長い紐と繋がった小さな革袋を首から下げたヒースクリフは、いつものしかめっ面で見上げた。
その表情には、世間に対する不満や怒りとかそういった攻撃的な感情は含まれていない。むしろ下手なことをして母犬に怒られたくない子犬を連想する緊張した顔つきをしていた。
キュッと口を固く結び、両手を後ろに回しながら足の爪先で地面をなぞる少年を、ムルソーも黙って見下ろす。
自分の手をそれぞれ膝に当て、相手の目線に合わせるよう少しずつ屈んでは静かに話しかけた。
「…いいか、さっき言った通り、お前に買い出しを任せたい」
首に下げさせた革袋を指差すと、ヒースクリフの丸い瞳が指差した方向を律儀に追う。
そして返事の代わりに首を縦に振った。
大人たちの声に積極的に耳を傾けているような様子を見せてはいるが、自ら声を発してコミュニケーションを取るのは好きではないらしく、首を振るなどの軽いジェスチャーで済ませるのが多かった。
それでも肯定の意を受け取ったムルソーは軽く頷く。
「俺は、ここで片付けるべき業務がまだ残っているのでしばらく離れることが出来ない。だからお前に任せたい」
「移動するのに困らない程度の"時間"も十分にあるはずだ。それも絶対に落とすな」
と革袋とは別の、鈍い光を放つ懐中時計を指差す。
デッドラビッツのアジトでもある酒場の扉を腹を空かせたヒースクリフがノックしてきた頃には既に首に下げており、裏路地育ちの孤児にしては着ていた服も同様、質が良い懐中時計を持っているなとムルソーは前々から思っていた。
誰から貰ったか、と揶揄い半分で聞かれても一度も教えてくれないままだが、実の親か親変わりの誰かから貰ったと解釈した方が納得がいくと、あえて触れないことにしていた。
その判断が功を奏したのか、ヒースクリフはよりムルソーに懐くようになって今に至るのである。
話は戻り、ムルソーはバットの補強に使うためのパーツと工具を指定の店から買ってきてほしいことを相手に伝えた。
本当は、生活するのに欠かせない食材を得られる場所を覚えてもらう狙いで市や店を回ってほしかったが、人数分買わせるには体が小さいし、何かあった時に動けなくなりそうなのでそれは後で教えることにした。
パーツと工具なら彼の鞄に入るので大丈夫だろう。
ムルソーからのお願いをヒースクリフは、渋ることなく快諾した。
尊敬する兄貴から仕事を任されたのが嬉しいようで、ムスッとしたしかめっ面の表情がやや柔らかくなる。
準備が整ったヒースクリフは酒場の扉をくぐり、歩幅の小さい足取りでテクテクと進んでいく。
そんな小さな背中を腕を組んで見送っていたムルソーの口から「さて」と独り言がこぼれたのを合図に一味のうちの数人が椅子から立ち上がった。
「兄貴…いくら心配だからといって、それは過保護すぎやしませんか」
「アイツのことだ、勝手に尾行してたのがバレたら数日は口を利いてくれねぇ」
詳しい年齢は不明でも小柄でまだ幼いヒースクリフを裏路地に一人だけで歩かせといて呑気に口笛を吹いたり酒を呷れるほど薄情ではない。
それはムルソーも同じだった。
色んな危険が潜んでいる裏路地に一秒でも早く慣れてもらいたいといった親心に近い何かを抱いてはいるも、本当に買い出しに行かせて良かったのだろうかと心配で仕方ない部分もある。
だからこそ、ヒースクリフが無事に店まで辿り着き、頼まれた物を金と交換し、ちゃんとアジトまで帰って来れるか最後まで見届けるべきだ、とムルソーは思い至ったのだ。
留守も兼ねてアジトを守る担当と自分と一緒に周囲への警戒をしながら彼の行方を見守る担当に分けたうえで、ムルソーは酒場の扉に手をかけた。
デッドラビッツの一人から譲り受けた古ぼけた鞄を握り締めては、キョロキョロしながら歩くヒースクリフをムルソーを筆頭に数人が陰から見守る。
細道の壁に背をつけた格好で少しだけ顔をのぞかせたと同時にヒースクリフが振り向きかけた時は正直、ヒヤッとした。
幼いながらも視線や感情の動きにはかなり敏感だったな、とムルソーは目を細める。
そんなスキルをどこでどのように身に付けたかは何となく想像できる。それを尋ねることは彼をひどく傷つける行為であるのも何となく察しているのでそっとしている。
霧に紛れてうっかり見失ってしまわぬよう集中しながら次に身を隠す場所を目で探す。
懐中時計に目をつけた浮浪者が後をつける前に細道へ引きずり込んではきっちり締めたり、無事に入手できたパーツや工具を横取りしようとした他のギャングもしっかり潰すなど最後まで守り抜いたムルソーは、誇らしげな表情で鞄を差し出してきたヒースクリフの頭を撫でたそう。