泡沫早朝を知らせる鳥の声。
重たい瞼を上げれば、室内を朝日がぼんやりと明るく照らしていた。この朝日を自力で拝むことが出来るようになったのは朝に弱い自分としては成長なのかもしれない。
と言っても、横向きで寝た場合真正面に窓があるのが大きな理由なのだろうが。
「もう朝なのか...」
さっぱり夢を見た記憶が無い。悪夢を頻繁に見ていた頃よりも睡眠の質は良くなったのだろうが、だからこそ夜が酷く短くなったような気がする。
少し視線を下に向ければ、アッシュが自分の傍で静かに眠っていた。ルークの背にもアッシュの背にも、お互い一晩中抱き締め合っていた腕が固く回っている。ルークは、アッシュから聞こえる静かな寝息に微笑みながら、回している腕でぽんぽんと軽く兄の背を叩いた。
「アッシュアッシュ。もう朝だ。朝飯にしようぜ」
「...ん」
眠っていたと思えないほどに相手の目が自然に開き、少し下からルークを見上げる形でアッシュが淡く微笑んだ。
「おはよう、ルーク。」
「はよ、アッシュ」
こうして今日も、なんてことない平和な一日が始まる。
「ルーク、随分と料理が上手くなったな」
「っへへ!だろ?まだまだアッシュには叶わねーけど、いつかぜってー手際の良さ抜いてやるから!」
「それは楽しみだな」
慎重に切った食べ物を鍋の中に放り込む。アッシュは「しお」と書かれた調味料をもう完成する目玉焼きにパラパラかけながらクス、と笑った。
「あのルークが味噌汁まで作れるようになったか。感慨深いな。最初は何故お前の作るゆで卵が生卵のままなのか訳が分からなかった」
「はは、そういやそうだったな」
「白身と黄身がひっくり返ったゆで卵は一瞬何かの呪いかと思ったぞ」
「だーってよ〜!振ったら美味しくなると思ってさあ〜!」
ひと月かふた月ほど前の話を当たり前のようにアッシュと交わす。どうだろう。もうぎこちなさは無くなっているだろうか。
そんなこんな話していればご飯が完成し、食卓にいただきますの二人の声が響く。ルークの味噌汁の具材の一部が切れずにくっついていたり硬かったりとハプニングもあったが、目玉焼きが甘いことはなかった。
ふとシンクに持っていく食器をまとめていれば、後ろから優しく抱きしめられる。その腕は微かに震えていた。
「...不安になっちゃったか?アッシュ」
ルークは困ったように笑うと、その腕を解いて、正面から抱き留め直した。肩口に乗せられる、兄のひんやりとした額。後頭部が優しく撫でられる感触がして、何だか嬉しくて頬が赤くなる。
「大丈夫。大丈夫だぜ。ここにいるから」
「情け、ないな」
「そんなことねーよ。俺、いつもアッシュが俺の事守ってくれてんの知ってるから」
「...」
回された腕がキュッと強くなる。
ルークは知っている。必ず兄が車道側を歩こうとするのを。
ルークは知っている。彼が自転車が通る時ですら大きくルークを避けさせる理由を。
ルークは知っている。何気なく話している時も、兄が周りを酷く警戒していることを。
夜も、そうしていることを。
きっとルークを失う要因全てが怖いのだ。車も自転車も、夜の怪しい空気さえも。
「俺嬉しいよ。アッシュが俺を一生懸命守ろうとしてくれるの。かっこいいなっていつも思ってるから」
「...」
「いつも守ってくれてありがとな。だから心配しなくても、アッシュのおかげでちゃんとここにいるんだぜ」
「............ああ」
アッシュの顔が肩口から起こされる。最初に会った時からあまり変わらないやつれた顔。それでも少しは寝れているのだろうか、隈が少しだけ減ったような気もする。
頬に手を添えて隈を親指でなぞってやると、アッシュが擽ったそうに片目を閉じた。
「でもさ。守ってくれるのは嬉しいけど、夜くらいは寝ようぜ?俺、隈の無いアッシュの方が好きだぜ」
「あ、ああ...」
存在を確かめるように撫でられ続ける頭。その手から震えが無くなったのに気付き、ルークは微笑んだ。
「今日は何する?アッシュ」
「何処に行きたい。お前に任せる」
「うーん遊園地とか行きてーかも。一緒に観覧車乗ろうぜ」
「...任せろ。早速準備をしよう」
アッシュの姿が部屋に消えた時、ルークは深いため息をついて自嘲した。毎日、アッシュは色んなところに連れていってくれる。水族館、動物園、映画館。...アッシュは、ルークの焦燥感に気が付いてしまっているのだろうか。
「俺が残るっつったのに情けねーな...」
日が経つに連れて、残してきたアッシュのことが不安になってくるのだ。
あちらも時間が普通に進んでいるのであれば、残してきたアッシュは今ひとりぼっちということになる。アッシュのことだから一人でも大丈夫...と思わなくもないが、どうなのだろう。俺が死にかけた時に必死に助けてくれたりとか、俺がドリームランドに誘拐された時に必死に探してくれたりだとか。そんな兄だから今、もしかしたら死ぬ気で探しているのかもしれない。もうその世界の何処にも俺はいないのに。
そう考える度心臓が締め付けられるような心地になる。どちらにせよルークは約束破りの最低な人間だ。
もうきっとあっちに帰ることは出来ないのだから、全部意味の無い葛藤。
こんな顔、こっちのアッシュに見せられない。早く笑顔に戻らなくては。
「...よし、準備できたぞ。ルークはどうだ」
「俺は持ってくもん特にねーし、いつだって準備万端だぜ」
「そうか。じゃあ行こう」
「...なあアッシュ」
玄関に向かおうとしていたアッシュが振り返る。ルークは満面の笑みでその背に飛びついた。
「へへ、今日も一日楽しみだな!」
「...そうだな」
アッシュも嬉しそうに微笑んだ。そのまま二人は手を取り合い、扉から外へ出る。
傷のつけあい、傷の舐め合い、いつまでも続く地獄の延長線。
外では今日も、あの世界の空と同じように、太陽が燦々と輝いていた。