『父娘』の蛇足 兼 ボツネタ供養編1.『妻』
彼女がゴーティエ辺境伯家に嫁入りしてから一年が経つ。しかし、夫である嫡子シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエと褥を共にしたのは、婚儀の夜の一度きりであった。
(目が怖い)(何を考えているのかわからない)(彼女を顧みる様子が欠片もない(そもそも不在がち))
(使用人たちも義両親もよそよそしくて息が詰まる)
●出入りの商人の男と密通する
(使用人たちが何も気付いていないはずがないが、誰も何も言わない)
(夫も含めて何を考えているのかわからなくて怖い)
(けれど彼だけは愛してくれている……)(それに縋らなければ、こんなところで正気ではいられない)
小さな不調が続いていた。
彼女を診察した医師は、ひとつ頷いて告げる。
「ご懐妊です」
彼女は衝撃に目を見開いた。
心当たりはたしかにある。ただし、姦通の果ての許されざるものであるが。
血の気が引くのを感じた。斜め後ろに控えている執事を横目で窺う。夫の執事である彼に知られた以上、隠しおおせることはできないだろう。★どうする?
医師が退出した後、彼女はおそるおそる執事に尋ねた。
「……シルヴァン様に、お知らせするのですか?」
しかし、予想に反して執事は首を横に振る。
「いいえ」
彼女が胸を撫で下ろすのも束の間、執事は続けた。
「若旦那様は既に王都を発ったと知らせを受けております。ご帰着の際にお知らせするのがよろしいでしょう」
★数日後、なんかもう酷い心境でシルヴァンを迎える
「若様、お知らせがございます。若奥様のご懐妊です」
執事の言葉に夫は目を瞠る。僅かな沈黙。
そして、あろうことか、破顔した。
「そうか……! それは良かった!」
シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエは満面の笑みで彼女を見た。
「ああ、どうか大事にしてくれよ……! 君には、何としても元気な子を産んでもらわなくちゃならない。さ、冷えないうちに中へ」
夫は彼女の腰へといたわるかのように手を回す。
全くもって理解できなかった。妻が心当たりの無い子を孕んだことに対して、彼はなぜそんな態度をとれるのだろうか?
彼女が膨れ上がる戸惑いのままに夫を見上げれば、彼は首を傾げる。
「うん? どうしたんだい?」
その目は微笑みの形をしていたが、やはり、底には凍えそうな冷たさがある。彼女を愛してくれるあの人のあたたかな瞳とは全然違う。これは物を見る目だ。気付いてぞっとする。地べたを這う虫けらを、見るつもりもなく眺める目。
ああ、だからか――。彼女は唐突に全てを理解した。彼は彼女にまるで興味が無い。だから、彼女が誰の子を孕もうと、彼にとってはどうでもいいのだ。
●出産直後
産婆はてきぱきと赤子に清潔な衣服を着せる。
「元気な女の子ですよ。若旦那様も抱かれてみませんか、お父様として」
「ああ、……そうだな」
夫が頷くと、産婆は彼に赤子の抱き方を指南する。
「まだ首が座っていませんから、腕で首を支えるように、……そうです、そのような形に。お上手です。それでは赤ちゃんをお渡ししますよ」
こわごわと受け取った夫は、硬い表情で『娘』を見つめた。少しすると感触に慣れてきたのか、右手の指先で赤子の小さな手をつつく。すると赤子は夫の指を握った。夫はそれに驚いた顔をして、その後ふにゃりと笑った。まるで我が子が可愛くて仕方がない父親かのように。
果たして、夫はすっかり娘に夢中になったようだった。
だが、一体どういう神経をしていれば、他の男の種であると明らかな『娘』を愛せるというのだろう。★全然わからない
彼女は娘を当然愛していたが、それ以上に夫が娘に見せる執着が恐ろしかった。娘が生まれるまでは、ひとたび王都へ出れば何かと理由を付けて帰ってこなかったのに、今や夫は屋敷から離れたがらない。乳母をあてがわれた彼女よりも、夫の方が余程娘と親らしく触れ合っているのではと思うくらいだ。
「……若奥様、僕と逃げませんか」
商人の彼が囁いたのは、娘がもうすぐ二歳になる頃だった。
「でも……」
彼女が娘を想ってためらうと、彼は冴えた青い目で彼女を見る。
「僕は、あなたをこんな屋敷に置いておくことに、もうこれ以上耐えられないのです。僕は存じているのですよ、若旦那様があなたをどのように扱うのか、あなたがどれほど苦しんでいるのか。若旦那様はそれも全て知らないふりをして、当てつけのようにご息女ばかり可愛がる……!」
声を抑えてはいたが、その悲痛さは隠しきれるものではない。
彼が彼女の代わりに腹を立ててくれたことが嬉しかった。枯れた泉に雨が降り注ぐかのように心が満たされる。彼女は彼を愛していると改めて実感した。
「……ありがとう、あなたの気持ちは嬉しいわ」
(以下略)
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2.『娘』
父の書斎の扉を叩けば、すぐに返事がある。
「お父さま、入ってもいいかしら」
すぐさま肯定の返答があり、彼女はゆっくりと扉を開けた。
彼女の父はゴーティエ辺境伯、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエだ。フォドラ統一戦争を戦い抜いた武人でもあり、今はファーガス国境を守る領主の一人でもあった。
「執務の邪魔をしてごめんなさい」
父の机には書類が山と積まれている。彼女が非礼を詫びると、父とその側に控えていた執事は目を細めた。
「いやいや、かわいい娘の話を聞くよりも大事なことなんて、何もないさ」
父が大袈裟に、そして幼い子供の相手でもするように言うので、彼女はつい唇を尖らせた。
「お父さまったら、私を甘やかしすぎだわ。私だってもう十五なのよ?」
来年にはガルグ=マクの士官学校にだって入るのだ。執務をこなす父の膝に乗りたいと駄々をこねていた子供の頃と一緒にされてはかなわない。
しかし、彼女が抗議すれば父はかえって楽しそうにするものだから、本当に困った人である。
「お前のそういう叱り方、イングリットにそっくりだ。懐かしいな」
父がそう呟けば、老齢の執事も頷いた。
「おばさまに? 嬉しい。誉め言葉だわ」
そう言われて悪い気がしないのは、彼女がイングリットに憧れているからだろう。勇敢で高潔な女騎士と語られるイングリットは、当代の女の子たちがこぞって憧れる英雄の一人と言っても過言ではない。幼い頃父にせがんで聞かせてもらった武勇伝の数々ときたら、今だって新鮮に彼女の胸を躍らせる。
父の親友であるイングリットは、彼女にも叔母のように親しく接してくれている。彼女はイングリットの誠実な人柄が大好きだった。
頬に両手を当てて喜ぶ彼女を見て、父は苦笑した。
「それで、どうした? 何か用事があるんだろう?」
「ええ。今日のお仕事が終わったら、お話ししたくて」
「今じゃなくていいのか?」
彼女は少し口ごもりながら答える。
「……あのね。大事な話だから、お父さまと二人きりで話したいの」
「大事な話なら尚更、今聞こう。すぐに片付けるから待っててくれ」
父は執事と手分けして書類を片付け始める。
「いいの? お仕事は?」
「今日はお終い。後は明日で問題無しだ」
「お父さま」
まさか嘘をついているのでは? 彼女が眉をひそめると、書類を整えていた執事から口添えがあった。
「大丈夫です、お嬢様。本当に必要な執務は終わっておりますよ」
彼がそう言うのなら本当なのだろう。
父は執事にお茶を手配するように指示し、彼女を連れて私室へ戻った。
●私室 茶を飲みながらまあまあ穏やかな雰囲気
★娘は偶然見つけた母の手記を見せてシルヴァンに迫る
「お願い、お父さま。本当のことを聞かせて!」
彼女は父の手に母の手記を押し付けた。女性らしい文字で書かれた不義の述懐。
「……あいつがそんな物を残していたとはね」
父は母の手記をめくり、深い溜息を吐いた。
「分かった。本当のことを話そう」
父は真剣な顔で両膝に肘を突き、顎を凭せかけた。
「お前は、俺の妻だった女の娘だが、俺とは血が繋がっていない。お前の血筋上の父親は違う男だ」
彼女は一瞬息が止まったかのように感じた。
父と似ていないのははじめから分かっていたし、真相を聞こうと決意したときから覚悟を決めていたつもりだった。しかし、それでも、真実は彼女に確かな衝撃を与えたのは事実だった。
「……そう。……ありがとう、お父さま」
ようやく彼女が言葉を絞り出すと、父は首を横に振った。
「俺は、そのことをはじめから知っていた。知っていて利用しようとした。血の繋がらない子が、俺の計画には必要だったから」
硬い声で父が続けた言葉は、彼女にとって予想外のものだった。
「計画……?」
「父上がスレンとの和平交渉を進めていることはお前も知っているよな?」
彼女は頷く。
「これは、父上にとって大きな挑戦だ。ゴーティエやファーガスにとってもな。だからこそ、現状維持、つまり、武力によるスレンの抑止を望む人も多かった」
その道理は彼女にも理解できた。対外政策だけではなく、他の分野でだって保守的な人は多いものだ。
「だから、父上は一計を案じたのさ。武力、つまり、破裂の槍による抑止をできなくしてしまえばいい。それには何が必要か?」
「――紋章を持たない後継者」
はっとした彼女が呟けば、父が頷いた。
「そういうことだ。何という巡り合わせだろうと思ったよ、お前が母親の腹にいることを知ったときには。女神様が俺の背中を押しているとまで思ったね」
父は静かに笑い、話を続けた。
「そしてお前が生まれた。ところが、ここで父上の人生最大の番狂わせが起こったわけだ」
「番狂わせ?」
彼女が首を傾げると、父は柔らかく微笑んだ。
「……生まれたばっかりのお前を抱かせてもらったときにさ。お前の小さくってぷくぷくの手が可愛らしくて、指でつついてみたんだ。そしたら、ぎゅっと指を握られてな。赤子の握る力って案外強いんだぜ。――それで、もう何もかも駄目になった」
「……駄目って? どういうこと?」
「お前を愛しちまったんだ」
父の告白に彼女は息を呑む。
「本当に愛しいものの前では、打算とか計画とか、そういう何もかもが駄目になるんだ。俺はあのときはじめてそれを知ったよ。子供を動かすためにどんな父親を演じるべきかとか、本当に色々考えてたのに、全部どうでもよくなった。こいつのためなら何でもできるって思った。いや、結果としてやるべきことは変わらなかったんだけどな」
ふと、父は目を瞑って唇の端を歪めた。
「……まあ、こんな都合の良い話、信じられないかもしれないが」
彼女は首を横に振る。
「いいえ。信じるわ、お父さま」
彼女がそう言うと、父は心底驚いたかのように瞠目した。
「だって、私、お父さまからの愛を疑ったことなんて一度も無いの。むしろちょっと過剰で、お父さまの方が心配なくらいだわ!」
来年、寮生活で彼女が家を空けても大丈夫だろうか。短期間の王都滞在ですら手紙を書き送ってくる筆まめな父のことだ、一年も離れていたら次々と手紙を書いてくるに違いない。
父は複雑な表情で彼女を見る。喜びと戸惑いが半分ずつの顔。
「お前、本当にイングリットに似てきたなあ……」
父が呟いたので、彼女はにっこり笑って言ってやった。
「お父さま、それって本当に誉め言葉よ!」
父の親友、無二の相棒であるイングリット。父の窮地に颯爽と駆け付け、幾度も彼の命を救った清廉の騎士。
そんな憧れの人と似ているなんて、彼女にとって最高の賛辞に他ならなかったのだから。
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※蛇足編の蛇足※
娘の憧れの人はイングリットで、初恋の人はフェリクス。それはシルヴァンがその二人の武勇伝をめちゃくちゃ聞かせた(輝かしく臨場感たっぷりで、しかも楽しそうに話す)のが主な原因。
シルヴァンは「娘が俺の話よりあいつらの話を聞きたがる」と親父の悲哀めいた笑い話にしていたが、実は本人の武勇伝はかなり控えめに語ってるし、ちょっと苦しそうに話すときがあるのを娘は幼心に気付いていたのであんまりせがまなかった。
……という設定が最初からあったんですけど、蛇足編ですらイングリットへの憧れ以外は使えなかったのでここに記しておきます!!!