだ」
「なんっだその微妙な数字は!」
「我々もそのために出来る限りのことをするつもりだ。しかし、そのためには君の協力がいる」
だから無闇に動くなと言われれば、こっちは大人しくしている他ない。
言いたいことは山ほどあるが、ひとまず飲み込む。しかし当然心スッキリとは程遠い。
「……相っ変わらず無茶しやがってあの野郎」
ふつふつと腹の底に怒りが溜まるのを感じながらも、ふとぼんやりとした記憶が蘇る。
暗闇にいた俺を連れ出した影。夢だと思っていたが、どうやら一概にそうとも言い切れないようだ。
「……案外落ち着いてるな」
「ア?」
「もっと怒り狂うかと思ってた」
ぽつり、と滝がそう言う。こいつの中で俺はどんな位置付けなんだ。
「そりゃ、腹立って仕方がないが……。あそこまで言われちゃ、信じるしかないだろ」
「は?」
信じることの怖さも、信じられることの重さもよく知っている。それは多分、あいつも同じだ。
しんじてくれ、と言ったあの声。あの一言にどれだけの覚悟がこもっていたのか、どれほどの勇気を振り絞ったのか。それは、きっと俺にしかわからない。
不思議そうに首を傾げる男を無視して、窓の外に目を向ける。
青い空に太陽が浮かんでいて眩しい。
その光は、相変わらずあたたかくて、もうあそこにはもどれねえなとなんとなく思った。