Nムルヒス【訪問】 ある日の浄化活動後。
異端の体を釘で貫いたつもりが金属製の肌のせいで深くまで貫通しきれていなかったことが後で判明し、追いかけてトドメをさした中槌はヒースクリフの襟首を掴んで乱暴に揺する。
日々の教育と慢性的な睡眠不足で心身的に弱りつつあったヒースクリフは、叫びすぎてもはや言葉になっていない罵声を浴びされた恐怖で固まり、ひたすら謝罪の言葉を繰り返すことしかできなくなった。
ごめんなさい許してください今度こそちゃんと浄化…と消え入りそうな声で発し、紫色の瞳を涙で歪ませる姿に中槌は仮面の下でほくそ笑む。まさに弱い者いじめだ。
罰の時間だ、と握り締めた拳を見せつけてからわざとらしく大きく振り上げる。
ヒースクリフの顔を目掛けて殴りつける予定だった拳は後ろに立っていた者の手によって止められた。
「誰だ?教育を止め…ひぃぃっ!大槌様!?」
これから楽しくなるところを止められた苛立ちを隠せず、振り返った中槌は驚き飛び上がった。その拍子にヒースクリフを突き飛ばしてから壁際まで後すざる。
中槌による教育を止めた当人…大槌ムルソーは、突き飛ばされて尻餅をついたヒースクリフをほぼ睨みに近い表情で見下ろしてから中槌へ視線を移す。
「…状況を見るに、小槌へ教育を授ける途中だと判断する。間違いはないな?」
「はい!その通りです!」
さっきまで小槌相手にイキっていた中槌は、今度は大槌相手に低姿勢の態度ですり寄る。
そんな態度の切り替わりの早さをヒースクリフは呆然と見つめる。
「そのひたむきな姿勢…握る者が知ればさぞ喜びとなろう」
「ただ、ここからの教育は私が引き継ごう。この小槌には覚えてもらいたい事がある」
「え……」
殴られずに済んだと安心したところで、ムルソーの口から告げられた言葉にヒースクリフは青ざめる。
絶望で俯く彼の横で中槌は大きく首を横に振る。
「い…いやいやとんでもない!大槌様自ら、この”落ちこぼれ”に教育なんて、そんな手間のかかるようなことを…」
「私が引き継ぐと言った」
異論は認めない。と遠回しに言ってるともとれる圧の強さに中槌は何も言えなくなる。
大人しく引き下がるしかないとの判断で渋々立ち去る後ろ姿をムルソーがどんな目で見送ったかは、顔を見ていないヒースクリフは知らないままであり、これからも知ることはないだろう。
落ちこぼれの単語が聞こえた直後、ムルソーの眉間に寄せられた皺が更に深まったことも。
ヒースクリフは下を向いたきり、顔を上げようとしない。これからどんな罰を受けるか想像しただけで怖くて仕方ないからだ。
そんな彼を無言で見下ろしていたムルソーは、二の腕あたりを掴み、立ち上がるよう促した。
「ひ、あっ…あ、今度は、今度こそ…ちゃん、と…浄化を…」
「…それでよろしい。それが握る者にとって、最も望んでいることだ」
「……」
教育を引き継ぐと告げたわりには平手打ちの一つもしてこないことにヒースクリフはますます混乱する。
「あ、あのぉ…大槌様、教育……」
「…先程の金槌がやろうとしていた内容だけが全てではない、と私は考えている」
「は、はぁ…」
相手の考えがいまいち分からず、ヒースクリフは曖昧気味に返事をする。
では大槌様の考える教育とは何だろうか?と疑問に思うも問えるまでの勇気はなかった。
結局、様子を伺うように見つめるしかできないヒースクリフをムルソーも無言で見つめ返すだけで時間は過ぎていく。
あの出会いをきっかけに、他の大槌中槌とは違い暴力を振るってこないムルソーにヒースクリフは少しずつ信頼を寄せるようになり、度を越えた教育の被害を受けがちなヒースクリフを気にかける言葉をムルソーは残すようになった。
例えるとしたら、鉄の匂いしかしない乾いた地面の上で膝を抱えていたところ、食糧と水を与えてくれた救世主にあたるのだろうか。
途中、周囲から絶賛を受けているはずの大槌様が何故落ちこぼれの自分に構うのですかと問うと、ムルソーは決まって眉間に皺を寄せるのでヒースクリフは似た質問を二度としないことを決めた。
ある日、N社を象徴する釘と金槌をクロスさせたレリーフが飾られてるドアの前でヒースクリフは足踏みしていた。
誰かに見られる前に去ろうと廊下の左側へ歩いてはUターンし、今度は通りすがりを装おうとドア前を横切って右側へ向かってはまたUターンするといった動きを数回繰り返した後、再びその場で足踏みする。
前日、効率よく浄化できていなかった罰だと先輩から殴られた痕が未だ残ってる顔をさすっているといつもより厳しい表情を浮かべたムルソーが口を開いた。
正しくはマスクに似た機械の下で口を動かした、になるだろうか。
「握る者が下した令に従い、異端を浄化しに行くなどの活動で場を離れていなければ…私の部屋を訪ねることを特別に許そう」
「へ、部屋…とは?」
意図が読み取れなかったヒースクリフは心から戸惑い、小槌にかけていい言葉ではありませんと断った。
そんな断りの言葉を受けてもムルソーは引き下がらず、「部屋の主が許そうと言っている」と再度言い放つ。
大槌様の言葉に逆らうわけにはいかないヒースクリフは結局、首を縦に振って今に至る。
あぁ言ってはいたが、俺のような落ちこぼれが気軽に訪ねて行っていい場所ではない。
一章ずつでも経典の内容を覚えられるよう時間をかけて読み聞かせてくれる時もあれば、そこまで自分を卑下するなだお前ならできるだと励ましてるようなことを言ってくる時もある。
大槌様にそこまでやってもらえるような価値が俺にあるとは絶対思えない。
日々の暴力で尊厳をゴリゴリに削られていったヒースクリフはムルソーの言葉に本気で甘えていいか分からなかった。
これも自分を貶めるための虚言だと疑い、優しくされるほどの価値が俺にあるわけがないと嘆く。
「はぁ……帰るか」
決めたヒースクリフは、ゆっくりとドアへ背を向ける。
そのまま仮眠室に戻って、経典の一章でも覚えることを優先した方が何よりの貢献になるはずだ。
その時、ギィ…と何かが擦れる音が鼓膜に触れた。
ドアの蝶番が擦れる音だと脳が認識するより先に二つの大きな手がヒースクリフの視界内へ侵入してきた。
突然の出来事に悲鳴をあげそうになるも、片方の手で口を押さえられたせいでくぐもった声しか出ない。
後ろで少しずつ開かれていくドアに合わせてムルソーが姿を現す。
「あっ…」
いつもの甲冑で身を包んだムルソーの深緑色の瞳が驚き固まるヒースクリフの横顔を映す。
「…どうした。ここに用があるのだろう」
腕の中で震えるヒースクリフの顔を更に覗き込むようにムルソーの顔が近づく。
常に眉間に皺を寄せたような表情に加え、顔のほとんどを占める緑色に輝くチューブと繋がっているらしきマスクに似た機械で口元が隠れているため、どういった狙いでこの行動をとったか、ヒースクリフは判断ができなかった。
「あ、それは…その…」
確かに大槌様に会いに行くつもりで訪ねる気持ちはあった。
しかし、訪ねる権利が自分にあるとは思わなかったし、本当に許可を出してたとも思わなかった。
「安心されよ。前に告げた通り、この部屋へ足を踏み入れる許しをお前はもらっている」
ムルソーは言いきる。
日々の教育に怯えては蹲るしかできない彼を更に貶めるための虚言をわざわざかける必要は無いと判断しているからだ。
むしろ彼に必要なのは心身的に休めれる場所である。
低い立場につけ込んで歪んだ欲を満たすことしか頭にない金槌たちから一時的に遠ざけれる場所が我の元にあるならば、考えるまでもない。
「私はお前を迎え入れる気持ちでいる」
気づけば彼の紫色の瞳が涙で歪んでいるのにムルソーは首を首を傾げるも、相手の体を自分の方へ引き寄せながら一歩ずつ下がり始める。
長靴の踵が床を擦るが、部屋内へ引き込もうとする動きを緩めさせるには不十分だった。
何かに縋りつきたい一心で伸ばした手は、追いかけるように後ろから伸びてきた大きな手に掴まれた。
最初に掴まれた手首に沿って、手の甲から指へと大きな手が這い、最終的に5本の指まとめて握られる。
無礼なのを承知の上で振りほどこうと、もがいてみてもビクリともしない。
一方、ムルソーはやや力強く握り締めた手ごとヒースクリフの手を口元へ近づけては機械越しに触れさせた。
自分こそが味方であると言い聞かせるかのように。
大粒の涙を数滴飛ばしたのを最後に、バタンッとドアは閉ざされた。