「小生といることが、あなたを押し込めているのでしょう」
彼はリビングの中を見回しながら言った。
「小生に遠慮しているのでしょう。あなたは優しい人ですから」
悲しかった。それから、腹が立った。私の何をもって彼は優しいなどと言うのか。
「違います。私は卑怯だし、汚いし、優しくなんかない」
「それでも、やっぱりあなたは優しいですよ」
彼はオレンジの瞳を細めて、尚そう言った。
では、この後ろめたさは何なのか。私の心にあり続けるやましさにどう説明をつけるのか。
「もう、いい加減にしてっ」
私は彼の胸を思い切り突き飛ばした。思ったよりも抵抗なく、彼は床に倒れていった。テーブルの脚に強かに頭を打ったようだった。
ほらね。私は優しくなんかないのだ。こんなことをしたって平気でいる。身に染みて分かったろうと彼を助け起こそうとするが、彼はぴくりとも動かなかった。
身体の中へ急激に意識が流れ込み、私は目を覚ました。アラームを止める。身体を起こすと関節がパキパキと鳴った。書斎の小さなソファから落ちないように、無意識に力んでいたのだろう。
昨夜はなかなか寝付くことができなかった。もぞもぞと動き続けてハッサクさんの眠りを妨げるのも悪いので、私は夜中に寝室を抜けて、書斎のソファで眠ることにしたのだ。こういうことはよくあった。
勾配の急な階段を慎重に降りる。家の中はしんとしていた。リビングへ行くと、テーブルの上に書き置きがあった。
『おはようございます 冷蔵庫に朝ご飯がありますよ』
いつもはハッサクさんが起きるのに合わせて私も起床するのだが、今日は当てずっぽうでかけたアラームと彼の起きるタイミングにずれがあったようだ。ハッサクさんは私を気遣って起こさないように家を出たようだった。冷蔵庫を開けると中の照明が眩しく、私は家の中が薄暗いことに気が付いた。キッチンの小窓から外を見ると、どんよりと曇った空が見えた。オムレツと炒めたベーコンの乗った皿を電子レンジに入れ、ブレッドケースを開く。食パンを袋から一枚取り出して、手に持ったままで電子レンジが鳴るのを待った。
朝食をとりながら、スマホロトムで天気予報を調べる。今日は午後から雨が降るらしい。食材の買い出しを昨日のうちに済ませておいてよかった。洗濯も今日はやめておこう。二人暮らしの量だから、一日休んだってなんてことない。
食べ終えた皿をシンクへ持っていく。水で軽く濯いで、スポンジに含ませた洗剤を泡立てる。
あの書き置きを見た時、私はほっとした。あの悪い夢のとおり、ハッサクさんがいなくなってしまったのではないかと恐れていたからだ。そんな考えは馬鹿げていると分かっているが、それでも、あの几帳面な字で書かれたハッサクさんの痕跡を見た時、私は心底安心したのだ。
洗い終えた皿を水切り籠に入れる。
今日は室内の掃除をする。
手始めにキッチンシンクと洗面台を磨き、次にトイレと風呂をいつもより念入りに掃除した。
二階へ戻り、本棚や楽器や趣味のものが雑多に詰め込まれた部屋に入る。私たちはこの部屋を書斎と呼んでいる。休日にここでハッサクさんがピアノを弾いたり本を読んだりするのをソファで眺めるのが好きだった。本棚の上にハンディワイパーをかけ、窓のサッシを雑巾で拭いていく。アップライトピアノの前に立つと、上にかけられた布にうっすらと埃が積もっていた。
ここ最近、ハッサクさんは学校にリーグにと仕事が立て込んでいるようで、家でピアノを触る時間が無いようだった。普段は、朝出かける前や夜の空いた時間に、ピアノを消音してヘッドホンをして、毎日のように弾いていた。
以前、「毎日趣味を続けていてすごい」と言ったことがある。ハッサクさんは笑ったが、微かに苦いニュアンスがあったのを私は覚えている。彼にプロの音楽家を志した過去があるということを知ったのは、それからしばらく後のことだった。
今、ピアノを弾けずにいることが辛くないのだろうか。気になっていたが、聞くことはできなかった。「辛い」と言われても「辛くない」と言われても、きっと私は悲しくなってしまう。
埃をワイパーで取り、布をまくる。ピカピカしたピアノの肌を撫でて、蓋を開ける。鍵盤にかけられたフェルトの帯を巻き取り、白鍵を指先で叩く。私には右手だけを使う簡単な曲しか弾くことができない。ハッサクさんのように両手指を思うままに動かして、美しい音を出すことができない。でも、優美な演奏をする彼の中にも「できない」があるのだ。
私は今のあなたで十分だと思う。でも、この考えはもしかしたら悪いことなのかもしれなかった。ハッサクさんの人生は私のために在るわけではないから。傲慢になりきって伝えてしまえば、なんてことはなく良く受け取ってもらえるのかもしれないが、リスクを冒してまで口にすることが私はできなかった。
どれもこれも考えすぎだろうか。そもそも、ハッサクさんが過去の夢について今どう思っているのか、私は知らないのに。
いつの間にか鍵盤を触るのをやめて、飾りの鍵穴を指先でいじくっていた。ピアノを元通りに戻して、廊下と階段の掃除に取り掛かった。
階段の壁には額に入れられた絵が飾られ、採光用の出窓には植木鉢が置かれている。それら一つ一つを手に取って拭き、元に戻す。廊下に掃除機をかけていくと、玄関に着いた。靴箱の上には細々とした置き物が並んでいる。地方の土産物だろうか。
この家は物が多いが、不思議と雑然とした雰囲気はなく、ハッサクさんの好みという共通点からか、調度品も品良くまとまっている。
何となく靴箱を開ける。スリムな靴箱の半分ほどに、ハッサクさんの靴が収まっている。かっちりした革靴に、遠出の時に履くスニーカー、夏用のサンダル、庭仕事用のつっかけ……。
初めてスニーカーを履いたハッサクさんを見た時、この人は他にも靴を持っていたのかと驚いた。そして正直にそう口にして、笑われた。
「もちろん、持っておりますよ。サンダルだってありますです」
彼はいたずらっぽくそう言って、サンダル姿を想像して吹き出した私を見て満足そうに微笑んだ。
リビングへ入り、大きな窓に目をやる。庭の手入れもやってしまいたいが、そろそろ雨が降りそうなので、やめた。それに、明日することが無くなってしまう。
昨日は衣替えをした。その前は物置の整理、その前は本棚の中を作家順に並べ替えたりした。正直言って、私はこの大きな家の中で暇を持て余していた。
リビングの掃除を終え、気まぐれにテレビを点けると、映画がやっていた。登場人物達の軽妙な会話が繰り広げられているが、途中から観たって何も分かりっこない。居心地の悪さにすぐにテレビを消した。
掃除の続きをしようと、リモコンを置いてリビングを出た。
二階の奥の部屋に入る。この家に来た日にハッサクさんに与えられた部屋。着替えが入った箪笥と小さな本棚、机の上を拭いて、剥き出しの床に掃除機をかける。それでこの部屋の掃除は終わった。
この家に越してきた日、ハッサクさんは部屋に私の家具が収まりきるかどうかしきりに気にしていた。
「溢れたら書斎にも置いて構いませんからね」
そう言った彼は、私が持ってきた必要最低限の荷物を見て驚いていた。そして少し悲しそうな顔をした。
ハッサクさんはよく私に、新しい家具を選んでほしがったり、書斎やリビングなどの共用スペースに私物を置いてよいと勧める。彼は自分の生活と私の生活が混ざり合うことを期待しているようだった。それを知りながら、私は彼の望みに応えることができなかった。自分がもしここから消える時、跡形もなく去りたいと思っていた。まるで初めからいなかったかのように。終わりを願っているわけではない。ただ、ふとした時に考えずにはいられなかった。
私がここへ来る前、この部屋がどう使われていたのか私は知らない。この家には私が来るよりずっと前から、ハッサクさんの暮らしがあったのだ。私の存在は、彼の人生に入り込んだ異物だ。自分が靴の中の石ころのように居心地悪く感じて、私はその妄想ごと閉じ込めるように部屋のドアをバタンと閉めた。
ここに越してきたあの日、最低限の荷物を持ってここに来た。悲しい顔をしないでほしかった。別に彼に遠慮したわけではなく、以前の暮らしからずっと、これだけで私の生活は足りていたのだ。
それなのに、今の私はこの部屋のことがあまり好きではなかった。ここには何もない。
寝室へ行った。シーツや布団はハッサクさんによって綺麗に整えられており、床に掃除機をかけたり、簡単な掃除の他はすることがなかった。ぴったり並べられた二つのベッド。その片方に寝そべって天井を見上げた。今朝の睡眠不足で眠かったが、その一つのベッドすらあまりに広々として冷たく、ここで眠る気にはなれなかった。
家中の掃除を終えて、書斎のソファに戻ってきた。膝を抱えて横になる。ベッドで眠るにはどうしていたか、暇はどう潰していたか、一人だった時のことが思い出せない。
時計を見ると昼をとうに過ぎていたが、お腹が空いていなかった。昼食を欠かしたことがばれたら叱られるだろうか。
私は彼の前ではひたすら『いい子』だった。別に叱られることを恐れていたわけではない。家の中でまで叱り役をさせては疲れるだろうという考えからだった。なのに、私が規範的であろうとする時、ハッサクさんはたまに何か言いたげな顔をする。その度に、私は視線を躱して逃げた。踏み込まれることも、踏み込むことも怖かった。
私はこの大きな家の中で暇を持て余していた。しかし、私は望んでこの退屈に身を置いているのかもしれなかった。
学校でのハッサクさんを想像する。学校には音楽室があることをふと思い出した。もしかしたらハッサクさんは日中、そこでピアノを弾いているかもしれない。それを思うと、にわかに焦燥感が湧き起こった。
この家の外にも、ハッサクさんは世界を持っている。人と関わり、仕事をして、毎日刺激を受けて変わっていく。でも今の私にはこの家が全てだった。いや、あの二階の奥の小さな部屋。あれが私の本質だった。あの部屋には何もない。私には何もない。
ハッサクさんとここでずっと一緒にいるためには、私もまたここではない別の世界を持たなければいけないのだ。変わっていかなければ、置いていかれる。足並みがずれていく。きっといつか。
友達を作って、外に何か繋がりを作って、広い世界に出ていかなければいけない。そう思うのに、私は、彼の意識とも言えるこの家の中で溶けてしまいたかった。溶けて一体化したいと思うこと。溶け出た自分はやがて彼に染み込み、蝕んでいく。良くない考えだと分かっている。全て分かっている。乱暴に寝返りを打った。
「小生といることが、あなたを押し込めているのでしょう」
「小生に遠慮しているのでしょう。あなたは優しい人ですから」
違う。私はただひたすらに臆病なだけだ。
あなたをこの小さな家に押し込めようとしているのは、私の方だ。
次に目を覚ますと、部屋の中は真っ暗だった。まさか夜中まで寝てしまったかと焦って飛び起きた。スマホロトムの眩しい光に目を細めながらホーム画面を見ると、時計はまだ夕方と言える時間帯だった。画面の下にハッサクさんからのメッセージが通知されていた。
『今日は早く帰れそうです』
分かりました、と返信をした。そろそろ夕食を作り始めなければいけない。ソファから立ち上がり、書斎を出た。
念入りに手を洗って、エプロンを付けた。リビングの中は電気が点いて明るい。まだ少しぼんやりとした頭で野菜を切っていく。
ハッサクさんの期待に応えられないのも、目の前の彼に向き合うことを恐れるのも、全て私の臆病によるものだった。帰ってくるなり彼に抱きついて「会えなくて寂しかった」とか、「怖い夢を見たの」と言えたら何か変わるのかもしれない。それができる自分だったらどんなによかったか。結局私は「身体が埃っぽいから」だとか理由を付けて、それをしないのだ。
野菜を煮込む鍋に調味料を入れ、かき混ぜる。水面が波打つ。
玄関先でバサバサと傘を振る音が聞こえた。コンロの火を止めて玄関に向かう。
「お帰りなさい、次は起こしてください」
それだけなら言えるかもしれないと思った。