俺は、阿久津が嫌いだ。そんで、阿久津も俺を嫌いだ。
なんで俺が阿久津を嫌いか、今更説明する必要があるのか。逆に、嫌いにならない理由があるなら聞きたい。あいつが俺にしたことときたら、初対面から今まで、暴力と中傷のオンパレードだ。福田のオッチャン以外、基本的に誰に対しても態度悪いし、俺に対しては取り分けキツくあたる。どんなに頑張って探そうが、人間として尊敬できるところはいっこも見当たらない。
平さんの一件があってからは、多少主将としての自覚が芽生えたらしく、俺を部屋に入れてサッカー談義に付き合ってくれるようにもなった。しかし再三のDVにモラハラ、パワハラへの謝罪はついぞない。まあ俺としても別にそんなもんは求めていないからいいっちゃいいんだが。
阿久津はどうして俺を嫌うのか。今までそれを考えたことはなかった。考えたことがないから、聞いている。でも、いつもまともな答えはない。
連休中は、寮に誰もいなくなる。暇つぶしも兼ねて阿久津とサッカー談義でもするか。そう言って部屋に上がり込んで、結局いつもこうなってしまう。
今日は阿久津が素肌にジャージを着ていたから、余計によくなかった。中途半端にファスナーを降ろされたジャージから、日に焼けていない白い胸元がのぞいていて。小麦色に焼けた腕や頭とのコントラストで、脳をやられた。カッとなってジャージの襟を引っ張って、あらわになった肩口にきつく歯を立てて。それで、今。付けっぱなしにしているビデオの音声が滑稽に響く。
「…っは、は…」
顎の力をゆるめると、斜め上から試合直後のような激しい呼吸音。噛まれている間、息を止めていたらしい。肩口から口を離して、顔を上げる。それから、もう何度聞いたかわからないこの質問。
「…阿久津さん、俺のこと嫌いすか?」
「あぁ…?」
答えを待つ間、ぼんやりと赤い歯形を眺める。自分でやっといてなんだが、痛々しい。ぎりぎり服で隠れる位置ではあるが、しばらく人前で脱げないだろう。
「決まってんだろ。嫌いだよッ…。」
そうだな。それはわかってる。
後でぶん殴られるのは目に見えているが、この際気にしない。もともとコイツが半裸で寮内をうろつき回るのには辟易していたからちょうどいい。見られたら見られたで俺は困らないし。
「俺、あんたになんかしたんか?ずっと思ってるんやけど。」
わからない。ほぼ誰に聞いてもそう言う。福田のオッチャンや栗林には心当たりがあるようだったが、詳しく教えてはくれなかった。
当然阿久津も教えてはくれない。なんでも聞けば教えてもらえると思うな、とかそういう見え透いた言い訳に逃げる。これに関しては阿久津に理はない。お前の心の中のことなんて、お前以外にわかるわけないだろう。
「んで、いまさらッ。そんなこと、聞くん、だよ。テメーだって、俺のこと嫌いだろうが…!」
関係ない。質問に質問で返すな。というか、そもそも。
「なんで、決めつけるんすか。」
腰をつかんで俺と向かい合わせる。前屈みになって舌を腹筋の割れ目に這わせると、噛み殺した喘ぎが上から聞こえた。
口の悪いわりに、阿久津は抵抗しなかった。抱きしめようが頬に口付けようが、噛んで痕をつけようが嫌がらない。念の為言っておくが、それ以上のことはしてないし、できない。なんとなく、それをしたらもう戻ってこられないと思う。
「…あお、い…!」
どうせ殴られるならと思って腹や胸にも痕を作っていたら、らしくもない切羽詰まった声が降ってきた。何かと思って見上げても、肩で息をしながら俺を睨むだけで何も言わない。ふと、バカな考えが降ってきた。
「…アシト、って呼んでもいいすよ。」
そういえば、お前にそう呼ばれたことはない。今なら誰も聞いてないんだから、おあつらえ向きじゃないか。そう思っての提案だったが、阿久津は食い気味で拒否する。
「呼ばねーよ、クソバカが!」
「なんでなん?傷つくわ。」
一部の大人を除いては、みんな俺のことは名前で呼んでるのに。そんな風に距離おかれたら寂しいやん。
「じゃあ、俺があんたんことなぎさ、って呼びますよ。」
一瞬、固まる。自分がそういう名前なことを忘れてたらしい。すぐに憎らしげな舌打ちをして俺のアフロ頭をゲンコツで叩いた。
「いっって!」
「調子乗んな!」
それなりの力。コブになるかもしれない。とはいえ本気ではないと思う。本気で抵抗しないってことは、まだ続けて欲しいってことだといつも解釈してる。
阿久津が歯噛みして声を殺すから、俺が黙っているといつも時計の針の音くらいしか聞こえない。気まずいから勝手に喋る。あと、何があるか。そうだな。
「…なんか、ザイアクカン、って言うんかな。」
「あ?」
「栗林さんとか、平さんとかに…悪いことしてんな、って思うんすよね…」
平さんとは最後の試合以来会ってない。栗林もそうそうユースになんて来られる立場ではないから同じ。
平さんが俺たちに望んでたのは、これじゃないと思う。本当なら栗林が開くべきところに、俺が土足で立ち入っていると感じる。これをしている時に花の顔がよぎると、胸がずきりと痛む。
「今、栗とか、平のことなんか、関係ッ、ねーだろ…」
「栗林さんのことはあだ名で呼ぶんすね。平さんも名前で。なんで俺はダメなんすか?」
「だまれッ…」
さんざん潰されかけた復讐、ではないと思う。痕をつけようが抱きしめようが、コイツは嫌そうにはしない。むしろ少しだけ、眉間のシワが浅くなって。声が優しくなって。
平さんがいなくなって母親がいなくなって、空っぽになったコイツを、埋めてやりたい。なんでそう思うのか、深くは考えたくない。ただ、コイツが男なのが無性に腹立たしい。お前の身体には、埋められるところがない。
「……意味わかんねえよ。お前…」
阿久津がぽつりと吐き捨てる。ゆるく頭を振って、うなだれた。
意味がわからないのはこっちだ。ずっと人を目の敵にしていたかと思えば、いきなり素直になって、お前以外に誰がやるんだ、とか言って。今だって、本当に嫌なら抵抗できるだろう。俺もそうしろと言ってるはずだ。
「頭おかしいんじゃねーのか。なんでこんなこと、するんだよ…」
そんなことを聞かれると、くすりと笑みがこぼれてしまう。
「なんでやろな。バカだからかな?」
いつからお前に、こんな気持ちを向けていたんだろう。どこかで間違えた気がする。花がいて、杏里がいて、みんながいたと思う。その中からお前を選んでしまった。バカだけど、もうどうしようもないんだ。
「…阿久津さん。」
呼んでも返事はしない。反応を引き出してやりたいから、意味のないことを言う。
「…俺、アンタが好きや。」
何も言われてないかのように床を見ているが、肩が少し震えたのがわかる。
「アンタは、俺のもんやから。俺のことだけ見てれば、いいんや。」
やっぱり、俺は芯から自己中なんだと思う。いくら嫌な奴でも、阿久津は物じゃない。わかってるのに、お前を自分だけのものにしたいと思う。フィールドの上だけじゃなくて、どこででも。
お前は、俺のことだけ見てろ。俺とサッカーの話をしろ。栗林のことも平さんのことも、忘れてくれ。他の男の話なんて、するな。
こっちを向け。
「…聞いてんの?渚さん。俺、アンタが好きなんやけど。」
今度はしっかり自分の名前だと認識したらしい。顔を歪めてこっちを見てくれる。
「静かに、しろ…!」
「嫌や。ごめんな。」
丸出しの耳に口を近づけて、好きなことを言い立ててやる。
「…なあ。アンタ、なんで男なん。腹立つわ。男じゃ、抱けねえじゃん。アンタになら、俺の童貞やってもいいのに。」
阿久津の眉毛がびくりと動いた。何か言いたげに唇を動かして、やっぱり何も言わない。俺が首を傾げていると掠れた声で聞く。
「お前…本気、なのか。」
「ん…?」
何を言ってるんだ。俺はいつも本気だ。
「…あれ。もしかして、押せば抱かせてくれるんすか。」
どうやってかは知らんが、コイツを抱く方法があるのかもしれない。なんで阿久津がそれを知ってるのかはどうでもよかった。
俺が期待に目を輝かせたのとは対照的に、阿久津は何か嫌なことを思い出したようにそっぽを向いて眉をひそめていた。床に押し倒しても特に粘りもせず、ぼんやりと天井を見つめる。掠れた一本調子の声で、俺にはよくわからないことを言っていた。
「俺を、抱いて、…どうすんだ。もう、俺…なん、ども…」
「だから言ってるやろ。好きなんだよ、あんたが。好きな奴は抱きたいもんやろ?」
「…金が、なかったから…それで…」
「どうでもええって、そんなん。」
そう。どうでもいい。俺と会う前、お前に何があったかなんて興味ない。今のお前にしか興味がない。
要領を得ないことを口走り続けるので、唇をふさいでやると、静かになった。乾いて逆剥けたところを舐めながらぼんやりと考えてみる。俺と阿久津。被害者と加害者。俺たちに、未来なんてあるんだろうか。
花を傷つける。母ちゃんを悲しませる。そうわかっていても、俺はコイツを離したくない。体であれ、心であれ。コイツを縛り付けて逃したくない。
唇を離すと、阿久津が咳き込みながら何か言おうとしていた。血走った目。床に手をついて呼吸が整うのを待つ。
「、っ…」
「何すか。」
殴る気か。それともまた家族のことでも持ち出して煽るのか。悪いが今更お前に何を言われたところで怒れない。
阿久津が俺の首に腕を回す。そのまま体重をかけられたので、俺は重みで胸板に崩れ落ちた。
「うわ。」
間抜けな声が出る。胸の間に鼻を埋めたまま目だけで阿久津を見ようとするが、その前に耳元に口を近づけられてささやかれた。
「…あしと。」
俺はしばし瞬きすら忘れて固まる。何を言われたか認識すると、さっきからしんしんと痛んでいた胸がにわかに熱くなっていくのがわかった。
「…阿久津さん、ありえないっすわ。そういうの。」
逃げられない。そう悟った時にはもう手遅れだった。
「なぎさ、って呼ぶんじゃなかったのか…」
小さな声でそう言われると、熱が限界まで高まって爆発した。声にもならず、まだ湿っている唇にもう一度噛みつく。阿久津の口の中は苦くて甘い。