君に届くフローチャートは? 金曜夜、時刻は二十時。
普段は十八時ごろから客足が増加する、このスターバックスコーヒー。
しかし華の金曜日である今日、日々勤勉に働く社会人はバーやレストランで羽を伸ばすらしい。そのためか、この曜日だけは毎週二十時以降になると人が混みだす。
とはいえ、ここの店舗は都心の駅だとしても、末端に配置されている地下鉄の隣にあるため、もはやその地下鉄を利用する者しか立ち寄らない。
いつも空いていて余裕があり、混雑しても他の店舗に比べれば少し忙しいくらいだ。
ここで働くには人によっては退屈で、時間の流れが遅く感じるとストレスに思う者も居るとは思う。
だが、アルハイゼンにとってはこの環境がとても心地よい。
その結果、三年間無理なくルーティンとして、このアルバイトを生活に組み込むことが出来たのだ。
……そろそろか。
アルハイゼンは内心そんなことを考えながらレジに立ち、およそ四メートル先の透明な自動ドアをジッと見つめる。
そこに映るのは、地下鉄へ向かう者と、地下鉄から出てくる者が行ったり来たりする、いつも通りの代わり映えのないものだ。
……先週は来店しなかったから、おそらく今日は立ち寄るはず。二十一時以内に来るだろうか。
「アルハイゼン」
ぼう……と自動ドアを見つめていると、ドリンクカウンターのあたりから、少し怪訝そうな声で名前を呼ばれる。
アルハイゼンが声の主を見ると、バイトリーダーであるディシアが呆れたような表情を浮かべ、攪拌機の掃除をしながらこちらを見つめていた。
「なんだ」
「ぼーっとしてどうしたんだ? 体調が悪いのか?」
「いや」
「違うのか? じゃあ本当にぼーっとしていただけってことか」
「概ねそういうことだ」
いつもの無表情、そして厳格な言葉遣いで堂々とぼうっと突っ立っていたことを認めたアルハイゼンに、ディシアは「はぁ」と、失望とも安心ともとれるようなため息を吐いた。
「じゃあ、手持ち無沙汰になっているあんたに一つアドバイス。レシートの紙がなくなりそうだぞ」
「……」
確かに、先ほど自分が接客した客のレシートに、赤いラインが入っていた。それはこの内蔵されているレシート用紙があと少しの命ということを意味している。
アルハイゼンは「あとで換えなければいけない」ということまで考えが及んでいた。
しかし、今日はずっと頭の片隅にとある考え事が常駐していたため、忘れていたらしい。
「ありがとう。交換しておく」
ディシアのアドバイスを素直に聞いたアルハイゼンは、いそいそとレシート用紙を交換する作業に移った。幸い今は人が並んでいない。
「珍しいな。……あんたは楽をするための努力しているようなイメージだったから。意味もなくぼーっとしているだなんてことがあるんだな」
「……」
アルハイゼンは微かに眉間に皺を寄せた。
意味もなく呆けていた訳ではない。
アルハイゼンは今日一日ずっと、彼にとっては重大事項を思考しながら過ごしていた。
今日のアルハイゼンは「毎週金曜日の夜に来店する、とある客にどうアプローチするか」という表題で頭がいっぱいだった。
そして今は、その客がそろそろ来店する時間になったため、今か今かと待ち構えていたのである。他人が聞けば「なんだそんなくだらないことか」と言われても仕方が無いとは思っている。
くだらないことだとアルハイゼンも重々承知しているが、こんなくだらないことに真剣になったことも今まで経験がないため、更に真剣に考え込んでしまうという負のスパイラルが起きている。
半年前、アルハイゼンが夜の時間帯のシフトに戻ってきて初めての日、件の男性客の接客をした。
綺麗な長い金髪を、目を引くような赤いヘアピンで複雑に編み込ませており、そしてその攻めたヘアースタイルがかなり様になるほどの見目麗しい容姿をしていた。
列に並んでいるだけでキラキラと存在感を放つ彼は、笑顔でアルハイゼンに注文し、流れるように話し掛けた。
『最近入られた方ですか?』
目を見て、何の気無しに話しかけるこの男性客に、アルハイゼンは何も言葉が出てこなかったどころか、営業スマイルさえ浮かべることが出来なかったことを今でも覚えている。
アルハイゼンはレジの前に彼が来て初めて気が付いたのだが、眉目秀麗な容姿と、明るい表情とは裏腹に、とんでもなく疲れた目をしていたのだ。
そのギャップに近しい何かに、何故か……大きなショックを受けた。
目は、その人の全てを映し出すと認識している。
一見、眉目秀麗で美しいこの男性は、おそらく陰で何かしらとてつもない苦労や努力をしている。うっすら目の下に隈ができているのがその証拠だ。
さらにどこかしら、くたびれているように見えた。こんなに煌びやかな容姿をしているのに。
『ああ! いきなり話し掛けてしまってすみません。びっくりしましたよね。……僕は毎週この店舗に来ていて。店員さんと何気ない世間話をよくするんです』
『……そうですか』
『見たところかなり手際が良いので、最近入られた方ではないみたいですね』
『……そうですね』
会話はそこで終わったため、アルハイゼンは目の前の美青年を早々にドリンクカウンターに案内した。
今思えば「終わった」のではなく、アルハイゼンが「終わらせてしまった」という表現が正しいだろう。
アルハイゼンは己のコミュニケーション能力が急に消滅したことに、大きくショックを受け、内心頭を抱えて静かに落ち込んだ。
ちなみに言うと、店員としてのアルハイゼンはいつも多少の仮面を被っている。
この職場では客に対してほどほどに愛想良く、ほどほどに親切にして、客となんてことない世間話を軽く交わす。だが客と店員のラインはしっかりと引く。これで接客は大抵上手くいくのだ。
しかしこの美青年相手だと、上手く笑う事も、気の利いた言葉を紡ぐ事も出来ない。
まるでエラーが発生してしまったコンピューターのようになってしまう。
おかしい挙動をしたのは初対面だからだと思っていたが、そういうわけでもないらしい。あの金髪の美青年に出会うといつもこうなってしまう。
何故こうも仮面が破壊されてしまうのか。
その表題についてアルハイゼンは幾度となく考察をしたことがある。
その結果導きだされた答えというものは、「自分が彼に対して極めて強い興味を持っているから」である。そのため、極度の緊張状態になってしまうのだろう。
初めてこの美青年を見たときは誰もが目を引くような、美しい容姿にまんまと目を奪われた。
アルハイゼンはよく周囲から「頭は良いけど変わったヤツ」等と評価されるが、美的センスは一般人と大差は無いらしい。自分は意外と面食いなのだと思い知った。
次にあの、どこからか感じるくたびれた雰囲気だ。それがアルハイゼンの琴線に強く触れたのだった。
ちなみに「くたびれた雰囲気の何が良いのか」と問われていると返答に困る。この世の中には理屈では説明しきれないことが山ほどある。
加えて彼は「キャラメルフラペチーノのトール、エクストラホイップ、キャラメルソース多め、チョコチップ追加で多め、多めにした分を上からかける+フラペチーノ用のスプーン」を毎回注文し、テイクアウトで紙袋に入れてすぐに帰ってしまう。
アルハイゼンが見るに、彼が店でフラペチーノを飲んでいるところは一度も無く、そして先ほどのキャラメルフラペチーノのカスタマイズ以外のものは飲まないようだ。
……キャラメルフラペチーノしか飲んだことは無いのか? ああいう味が好みなのだろうか。何故金曜の夜だけ来店するのだろう。単純に華の金曜日だからだろうか。日によっては遅くまで残業しているようだが、どんな職業に就いているのだろう。年齢は……俺とあまり変わりはなさそうだが……。
金髪の彼が店に来る度に、様々な仮説を立て、彼のプライベートのことまで考えるようになっていた。
常連の客なんて何人も相手をしたことがある。
しかし、相手の頼むメニューや、職業に対して考えを巡らせたことは一度もなかったため、自分自身でも不思議に感じていた。
そして、アルハイゼンがようやく彼に興味を持っていると、明確に判明したのは先月のこと。
三月、彼は一度も来店することがなかった。
先月の勤務中に、アルハイゼンが毎週考えていたことは「今日も来なかった」ということである。今までは寝る前に読もうとしている本のことだとか、明日の休日に思いを馳せていたのに。
いつしか、あの美青年が来店することを期待する自分が、どこかに居たのだ。
生活環境の変化等で、ふとしたときにぱったり来店しなくなる客なんて五万といる。そのため常連客が一人来なくなったからといっていちいち気にしていてはしょうがない。
「最近あの人こなくなっちゃったな」と侘しく思うスタッフの気持ちがあまり理解できなかったアルハイゼンだったが、今になってやっと理解できた。
こんな気持ちになるのであれば、早々に話しかけて交友を持てるように努力するべきだった。
しかしそんな後悔を知ってか知らずか、四月になるとあの美青年は何事もなかったように、再び顔を出してくれた。
「久しぶりですよね」と愛想よく美青年に話し掛けるニィロウとの会話を、アルハイゼンは少し遠くのドリンクカウンターで小耳に挟む。
どうやら三月中来店していなかった理由は、ただ多忙で営業時間中に帰宅出来なかったためだそうだ。
ほっと胸を撫で下ろしたアルハイゼンだったが、このままではあまり良くないと感じた。
明確に、この美青年と交友を持ちたいと思っているということを、アルハイゼンはようやく自覚をしてしまったのである。
……いや、まだ「交友を持ちたい」とは思っていないのかもしれない。謎が多く、魅力的な彼についてただ気になっているというだけで……。正体不明なものに対して知りたいと思うのは学者としては当然のことだ。
……彼のことをもっとよく知れば、他の人間となんら変わりない人だと認識し、彼に対して抱いているとてつもない興味から解放されるのかもしれない。それはそれで、以前の自分に戻れるから良いことだ。
彼について知るということは、実際に交流し、他愛もない会話が出来る関係性になる必要がある。結局のところ交友を持てるように行動しなければいけない。
だが、内心意気込むアルハイゼンに対して、この美青年はアルハイゼンと積極的に交流を持ち掛けなくなっていた。
美青年の接客を担当して二回ほどは、軽い雑談を振ってくれていたが、アルハイゼンが「そうですか」という素っ気ない返答しかしなかったため、話し掛けられなくなってしまった。
当たり前である。むしろ彼は店員とほどよい距離を保てる、紳士的な客なのだと思う。
美青年はアルハイゼンが「仕事と関係のない話を、なるべくしたくない店員なのだろう」と判断し、ただ注文しかしなくなったのだ。
……それか、「俺が彼のことを嫌っている」と思われている可能性がある。彼に対してだけ素っ気ない返事に、無表情の接客……「俺が嫌っている」と勘違いされても文句は言えない。
アルハイゼンなりに印象を改善しようと、彼が注文した際はカップに「Thank you」と毎回書いて密かにアピールしていたものの、ささやかすぎてアピールだとも思われていないらしい。
よくよく考えれば当たり前のことだが、スターバックスの店員はカップによく落書きする。「Thank you」なんて単語、サービス業のありふれた常套句だった。
アルハイゼンはカップに落書きをしないタイプのスタッフのため、特別なことをしたつもりだったが、あの美青年には何も響いていないらしい。
……となると、やはりこちらから明確なアクションをしなければ。
「何度か接客を繰り返せば、いつかまた、彼から話しかけてくれるのではないか」と頭の片隅に淡い期待を抱いていたものだが、いつだって他人は自分の思い通りに動いてくれないものだ。
……何か相手にしてほしいことがあるのであれば、こちらもそれ相応の行動を見せなければならない。
そう考えたアルハイゼンは、今日、ついにあの美青年に話し掛けようと決めたのだった。
話しかける話題を一週間かけて考え、就職活動そっちのけで会話パターンのフローチャートまで作成した。むしろ面接よりも対策しているかもしれない。
……初めてこちらから他愛のない会話を仕掛けるのだから、距離感を保ったまま、無難な話題を振らなければならない。
……しかし無難な話題すぎるのも、こちらが無理に交流を持とうと頑張っているように見えてしまうかもしれない。「頑張っている」等と感じられてしまえば、相手に気を遣わせてしまう。つまり天気の話題に逃げるのはNGだ。
……となると、素直に自分の疑問から、会話を切り出せば自然に見えるのではないのだろうか。無難かつ、相手に踏み込み過ぎない程度に気になっていることといえば……
アルハイゼンは、美青年がいつも独自のカスタマイズをしたキャラメルフラペチーノしか頼まないことに着目した。それを話題の切り口とし、今の期間限定のフラペチーノをお勧めする、というシナリオを描いたのだった。
同じものを頼む客に対して、言及するスタッフは少なくない。そして期間限定のフラペチーノを提案することも、ごく自然なことだ。
さらに、キャラメルフラペチーノや、そのカスタマイズを見るに、あの美青年は十中八九甘党だ。今の期間限定であるピスタチオのフラペチーノは、万人受けする味で、彼好みの甘さだと思う。
それにアルハイゼン自身も、珍しくその期間限定のフラペチーノを気に入っていた。自分でも美味しいと思っているものならば、自信を持って勧めることができる。
今日、一日中ずっと彼との会話シミュレーションを脳内で繰り返し、今に至ったのだった。ディシアに指摘されてしまったが、断じて阿保のようにぼうっとしていたわけではない。むしろいつもより頭をフル回転しているぐらいだ。
……期間限定のフラペチーノは気に入ってくれるだろうか。……いや、それ以前に今日は来店するのだろうか。仕事が落ち着いたのならば二週間に一回、たまに二週連続の頻度で来店する印象だが。どうだろう。
エンドレスに悶々と考えていると、店の人足は多くなってきた。ショッピングや食事を終えた社会人が帰るついでにここに寄ってきたのだろう。
レジはアルハイゼンとディシアの二人体制で対応し、列に並んでいる客に対してニィロウが気を利かせてメニューを渡している。
ちょうど、よそ事を考える余裕が無くなったときだった。
注文を受けてドリンク担当にカップを渡した瞬間、ふと、視界の端に金髪の男性が入った気がする。
自分のレジに戻り、ちらりと列の最後尾を見やると、やはりあの、待ちに待ったあの金髪の美青年が居た。彼は何やらスマートフォンを弄っている。
アルハイゼンは密かに逸る気持ちを抑えながら、誰にも気が付かれないような深呼吸をした。
……来た。並んでいる客は九人。そのうち一人目を今俺が担当するため、九人目にあの美青年がいるということは順当に案内すればこちらに来るはず。となりでレジを対応しているのはディシア。とんでもなく面倒な自体が発生しない限り問題ないだろう。よく、レジに来て初めてメニューを見て悩む客がいるが、ニィロウが予めメニューを配ってくれていたため、客はスムーズに商品を選ぶはず。
その思考時間およそ〇,〇五秒。
「お待たせいたしました。こちらでお伺いします」
美青年の接客が出来ると確信したアルハイゼンは、いつもの営業的な微笑を浮かべ、列に並ぶ一人目の接客を開始した。
いつも通り注文をレジに打ち、客に注文内容を確認してもらう。そして会計をして、注文された内容がプリントされているシールをカップに貼ってドリンク担当に渡す。
その一連の動作一つ一つの間に、ちらちらと美青年の様子を確認する。
彼の服装はシックなブラックのシャツに、ライトブラウンのスキニーを履いている。スマートフォンを持っていない右手には、ノートPCケースとカルディの紙袋を持っていた。
髪型は女性が使っていてもおかしくないような繊細なデザインのバレッタで、ハーフアップにしている。そのためか常につけているであろう重そうな揺れもののピアスがよく見えた。
……なんというか、いつもに比べて今日はかなり余裕があるらしい。容姿が仕上がりすぎている。
ただスマートフォンを見ながら列に並んでいるという、なんら変哲もない光景なのにやたら様になっている。背景がスターバックスコーヒーということも相まって、切り取ればポートレート写真としても成立しそうだ。
今日はいつもの、くたびれて、それでいて色気がある雰囲気とは違う。しかしこれはこれで惹かれるものがあると、アルハイゼンはぼんやり思った。
……今日の服装について言及しても良いかもしれない。
……いや、初めてこちらから話しかけるのにそれは流石に距離が近すぎる。彼はくたびれているどころか目が死んでいて髪もボサついているときもあれば、いつもより容姿を整えているときもある。おそらく仕事の忙しさに影響されているのだろう。
アルハイゼンが美青年の一挙手一投足を観察しながら、器用に接客をこなしていると、スマートフォンを眺めていた彼が顔を上げる。
一瞬目と目が合ってしまったような気がして、アルハイゼンは素早く視線を逸らした。
気を取り直して次の客を案内すると、数秒後に自動ドアの開く音が聞こえた気がしたため、はっと店の入り口を見る。
すると、店を出ていくあの美青年の後ろ姿を捉えたのだった。
……これは想定外だ。
考えてみれば、彼が来るときはいつも空いているときだった。九人も待っているときに来店したことは無かった気がする。
つまり、待てなかったのだろう。こんなに簡単な問題、何故想定できなかったのだろう。
客には様々な事情がある。もしかしたら、このあと予定が入っていた可能性もあるし、待つぐらいなら購入を諦めてもおかしくはない。
……なんだ。
内心アルハイゼンはかなり落胆していた。
今日、彼と会話をするというだけのために、自分の思考と時間のリソースを割いていたのである。それなのになんの成果も出せなかったということは、拍子抜け以外の何物でもない。
……いや……きっと、それだけじゃない。
自分の考えてきたフローチャートが披露できなかったとか、時間が無駄になったとか、きっとそんなのはどうでも良かった。
なんならそれらは無駄になったわけでもない。彼はおそらくこれからも来店するだろう。そのときに活かせる場なんていくらでもあるのだから。
ただ、彼が来店した瞬間、アルハイゼンは彼との会話を自分が思っている以上に期待していた。
それが裏切られたことによる反動である。
……別に裏切られたわけでもないし、会話するチャンスなんて、きっとこれからいくらでもあるのに……らしくない。
しかし、ここで表に出さないのがアルハイゼンの長所。客には内心の揺らぎを一切感じさせないように、ミスなく仕事をこなした。
+++++++
あの美青年が去って約一時間後、アルハイゼンはポジションの交代をしてドリンクを作っている。
すでに客足は落ち着いており、レジも一人体制に戻っていた。
アルハイゼンは何気に、ドリンクを作るのが業務の中で一番楽だと思っている。
スターバックスは多くのメニューに数多のカスタマイズが出来るため、間違えやすくて苦手だと言うスタッフも少なくはないが、アルハイゼンはカップに記載されているものをただ作れば良いと捉えている。
まるでロボットのような正確さを持っているアルハイゼンからしたら、面倒くさい客を相手にする可能性があるレジよりも、幾分気楽なのだ。
「はい、アルハイゼンさん。ここに紙袋おいておくね」
「ありがとう」
レジを担当していたニィロウからカップを渡される。カップに貼ってあるシールにはキャラメルフラペチーノ、カップの側面にはカスタマイズの補足が記載されていた。
……キャラメルフラペチーノに、エクストラホイップ、キャラメルソース多め、チョコチップ追加で多め、そして多めにした分を上から掛ける……
誰かさんの好きそうなカスタマイズと思ったが、このカスタマイズを頼む客はこの店舗に何人もいる。特に何も考えずいつも通りに作成した。
撹拌機から出来上がったドリンクをカップに入れ、ホイップをカスタマイズ通りに気持ち多めで絞り、チョコチップを振りかけてからキャラメルソースを多めにかけ、完成だ。
最後にドームリッドを被せて紙袋に入れようとした時、アルハイゼンは一瞬手を止めた。
……ん?
紙袋の底に、フラペチーノ用の細長いスプーンが入っていた。
アルハイゼンが振り返ると、ドリンクカウンターにはあの、帰ったはずの美青年が立っていた。
アルハイゼンは思考が追い付かず、商品を渡すことを忘れ、無表情で立ち尽くす。
すると美青年は不思議そうに首を傾げてこちらを見つめてから、何か気が付いたように「あ!」と声を上げてから気まずそうに笑った。
眉を少しだけ八の字にして、微かに頬を染めて恥ずかしそうにしている彼の顔が、ターコイズの瞳に鮮明に映し出される。
「……もしかして、さっき僕が来ていたことに気が付いていました?」
話し掛けられている、と、脳が判断するのに二秒要した。
「……はい、お待ちいただいているのを見ていました」
「あはは、恥ずかしい……帰ったはずなのに、なんでもう一度来ているんだって思っていますよね」
「いえ、別に」
「……さっきは混雑していたので……ほら、僕の頼むフラペチーノってカスタマイズが複雑で、作るの、きっと大変でしょう」
確かに彼の察する通り、彼のカスタマイズは一般的なスタッフからすると手間がかかる。単純なフラペチーノに比べて工程が増えるし確認作業が多くなる。スタッフとしては注文が入ったならば何時だって完璧に提供できなければとも思うが、混雑しているときに注文されると内心悲鳴を上げるものもいるだろう。
彼が帰ってしまったのは、ただ単純に「待てなかった」というわけではなかった。好きな商品を気兼ねなく購入するために暇を潰してから、また買いに来てくれたらしい。
アルハイゼンは少しだけ頭を下げながら、紙袋を手渡した。
「……お気遣いいただき、ありがとうございます」
「とんでもない。……ふふ、少し意外でした」
美青年は紙袋を受け取ると、ふ、と微笑を浮かべる。
含みのある言い方に、アルハイゼンは頭に沢山のはてなを浮かべていた。もう会話の文脈が何も読み取れないらしい。いつもあんなに読書をして、幾度となく行間まで読んできたのに。
アルハイゼンが「何が」と問いかける前に彼は口を開いた。
「よく見られているんですね。お客さんのこと。……良い店員さんだ」
その笑顔は本当に太陽のように眩しくて、しかしそれでいて迂闊に近寄ったら焼け死んでしまうような破壊力があった。そしてそれはアルハイゼンだって例に漏れない。
そこからしばらく、アルハイゼンは心ここにあらずとなり、美しい置物となってしまった。
++++++++
「アルハイゼンさん?」
ぼう……と、マネキンのように突っ立っていたアルハイゼンは、無垢な少女の声によって意識を取り戻した。
「どうしたの? ぼーっとして」
「……なんでもない」
「もしかして、さっきのお兄さんに見蕩れちゃった……?」
「……」
「綺麗なお兄さんだよねー……。あ! もちろんアルハイゼンさんも負けてないよ……!」
この少女は、謎のフォローをしてくる割に、やけに鋭いことを言い当ててくるな、とアルハイゼンは思った。
ニィロウはここでアルバイトをしつつ、ダンサーとして活躍している。そのためか感受性が強く、第六感もかなり働くところがあるのだ。
見蕩れていたわけではない、と、咄嗟に言い返そうとしたが、実をいうと彼女の推測はあながち間違いではない。正直見蕩れていた。
その証拠に、アルハイゼンの心臓はドキドキと五月蠅い。このまま心臓だけ走ってどこかにいってしまうのではと思うぐらいだ。
「さっき楽しそうにお話してたね、二人とも」
ニィロウは何気なくそう言って、アルハイゼンの締め作業を手伝うように、材料を少しずつ片しはじめた。
……楽しそうに、話せていたか……?
とてもそんな楽しい会話が出来たとは思っていないが、客観的視点がそう言っているのなら、おそらくそうなのだろう。
あれだけアルハイゼンが思考錯誤して考えてきたフローチャートは一切使用されなかったが、そんなことをしなくてもなんやかんや話せてしまった。もしかしたら、もっと気楽に考えても良かったのかもしれない。
……来週も来てくれるだろうか。そうしたら、次は必ず俺から話を振って、話の主導権を握る。そしたら次回はさらに話しかけやすくなるから……そうしたら……。
そうしたら俺は、あの人の何になりたいのだろう……。
その疑問に突き当たったとき、アルハイゼンは考えることを意図的に放棄した。
この春のような浮かれた気持ちの正体を知ってしまうのは、とても厄介だと悟ったからだ。