トロッコ問題夜の就寝前、寝付けない時はホットミルクを飲むといいと誰かが言っていた気がする。
ミルクを温めてコップに注ぎ、それを持って寝台に乗り上げる。
ぎ、とスプリングが軋む高めの音が部屋に小さく響くと同時に丸まっていた白い塊がモゾ、と動きを見せた。
起こしたかと静観していればのそりと体を起こした同居人が少し虚ろな金色をこちらへと向けてくる。
「寝てないのか」
「これを飲んだら寝るさ。」
一言ずつの会話。
こちらの手元で湯気をたてる飲み物を見てから、どうやら少し起きていることにしたらしくヘッドボードに背を預けて欠伸をこぼす狼を横目にゆっくりコップの縁に口をつける。
ミルク特有の甘みが口に拡がって喉元に落ちていく。
その感覚と静寂に落ち着きを覚えた頃、ふと低めの声が耳をついた。
「トロッコ問題って知ってるか」
ちら、と紅の瞳を横に向ければ金色と目が合う。
突如話題に躍り出た有名な哲学問題は本でも幾度か目にしたことがあった。
暴走したトロッコがあり、線路の先は二手に分かれていてトロッコを止める手段はない。
何もしなければ5人が死に、目の前のレバーを引けば路線が切り替わり5人は助かるが別の1人が死ぬ。
この犠牲になる対象には種類があり、大事な1人と見ず知らずの5人で問われることもある。
つまりは「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で問われる倫理学上の問題のことだ。
「有名な問題じゃの」
寝る前の与太話としては些か重い気もするが、未だホカホカと湯気をたてる熱めの飲み物を冷ます程度の時間は稼げるだろう。
「お前ならどうする」
金色に向けていた瞳を1度細めてから手元のカップに落とす。
白色の鏡面は何を反射することも無くただ小さく揺れていた。
「そうじゃな...何もしない。関わらん。」
「見限るってことか?」
「言い方が悪いな。まぁそうとも言える。そういう運命なのだと思うじゃろう」
へぇ、となにか物言いたげに1度言葉を飲んだのがわかる。
自分が手を下したことによる責任を負いたくないだけなのかもしれないが、干渉しない、が自分の答えではあった。
元々そうしてきたのもある、人によっては薄情だと思われるかもしれないが最善手だと思うのだ、自分にとっての。
「なら、その問題の1人が俺で、5人がお前の元いた村の奴らなら」
少しの静寂の後で再び問われた問は少しの修正を加えられてこちらに投げられた。
手にしたカップから伝わる温度は少しぬるくなっていてそろそろ飲み頃だろう。
ほほ、と笑って隣の狼にゆっくり赤色を向ける。
「ならばお前にもわしから問いをやろう。」
自分の問いかけを無視されたと思ったのか少し不満げに眉を寄せるのを尻目に口を開く。
「考えよ」
「暴走するトロッコの先にはお主のはとこ、レールを切り替えた先にはわし が居る」
生ぬるい温度が次第に冷たさを増していく。
目の前の狼の目がほそまった。
金色の瞳に月明かりが乱反射して白のまつ毛が影を落とす。
「お前はレバーを引くのか否か」
「無駄な言葉は要らんよ。答えは はい か いいえ のみじゃ」
少しの静寂、聞き慣れすぎて知らぬ間に存在を消してしまっていた夏の音がリリリ、と窓の外から聴こえてくる。
すっかり冷めきったミルクを温めるために寝台を降りると未だ考えているのか身動きをしない相方を振り返って吸血鬼がコロコロと笑う。
「どうじゃ、あまりに無粋じゃろう」