慰めて欲しかっただけ慰めて欲しかっただけ
「…お前、何でここにいんだよ。」
深夜のエルドラド。なんとはなしに眠れずに劇場内をうろついていた俺は、勝手に酒を持ち込んで飲んでいる不審者と出くわした。
「おお、山井じゃん。もう寝たかと思ってたよ。」
男は悪びれた様子もなく、酒を舐め続けている。
「質問に答えろ、トミザワぁ。」
コイツはもう俺の組とは無関係だ。我が物顔でアジトに上がり込まれちゃメンツに関わる。
「なんか、ちょっと荒れちゃってさあ。一人で飲みたくて。ここが懐かしくなったから、来ちゃった。」
まったく答えになっていない。こんな奴を入れたうちのセキュリティにも大概問題がありそうだ。
「言ったっけ?俺、離婚してんだけど。」
勝手に喋り始めた。
「元妻の…マリーっていうんだけど。この前そいつ見かけてさ。新しい彼氏と一緒にいたんだよ。すっごい、幸せそうで。」
死ぬほど興味がないが、止めるのすら面倒くさい。
「俺だってこと隠して、その彼氏に近づいてみたんだけど、これがめちゃくちゃいい男でさあ。もう完敗だよ。」
酒をあおりながら喋り続ける。
「嬉しいんだけどさ。やっぱさあ。きついよなあ。あんなに、大好きだったのに。子どもも。ちゃんと、生まれてたら…」
5歳だったんだよ。そこまで言って、トミザワは膝を抱えて席の上でうずくまった。
言いたいことはそれだけか。心底女々しい野郎だ。反吐が出そうになるのをこらえながら、口を開く。
「気持ち悪いなあ、トミザワ君。お前なんかに一瞬でも時間使わされた女に同情するよ。」
トミザワが顔を上げる。
「子供、流れてよかったじゃねえか。どうせ考えなしにヤってできちまったんだろ?お前みてえなクズの遺伝子は絶やしたほうが社会のためだって。」
刑務所に入らなければ幸せになれたとでも思っているのか。学のないガキがガキを作って、負の連鎖になるのは目に見えている。お前みたいなゴミは最初からひとりだったようなもんだ。
「ブタ箱ぶち込まれて、借金こさえてよお。ココ抜けたからってなんも変わらねえな。組が春日になっただけだろ?春日たちが帰ったらどうすんの?」
マリー、ドワイト、俺、春日。復讐のためか、絆とやらのためか。お前はいつも他人ありきで生きている。そういうところに、虫唾が走る。
「なあ、お前なんのために生きてんの?意味ねえのに。ココで組の養分になってたほうがまだ人の役に立ってたんじゃねえか?」
ガン。
何かが俺の髪を数束巻き込んで、顔スレスレを通り過ぎた。
振り返ると、六角レンチが壁に垂直に突き刺さっている。
もろに当たったら、鼻ぐらい砕かれていただろう。トミザワに撃たれかけたときのことを思い出す。
「危ねえなあ。」
「黙れ、クソ野郎が…。」
トミザワは血走った目で俺を睨みつけている。
無視して壁に刺さったレンチを引き抜くと、トミザワの方に放り投げた。
「熱吹いてんじゃねえぞ、ガキ。さっさとそれ持ってオウチ帰れ。」
トミザワはレンチを拾い上げると、俺の方に歩いて来る。
「ふざけんな、てめえ。本当に、許さねえからな…。」
俺の胸ぐらを掴み、ぎりぎりと締め付ける。
「へえ。で?許さなかったら、どうすんの?」
「試してみるか…?」
これは、面倒だな。組員でもない奴をボコるのは可哀想だが、先に手を出したのはコイツ。自己責任だ。
俺はトミザワを突き飛ばして、胸めがけてバールを振り抜く。アバラを数本折れば、大人しくなるだろう。
金属同士がぶつかる音。どうやらトミザワのレンチに阻まれたようだ。
「は。やっと、やる気になったかよ…!」
「…いいねえ、そういうの。タイマンで俺に勝てると思ってる?」
俺は、春日たちに負けた。ただ、それはあくまでも4人がかりでの話。組を抜けてからいくらか鍛えたか知らないが、春日たちとつるんで戦っていただけのトミザワなど相手にならない。
「余裕かましてんじゃねーぞ、ジジイ!!」
トミザワは俺の腹を勢いよく蹴飛ばした。バランスを崩して後ろに倒れ込んだ俺に、馬乗りになってレンチを振り下ろす。
また金属がぶつかる音。バールとレンチが十字の形で競り合う。
ジジイは事実だが、コイツに力勝負で負けるほど歳をとってはいない。トミザワは油汗を流しながらレンチを押し込むが、次第に押し上げられていく。
「ぐ、う…!!」
ある程度上体が持ち上がったところを見計らって片手を離し、トミザワの頬に拳を叩き込む。メガネが吹っ飛んで転がった。
「ぐは!!」
鼻血を吹いてよろめくトミザワを床に転がし、足で腹を踏みつける。
「ほらな、勝てないだろ。バカだなあ、トミザワ君は。」
バールを首元に押し付けてから足をどかす。それからしゃがみこんで、鼻を押さえているトミザワと目線を合わせた。
「は、はっ、はーっ…」
「痛えか?痛えだろ。ちったあ頭冷えたよな。じゃあさっさと帰れ。これ以上お前の相手したくねえから。」
バールをどかして拘束を解く。組員だったら、それこそ四肢を潰して教育してやるところだが。今のコイツは春日の管轄だ。正当防衛以上のことはできない。
「や、まい…。」
トミザワは血にむせて咳き込みながら俺の名前を口にする。
「あ?」
しゃがんだまま首を傾げた刹那、俺の首にば、と腕が回された。
コイツ、まだやる気か。これは、骨の一本や二本折ってやるしかないな。バールを握る手に力を込める。
だが、トミザワはいつまでも俺を絞め落とそうとはしなかった。代わりに、俺の首を支えにして上半身を持ち上げる。
それから、ぴちゃ、と音がして、口の中に血の味が広がった。
トミザワは咳き込みながら腕を解いて、大の字で床に倒れ込んだ。
「………何してんの?」
「…ごめん。汚いな。すぐ顔洗ってうがいしてくれ。」
「いや、そうじゃなくて。」
なんで。
それ以上言う前に、トミザワが背筋を使ってびょんと起き上がった。ついさっきコテンパンにされたとは思えないすばしっこさだ。
「もう帰るわ。えー、メガネメガネ…。」
メガネを探し出して拾い上げた。割れてねえかな?と劇場の照明にレンズを透かしている。満足すると、メガネをかけ直して出口へ向かおうとする。
「あっ。」
と、間抜けな声を上げて何かを思い出したようにくるりと俺のほうに振り返る。
まだ何かあるのか。優しい俺は黙って次の言葉を待ってやる。
にこ。
トミザワは歯を見せて、血まみれの鼻と口に似合わない爽やかな笑顔を浮かべた。
「死ね。」
「ええ…?」
シンプルな罵倒に、さすがの俺も戸惑うしかない。顔にはさほど出ていないだろうが、何も返す言葉がなくて黙ってしまう。俺のモラハラなんていつものことだろうが。そんなにキレることないだろ。
どのみち、トミザワは俺の反応を求めていないようだった。吐き捨てるや否や背中を向けて、ずんずんと大股で出口へ向かう。
俺はひとり、小さくなっていく背中を見送ってから、誰もいなくなった劇場に立ち尽くしていた。