ムルヒス『お礼』 ついに恐れていた時が来た。
手のひらほどの小さな箱を握り締めたムルソーは、思わず顔をしかめてしまう。
あれだけ吸ってきた煙草の小箱には残り一本しか入っていない。
あぁ一本ずつ減っていくなと思いつつ、デカい仕事を終えた後の吸いたい衝動には逆らえないと身を任せてきた結果がコレである。
今いる裏路地では全く物品が出回らないわけではない。
必需品を揃えるには相応の価値を支払う必要があるのは常識だ。その同時に、需要と供給のバランスによって価値観も激しく変化するのも常識だろう。
前は生活用品を揃えるついでに買えたからといって油断をしていると足元を見るような価格を突きつけられる可能性をムルソーは恐れていた。
かといって煙草を我慢しながら仕事を続けるとそのうち精神がもたなくなるのも想像に容易い。仕事を終えた後の褒美が生き残るのに必要だから。
どうしたものか、と悩むムルソーの後ろからヒースクリフがゆっくりとした動きで近づいてきた。
気になる物があるからと出かけて行ったのを思い出し、「帰ってきたか」と迎えの挨拶をかけるとコクリと頷かれる。それでもこちらを見つめてきたまま去ろうとしないのにムルソーは不思議がった。
保護費を回収する仕事に取り掛かるには人数が集まっていないし時間もまだ早い。
想定外のトラブルが発生したのか、それとも小腹が空いたのかと推理するように見つめ返していると、何かを言いたそうにしているのに気づく。
「あ、兄貴ぃ…」
どこか言いにくそうにしているヒースクリフは、しきりに片腕をさすったり上着のポケットに手を突っ込んだりと落ち着きがない。
「トラブルなら言えるうちに報告すべきだ。対策を練るにも時間が多い方がいいからな」
「違ぇって…!」
「あのさ、えぇと…厄介者の俺を拾ってくれただけじゃなくて、裏路地で生き残る術まで色々教えてくれた兄貴にすんげぇ感謝しているんだ」
「……」
両手をあちこちに動かしながら必死に話すヒースクリフにムルソーは目を丸くする。
アジトに転がり込んできた頃と比べると毒気も多少は抜け、聞き分けのいい子供になりつつあると感じてはいたが、こんなにも感謝されているとは思わなかった。
相手から感じる素直な好意を快く受け止めていると、ヒースクリフが上着のポケットから何かを取り出した。
「だから」
と照れくさそうに視線を下に向けながら、ヒースクリフは恐る恐ると手を突き出す。
その手の中にはあの煙草の小箱が封の切られていない状態で握られていたのに、ムルソーの目が更に大きくなる。
まさかの欲しがっていた物が思いがけないタイミングで現れたからだ。
ヒースクリフの差し出した煙草をムルソーはジッと見つめる。
さっきから一言も発さず、ただ見つめてくる兄貴に居心地の悪くなったヒースクリフは段々と肩をすぼめ、少しずつ逃げ腰の体勢に入る。
「や、やっぱり…好みじゃなかったら他の人にあげるからぁ…」
いよいよ逃げ出しそうになったところをすかさずムルソーが抱き締めた。
お前のとった行動は大正解だ、と言葉の代わりに示すかのようにやや力強く抱き締めては癖のある髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
独りで狩りに行った猟犬が獲物を持って帰ってきたのに等しい大手柄だ。
己の感情を言動に含めることさえ珍しいムルソーがこんな大胆に褒めてくるとは思わず、褒められ慣れていないヒースクリフは慌てて背中をタップし、中断を乞いだ。
「すまなかった、丁度切らしかけていたところにお前が買ってきたと言うから」
「よ、喜んでくれたのなら良かったぜ…」
かなり揺さぶられたらしく、髪だけじゃなく服も乱された格好でヒースクリフはホッと安堵の息をこぼした。
ややこしい案件から保護費を取り立てたり、ギャング同士の争いに勝った後は吸っているのをよく見かけるのでもしかしたら…と思い、物々交換市場を歩き回ってきた成果をここで得られた気がする。
後頭部や背中に残る手の温もりをぼんやりと振り返っていたヒースクリフは照れくさそうに笑う。
普段は厳しく躾てくる時はあれど、こうして褒めてくれる時もある兄貴だからこそ心から尊敬している。
受け取っていた小箱を眺めつつ、何かを考えていたムルソーは、懐から小箱を取り出すと残り一本だった煙草を咥えては躊躇なくライターで火をつけた。
色のない世界ゆえに、茶色に揺らめく火がほぼ灰色な煙草を燃やそうとしているにしか見えない。
ジュッと紙が燃える音がした直後、立ち上る煙草特有の匂いが鼻腔をくすぐる。
あえて深めに吸わず、小刻みに吹かしながらムルソーはヒースクリフから受け取った新しい小箱の封を切り、その中の一本を相手の口元へ近づけた。
咥えろ、と言いたげに唇にトン、と触れさせてきたのに面食らったヒースクリフは驚いた表情で口に挟むようにパクッと咥えてしまう。
それを合図に、ムルソーの上半身が傾いたと同時に相手の後頭部を手で支えながら自ら顔を近づけようとする。
先に火のついた煙草がヒースクリフの咥えた煙草に当たる。
急に距離を詰められたのに驚き固まるヒースクリフをよそに、ムルソーは眉一つも動かさず、淡々とした表情で煙草同士を擦り合わせ続ける。
火を強めさせるためなのか、時々吹かしている際の呼吸音がかなり近い距離で聞こえるのがヒースクリフの鼓膜を震わせた。
やがて煙草の先端に火が付き、少しずつ煙が立ち上るのを確認したムルソーは、ひと仕事を終えたような表情で相手の顔から離れていく。
「……」
ヒースクリフは相変わらず面食らったまま固まっている。
対し、ムルソーは煙草を人差し指と中指で挟みながら美味そうに吹かしていた。心なしか、いつもよりもリラックスしているようにも見える。
「…兄貴、最初の一本を俺にくれていいのか?」
「買ってくれた礼だと思ってくれ」
「それに、思い残すことなく吸えるのが気持ちいいんだ」
さっきまでは最後の一本をどのタイミングで味わうべきかと悩んでいたのが解放されたかのように時々目を細めては深く吸い込み、長めに煙を吐く。
「お前は良いところで買ってきた、それ相応の礼を貰う権利がある」
「は、はぁ…」
何故、兄貴はそんなに機嫌がいいんだろう、と何も把握出来ていないヒースクリフの咥えた煙草から灰がポロッと落ちる。