アム/ロトオ/ルは見なかったことにした1安室透は見なかったことにした
あの人が欲しい。
低く優しい声、周囲の男が霞む上背に、綺麗な面持ち。
ー沖矢昴さん。
私は、貴方が欲しいのです。
貴方だけのおひいさまに、なりたいのです。
あの人の瞳に映るためならば。
あの人の隣に居るためならば。
なんだってすると、決めたのです。
嗚呼、愛しくて、愛しくて、憎くて、愛しいあの人を、迎えにいかねば。
きっと、私を待っている。
少し手間取って居るけれど、きっとこの想いがあれば、大丈夫。
心配しないでくださいね、昴さん。
ーもう少しで、会えますから。
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「うわ」
思わず声が漏れた。
隣を歩んでいたポアロの同僚、梓さんにも声が聞こえてしまったのか不思議そうな顔をして、彼女は僕が目線を向けた先を覗いた。
その目線の先には、1人の男がエコバックを片手に歩いている。
買い物帰りか何かだろう。呑気で羨ましいものだ。
「あ、えーとあの男の人!誰でしたっけ…沖矢さん?少年探偵団の子達がよく遊んでもらってるって…安室さんあの人と何かあったんですか?」
「えーと、いや。実は沖矢さんのご自宅の前によく路駐してたのでちょっと顔合わせづらくて…それだけですよ」
「あ〜安室さん悪いんだ〜!路駐は怒られちゃいますよ!」
「はは…気をつけます…」
ぴぴー、と笛を鳴らす真似をしながら歩いていく梓さんを追いかけながら、沖矢昴の姿を思い出す。
いつも通り首元を隠すニットに、ジャケット。メガネ越しに細められた目はいつも通りだった、ように思う。
ただひとつ。
思わず声を漏らしてしまった原因。
あの男の小指に気味が悪いほどぐちゃぐちゃに巻き付いた僕の嫌いな色。
赤い、赤い糸。
(どこぞでややこしい女でも引っ掛けたんだろ、自業自得だな)
ややこしいことには首を突っ込みたくない。
賢い選択だ、と自分に言い聞かせて、僕ー安室透は【ソレ】を見なかったことにした。
その選択を後悔することになるとも知らずに。
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少年探偵団の子供たちが、ポアロへ押しかけてきたのはそのしばらく後のことだった。
「昴さんが風邪ひいたみたいなの!お見舞いに行きたいんだけど、安室さんに相談に乗って欲しくて…」
よりによってどうしてそいつの話を僕に持ってくる。
そう言いたくなるのをグッと堪えて後ろの方で黙って佇んでいるコナンくんをジトリと睨めつければ、僕の視線に気づいたのか彼は慌てて目を逸らした。
『安室さんならお料理上手ですし、聞けるかなと思って!』やら『元気が出る食べ物と言ったらうな重だろ!』やらとわちゃわちゃ騒ぐ男子勢を尻目に、本気で心配しているのであろう歩美ちゃんがくい、と僕の袖を引っ張った。
「ねえ、安室さんお願い…一週間前ぐらいから、昴さんどんどんしんどそうになっていくの…ご飯も食べられてないんじゃないか、ってコナンくんが…」
「一週間前ぐらい?」
「うん、そうだよ。何か気になることでもあるの?安室さん」
思わず聞き返せば、耳聡くコナンくんが話に入ってきた。
一週間前ごろといえば、僕がアイツを見かけて思わず声を漏らした日。
大したことはない、ただの痴情のもつれか何かだろう、そうやたらと自分に言い聞かせていたのは、小指に巻き付いたあの糸をー無意識の内によくないモノを自分から遠避けようとしたからか。
たったの一週間で、あの男ともあろうものが子供に心配される程度に衰弱をしているという事実と、自身のあの時の対応を考えれば嫌な結論に辿り着く。
ーあれ、見なかったことにしたのマズったんじゃないか。
「なあ、安室の兄ちゃん忙しいみたいだし俺たちだけで行こうぜ」
はっと、意識を引き戻されその声の元へ視線を向ければ、僕が考え込んでいるのに痺れを切らしたのか、元太くんがポアロの扉へと手をかけようとしていた。
「ダメだ」
思わず大きな声が出て、子供たちの動きがびくり、と止まる。
「安室さん?」
いつもと様子が違う僕に怯えたように歩美ちゃんが声をかけてくる。
「ごめん、びっくりさせちゃったね。…大人がそんな症状になるぐらいだ、もしかしたら症状の重い感染症かもしれない。子供の君たちが行くことは薦められないな」
しゃがみ込んで、子供達と目を合わせながら出来うる限り穏やかな声音でそう伝えれば、しょんぼりと肩を落としてしまう。
「…そうだなあ、手紙を書くっていうのはどうかな?きっとみんなが心配してるって知ればそのお兄さんも早く元気になろう、って力が湧いてくると思うんだ。僕が責任をもってお手紙届けてくるから、ね」
「うん、わかった!お手紙、今から急いで書くから!安室さんちょっと待ってて!」
そう言ってポアロの客席へと駆けていく子供たちを見送れば、様子を見守っていたコナンくんがそっと僕の横へ並んだ。
「アイツらを止めれなかった僕がいうことじゃないかも知れないけど…どういう気の変わりよう?」
「さあ。心の清い子供達に毒されたと思ってくれて構わないよ。事実、子供に感染すると症状が重くなる可能性もある以上、そう易々と子供を見舞いに送り出せないだろう?ー彼らの安全を考えれば、彼らが納得して折り合いがつくのはこのラインが妥当だ。それ以上もそれ以下もないけれど、君は何が気になるんだい?」
そう言えば、コナンくんは怪訝な顔でこちらを睨め付けてくる。
「…君も子供だ。彼らと同じくね。件の『お兄さん』が元気になるまでは近づかないようにね」
納得がいかない、という表情を隠すことなく出したコナンくんを置いて、他の客の元へとオーダーを取りに向かう。
きゃいきゃいとはしゃぎながら手紙を書く子供達から声をかけられるまで、彼の視線は僕の背中に突き刺さったままだった。
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「自分から引き受けたとはいえ、どうしてこうなったのか…」
あの後。
手紙を書き終えた子供達に『絶対に届けてくれ』と念押しをくらい、早く帰るようにと促していれば丁度シフトでやってきた梓さんとかち合い、事情を聞いた梓さんに『早上がりで構わないから子供達のお願い事を叶えてやってくれ』と気遣いをもらい。
結局工藤邸の前に思ったより早く1人で佇んでいる。
工藤邸の周囲には、異常なし。
工藤邸にはー。
カーテンの閉まった窓に張り付くように黒い影。
ー当たりだ。
あの男は『何か』に『憑かれた』、もしくは『呼ばれている』のだろう。
あれほどハッキリと形を持った何かが彷徨いている以上、正直生きているのか怪しいレベルと言っても過言ではないなあ、などと考えていれば胃が痛くなってくる。
ーそしてそうなるだろうとは思っていたが、小さな気配がひとつ。
「…君も子供だから、帰るようにと僕は伝えたはずなんだけれど」
そう問えば、電信柱の影からコナンくんが姿を現した。
ポアロで僕に向けられていた視線と変わりない、疑うような、厳しい視線。
「僕たちは、別に昴さんの病状は詳しく伝えなかった…のに急に感染症じゃないかーなんて言い出して、僕らをやたらと遠ざけようとした。極めつけにはただ手紙を届けるのを請け負うなんて、普段の安室さんじゃ考えられない。…何か、あるんでしょ」
「…君は本当に、疑えば真実に辿り着くまで止まらないな…でもね、これは君が期待するような謎ではないし、君にとっても、そして僕や、アイツにとっても『領域外』の案件だ。アイツの状況が今どうなのかによりけりではあるが、場合によっては君を巻き込んで無事に返せる保証ができない」
そう伝えれば、彼は元よりつぶらな瞳を大きく見開いた。
「領域外、って、どういうこと」
「言葉通りの意味だよ。…そうだな、今君の目にあの家はどう見えているかな」
目の前にある工藤邸を指差せば、狼狽えたような様子で彼は指差す先に目を向ける。
「…特に何も、変わったところはないけど…強いていうなら、カーテンが全部閉まってることが気になるぐらいかな」
「そう。…僕にはね、あの窓に張り付いてる『何か』が『沖矢昴』の名をずっと呟いてるのが見えるよ」
「…安室さん、何言ってるの」
いつもの疑うような視線ではなく、どこか怯えたような、心配するような視線を向ける彼から目を逸らす。
まあ、そういう反応だろうということはわかっていた。
彼は、探偵だ。
たったひとつの真実を求める彼のこの性分は、きっとこの手のことには相性が悪い。
僕自身、見えることがなければ、関わることがなければきっと信じないたちだろう。
「その反応は正しいよ。関わらずに済むのなら、関わらない方がいい。理屈も何も通じないからね、この手のことは」
そっと、突き放すように彼の肩を阿笠邸に向けて押せば、小さな体は容易にぐらついた。
グッと口を噛んだまま、何も言わないコナンくんを置いて、工藤邸の門扉に手をかける。
ギィ、と扉が軋む音と共に開いていく門に小さな手がかかった。
「…頼むから、今回ばかりは引いてくれないかな、コナンくん」
「やだ。だって、沖矢さんがどういう状況かもわからないんでしょ?僕は確かに子供だし、安室さんのいう『その手のこと』のことはよくわからない。けど、安室さんですら『領域外』だっていうなら、人の手は多いに越したことはないんじゃない?…それにさ」
そう言葉を区切ったコナンくんはニヤリ、と笑うとポケットから鍵の束を取り出した。
「僕は新一兄ちゃんからこの家の鍵を預かってるんだけど…安室さんはどうやって入るの?インターホンを鳴らして沖矢さんに開けてもらう?…まさかとは思うけど、違法な手段で侵入する…なんてことは子供の僕の前では、出来ないよね?」
「…全く…頭も回れば口も回るな君は…」
深くため息をつけば、コナンくんはいひひ、とイタズラっぽく笑った。
…彼のことだ、このまま放っていけばどうにかしてついてこようとするだろう。見えないところで関わられるぐらいなら、目の届く範囲にいてもらった方がまだ安全だ。
「コナンくん」
彼に近寄り、しゃがんで目を合わせれば、「なあに」と可愛らしい声で聞き返してくる。
「今すぐありったけの塩と水…あとファブリーズを持ってくるんだ。もしくはリセッシュでも可」
「ファ、ファブリーズぅ…?」