車中には今日も血のにおいが漂っている。
どんよりと曇った昼下がり、隣の騒がしさから目を逸らしたシンクレアが後部座席へ視線を向けると、そこに見慣れない姿があった。
見慣れないと言っても人そのものの話ではない。バスの中にいるのは囚人と管理人、運転手、そして案内人。誰が増えたわけでもなく、何か持ち込まれたわけでもない。ただ、囚人の1人――ホンルが、彼にしては珍しく気落ちした様子で俯いていたのだ。
どうしたんだろう……。
いつも機嫌良く笑っている彼は、多少のことでは動じない。暗い顔をするよりも、むしろ落ち込んでいる人を励ます側の人間だ。シンクレアも彼のくだらない冗談に助けられたことがあった。
そんな彼に一体何があったのかときょろきょろと見回してみたが、そのことに注意を払っている者はいないようだ。他の囚人たちは窓の外や、バスの前方で何やら演説をしているドンキホーテの方ばかり見ていて、後ろを向いているのはシンクレアくらいだった。
様子が気になりはするが、シンクレアにとっては少々遠い距離は声をかけるのを躊躇わせる。どうしようかとホンルに視線を向けては逸らすのを繰り返していると、それに気づいたらしいイサンが場所を空けるように身体を逸らした。どうぞ、とばかりに横目で合図されては声をかけないわけにはいかない。座席に身を預けたイサンの前に身を乗り出すようにして、シンクレアはホンルに声をかけた。
「あの、ホンルさん?その……元気がないみたいですけど……」
自分のことながら、もう少し気の利いた言い回しはなかったのかと呆れる。顔に熱が集まるのを感じ、やっぱり声なんかかけない方が良かったのでは、と思いかけたところで、ホンルがぱっと顔を上げた。
「あっ、シンクレアさんなら参加してくれますか?」
「……はい?」
いったい何の話だろうか。
詳しく聞いてみると、どうやらお茶会を開きたいが、メンバーが集まらないということのようだ。お茶会。シンクレアは首をひねった。たしかにこのバスの目的を考えると暢気すぎる気はするが、なんだかんだ快楽に弱い囚人たちのことだ。誘われれば喜んで飲み食いしそうなものだが……。契約書には隅々まで目を通したつもりだったが、何かシンクレアの知らない社則でそういった行動を制限されているのだろうか?そうだとしたらシンクレアもこの誘いに乗ることはできない。
シンクレアの視線に気づいたのか、ファウストが口を開く。
「確かに契約により囚人の行動は制限されています。しかし、それは囚人の休息や息抜きといった行動までもを縛るものではありません。社の利益に損害を与えない範囲での休息はむしろ推奨されています。肉体の損傷は時計を回すことで修復されますが、精神の疲弊を同様の方法で癒すことは不可能であるためです。」
「個人的な息抜きで発散できる程度のストレスしか与えていないとでも?同僚の問題行動で神経をすり減らしてるんですけど」
「人間関係に起因する精神摩耗に関して当社は責任を負いません。また、その他業務内容に関しては契約を思い出していただければご理解いただけるかと」
イシュメールが口をはさんだが、すげなく返されてしまった。もともと好意的な返答を期待してはいなかったのだろう。溜息を吐いて口をつぐんだ。
「えぇと……じゃあ問題はないんですよね?なんで誰も参加しないんですか?」
今度は誰も何も言わなかった。沈黙のあまりの重さにシンクレアは狼狽したが、当のホンルはどこ吹く風といった様子で、きょろりと周囲の顔を見回してから首を傾げた。
「なんででしょうね?」
とぼけているわけではなく本当に何もわかっていなさそうな表情だった。