人は殺してはいけない。
その辺の幼稚園児だってわかることだろう。賢い人ならばその理由すら答えることができるかもしれない。
では自分は何故そんな子供でもわかるような簡単な法を犯しているのか。
殺人行為。死体損壊。内臓が傷つかないように解体して、洗って使える部分を丁寧に丁寧に取り出して。その光景に何度吐いてしまったかはもう分からないが、殺した側としては失礼すぎる行為かもしれない。
でも、ごめんなさい、ちゃんと使うから。
無駄には絶対にしないから。
俺はもう片手じゃ数えきれないほど直接この手で殺してしまった。
医療用メスを使って胸部から下腹部まで皮膚を切り裂く。剥いで開いて、人体模型のようになってしまった遺体に軽く手を合わせながら、それでも視線だけは内臓を写した。自分の血塗れの服。お気に入りだったが、今はどうだっていい。
あの旅館で得た知識をこんな風に使って、俺はもしかしたらどうかしてしまったのかもしれない。いや、とっくにどうかしていたんだと思う。旅館でのあんな日々、今まで散々な目に遭ってきて見てきたこと得てしまったこと。神と相対したり、何度も同じ日を繰り返したり、年も碌に越えられず、兄を殺したり手を出したり。あれらを抱えて今まで陽の元を歩けていた自分達がおかしいのかもしれない。
でも、納得はできるのだ。アッシュが一緒だったから。
辛いことも苦しいことも、嬉しいことも全部アッシュと一緒に。昔からそうで、余計な空白を置いて最近もそうだった。最近はお互いに道を踏み外したり押し出してしまったり引っ張ったり。とにかく意味のわからない事象に巻き込まれることが増えた。巻き込まれて、知らない間に罪が増やされた。アッシュも、自分も。
...しかし今度は明確に自分の意思で、手を汚す。
気が狂いそうな知識と経験の中、人間のちっぽけな常識から外れた世界を覗いてもなお歩いてこられたのは...
寝かせるのに邪魔な腕や足を糸鋸で切断する。臓器を守る邪魔な肋骨をハンマーで砕く。この辺の肉は柔らかくて、この辺は硬い。気をつけて、気をつけて、決して内臓を傷つけないように。
——なんだかまあ、上手くなったもんだ。
どんな理不尽にも耐えられた。
どんな罪を背負っても生きていこうと思えた。
...だからこの理不尽だけは到底許容できなかった。
なんで自分達ばかりこんな目に遭わなくてはならないのか。何故奪われなくてはならないのか。前世で、こうまでされる大罪を、自分達が犯したのか。
どうしようもない怒りに涙が滲んでくる。駄目だ、涙なんて内臓に当たればその時点で中身が駄目になる。でも、悔しい。悔しくてたまらない。
皆が当たり前のように享受している幸せさえ自分達には与えてもらえない。子供の頃からそうだった。理不尽を与えてくるのが、親から神に変わっただけ。
ただ二人で普通に暮らせればそれでいいのに。
目的の内臓を取るために、手術用手袋を付けた手を容赦無く腹部に突っ込んで弄る。邪魔だ、邪魔だ、全部邪魔だ。
ぐぽり、と嫌な音がして、目的の内臓が取り出せる。上手くいったと達成感を味わいそうになる自分に吐き気を覚えながら、保存液にそっと浸した。
こんなこと、アッシュは絶対に望まない。絶対に。
蘇ったところでこのことを知れば、アッシュは自分の命が複数人の犠牲の上にあることにとても苦しむだろう。もしかしたら俺のことを嫌いになるかもだし、二度と顔を合わせてくれないかもしれない。もしそうなってしまったら、俺はどうするんだろう。
アッシュに俺と向き合えと言ったのに、自分はアッシュの死と向き合えなかった。その死がまた、また人知の範疇を超えたものが原因と知った時、ずっと耐えていた頭の何かが引きちぎれた気がしたのだ。
暴れ回り泣き叫ぶ彼らを女将さんの言う通りにバラバラにして、五月蝿いなと無感動に眺めていた操られていた頃の自分。
1人殺して、肉として解体して。2人殺して、肉として解体して。3人、4人。
それを仕事としたあの頃の自分。
―――ふつりと頭の何かが切れた時、俺の手がもう、どう汚れようと何も変わらないのだと、そう思ってしまった。追加で殺そうが殺さまいが、俺は既に人を殺している。裁かれないだけで。
アッシュが迎えにきてくれる前から俺は人として既に終わっていた。終わっていたのだ。そのアッシュが死んで、その理不尽に耐えられるわけがなかった。
ルークも兄も知っている。人は簡単に死ぬ。
殺してはならないと言う法律が鼻で笑えてしまうほど脆く簡単に死ぬ。ルークはまるで魔法のように、惨たらしく殺す方法を知っている。それほど、軽い命。
その軽くて何より重い兄の命を取り戻す方法を知ってしまったから。
「...ごめんなさい」
全部言い訳。長ったらしい言い訳だ。
俺は自分の身勝手な理由のために人を殺し、協力者を殺し、アッシュの信頼を殺し、犯してはならない禁忌を破った。
殺人は駄目だ、殺しは駄目だ。環境がいくら酷くとも、流されては駄目だ。それなのにルークは我慢ができなかった。
自分で普通を捨てたのだ。今まで散々俺達を苦しめてきた、平気で他人を犠牲にする奴らと自分から同じ場所まで成り下がったのだ。
...極論アッシュ以外どうでも良かったのかと言われれば、そうなのかもしれない。
いや、きっとそうなのだ。自分は優しいフリをしただけの、そんな利己的で賤しくて弱々しくて汚くて、最低な人間。
「ははは...」
俺は何処までも自分勝手らしい。こんな大罪を沢山犯しながら、それでもまだアッシュの隣に立ちたいと思っている。アッシュの、どうしようもない優しさに甘えようとしている。
内臓をあばらに入れて、繋げて。
血が全然足りない、輸血と、俺ので耐えて。アッシュの身体に傷一つ残させてたまるもんか。
俺はアッシュの手を離せない。放すつもりもない。やっと、やっと向かい合って話せたんだ。
どうにか繋ぎとめられるのなら、人殺しなんて瞬きよりも容易いことだ。
神様、アッシュをどうか起こしてください。
あわよくば死体を片付けた後に。
彼が何も気付きませんように。
今まで通りの日々が戻りますように。
―――あーあ、怒られたいな。