ディープフェイカーの融解SS 鷹見啓悟が何故敵【ホークス】になったか。それは母親に売られたから。
だが、それはただの事実に過ぎない。正しくきっかけとして挙げるならばこの一点のみだ。――あの男に、見つかってしまったから。
啓悟がまだ少年だった頃、敵だった父親がヒーローに捕まって、焦った母に手を引かれ市街地を彷徨っていた。
母は啓悟の言葉を聞かず、警察やヒーローに怯えて暗がりから出ようとしなかった。啓悟はそれでも正しく有りたくて、警察に行こうと何度も母に伝え、羽を使って人助けをした。……今ならわかる。あれもこれも、自己満足の一環でしかなかった。
それがいけなかったのだろうか。混じり合うはずのない道筋が、どこかで運命の歯車が狂って、そうして現れたのがあの男だった。
今思い出しても怖気がする。男はこう言った。
困っているみたいだね、君たちを助けたいんだ、僕はヒーローじゃない、安心してくれ、と。一体どこが安心できるのかわからなかった。けれどヒーローでも警察でもないと語る男に、限界を迎えていた母は身も世もなく縋り付いた。
だが、男は端から母なんか見ちゃいなかった。純粋な人助けのわけがない。あいつは啓悟を見ながら、子供はどうするんだい、と優しく語りかけたのだ。どんな言葉が返ってくるかをわかっていて。
なんでもいいから、あんなん好きにしとって。
予想に反しない言葉だ。だが言い捨てられた声に、羽が逆立ち、無意識に手に力が入ったのを覚えている。同時に、普通の人間の目をしていない男からの視線が、本能に語りかけていた。
別にそれそのものに熱があるわけじゃない、自分の体温が移っただけの、綿が詰まった布だけが自分の味方だった。
この瞬間に、自分の価値が決まったのだ。
「これで君の羽は僕のものだ」
啓悟の抱いているヒーローのぬいぐるみを見て、笑みを深める男に、見つかってしまった時から。
*
体はまだ重い。思考は少しクリア。だが燃える記憶に体が燻る気配がする。
荼毘は静かに後にした家を振り返った。随分ボロい隠れ家だ。ベニヤ板の手作り感溢れる掘っ立て小屋は自作にしてはよくできた家ではあるが、よく燃えそうだ。あっという間に炎で満たせるだろう。服が無いだの親に売られただの話を聞く限り、随分貧乏くさいやつのようだ。
――母親に売られて敵になってから、俺の命にはなんの価値もない。
そう語る顔はヘラヘラしているくせに、嘲笑に塗れていた。親に対してか、それとも自分自身に対してか。反射的に首に手をかけた時もショックを受けた様子もなく、防御姿勢でありながら無表情だった。そういったことに慣れていそうだったが、敵ならおかしいことではないのだろう。
だというのに得体も知れない男を助け、住み処までも教えるなんて迂闊なやつだ。それとも、なにか狙いがあるのだろうか。
偽善を語る、偽善がなにかわかっている敵。つぐつぐ、敵に向いていない男だ。
「……気色悪ぃ」
あの男も、そいつのことを考え続ける自分も。吐き捨てた言葉に苛立ちを覚えて舌打ちをする。
乱される理由はわかっている。かつての自分を知っているからには、あいつはあの施設にいたのだろう。氏子に治療されてからずっと眠っていたあの施設に。
今思えば、売られた先はあの氏子をはじめとする敵にか。何故あの施設にいたかなんて興味がない、と言い切るには、どうしても捨てられない記憶がある。
――おねむりくん
……ほんのわずか、やすらぎを得た記憶だ。あの声が、似た声が、沈めた記憶を揺さぶってくる。
少し高めのボーイソプラノ。ちょっと掠れているけど、夏くんに似ているな。夢うつつにそう思ったのが始まりだった。
「……ねむり、く……」
その声は最初は強張っていた。時々表れる炎の夢の合間、何もない暗闇に落ちる声が誰を指しているのか、始めはまるでわからなかった。
「……だ、動かす……いじょうぶ……くん」
体の感覚はなくて、けれど間近に聞こえる声が自分に向けられているものとぼんやり理解してからは、その声に耳を傾けるのは悪くない気分だったように思う。
「き……は、涼し……が、好きと? おねむ……くん」
少し言葉が訛っていて、方言混じりの声だった。夏くんの声より真っ直ぐ届く。あの頃夏くんは燈矢に対して眠くて面倒そうな声ばかりだったから、なんだか新鮮だった。
何度か聞いていくうちに、方言は鳴りを潜めて、声は少しずつ低くなっていく。おはよう、おやすみ。時間が経てば経つほど、なんでもないことを語りかける声があの自称偽善者と重なっていった。
「いつ目覚め……っちゃ……おねむりくん」
目覚めた直後は錯乱して何も覚えていなかったが、〝荼毘〟になってからぼんやり記憶に混じるその声を思い出したことがある。幾人かの声にそう呼ばれたが、一番多く残っている声が声変わりを迎えるまでの数年間の記憶を、荼毘はあえて奥底にしまい込んだ。
何者でもない自分を見てくれているという事実に、心が揺れかけてしまったから。だから、気づく前になかったことにした。
「君のこと……りたかと……の、ため……」
轟燈矢は死んだ。それだけだ。
*
丁度いい廃工場がある。街から離れていて、ヒーロー事務所も警察署も遠い。鉄筋コンクリート造りだから火に強く、火災の心配もない。
「……まァ、もうコントロールできないなんてことはねぇけどな」
青い炎が皮膚を焼く。感じる熱は過去のものしかない。火力を上げて、上げて、溜める。眼の前のノートパソコンの中では赤い炎が膨らんでいる。
保須の事件から日が浅く、まだ動き始めたばかりだ。ああ、舞台が整うのが楽しみで仕方ない。だからこそ、もっと火力を上げておかなければならない。
しかし、いつもより火力の上がりが遅い。どうやら雨が近いようで、空気が湿っている。部屋の中が熱気と湿度で充満した。頭がまたくらりと揺れるのを感じ、舌を打つ。
その時、カン、と硬質な床を叩く靴の音が響いた。比較的近いところからの突然の音に警戒して耳を澄ませるが、状況からしてあれの可能性が高い。どうせ飛んできたのだろうと、すぐに攻撃できるよう体勢だけは整えて、歪んだドアを横目で見る。
ガコン、と開きにくいドアが大袈裟に音を立てた。「ドアノブあっつ!」「立て付け悪すぎない?」「お~い、いる~? 返事してくださ~い」と雑なノックと気楽な声。無警戒にも取れるわざとらしさだ。予想通りの人物に呆れて手を下ろす。
「よっと、やっと開いた。荼毘サンこんばんは~。ここって君の家?」
「……んでここに来た」
「いや~、ちょっと騒いでる奴らがいたからさ」
ここあっちーね、と言いながら部屋の入口を陣取るホークスに、今度は脅しの意味で手を向ける。
「待って待って、寝首掻きに来たわけじゃないから! するんならとっくにしてることくらいわかるでしょ?」
「うるせぇ。質問に答えろ」
「え~、仲良くなれたと思ったのに。……荼毘、君は知らないだろうけど、ここをねぐらにしていた敵紛いの不良がいたらしくてね。こっちで追い払っといたよ」
「……今は潜伏期間中なんじゃねぇのかよ」
「大丈夫! 俺はまだヒーロー側に顔が割れてないからね。チンピラを追い払う程度、大した騒ぎにもならない」
ヘラヘラした鳥人間は熱気に包まれた部屋でぱたぱたと羽を動かしている。わざわざ好感度稼ぎに来たのか。もっと他のお仲間にでもその偽善を発揮すればいいものを、どうしてか荼毘が丁度いいのだと言う。
おかしなのに目をつけられたのか、別の目的があるのか。考えるだけ無駄だと思考を追い出し、姿勢ごと視線を外した。そのおかしなやつは今だペラペラと口を回していて単純にうるさい。
「ま、君の顔が変に知られるよりは、俺が追っ払った方が良いと思っただけ。また来るかもしれないし、とりあえずここは引き払った方がおすすめだね」
チッ、と舌打ちだけして炎を止める。言われた通りにするのは癪に障るが、舞台を整えるためにはまだ表には出ない方がいい。さっさと少ない荷物をまとめようと私物に手を伸ばした。
「言われるまでもねぇ……あ?」
カチ。真っ黒な画面のノートパソコンのスイッチを叩く。すっかり熱を持った拾い物は、うんともすんとも言わなかった。
どうやら熱でやられたらしい。下手を打った。しかも、外からぱらぱらと雨粒がコンクリートを叩く音がする。部屋にいる鳥人間という要素を含め、不快指数が上がっていく。
「あれ? おじゃんになっちゃった? それ」
「……」
「あちゃ~、よかったらうちくる? パソコンあるよ」
「行かねぇ」
「えーっ、つれないな~」
後日。ホークスが家に戻ると、勝手にパソコンを開いている荼毘がいた。
「あれぇ、いらっしゃい?」
「……」
「来ないんじゃなかったっけ」
「動作が重い。ポンコツなモン人に勧めてんじゃねぇよ」
「えぇ~、勝手に使っといてその言い草は酷いなぁ」
荼毘はノートパソコンをパタンと閉じて立ち上がると、さっさとホークスの家を後にした。残されたホークスはノートパソコンを立ち上げて履歴を確認するが、全て綺麗さっぱり消えている。
復元できるような技術は生憎持ち合わせていないので、諦めるしかない。せめて来るなら来ると言ってくれれば良いのに、とため息をついた。熱で歪んで壊された家のドアの南京錠だって、直せないから買いなおすしかない。
こんなボロ家に来る人なんてそもそもいないし、もういっそ鍵を閉めないままでもいいかと諦めた。何度も買ってなんていられないし、直に意味も無くなる。
ヒュン、と家に残していた剛翼を戻す。昔過ごしていた施設で多少の〝教育〟は受けたものの、振動で捉える音声は低音質すぎて、余程大きい音でないとはっきりとは理解できない。映像機器を介した音声なら尚更だ。
「ヒーローの訓練とか受けてたら、なんか変わってたかなあ……」
ボヤきながら先程の荼毘の行動を思い出す。どうやらパソコンで動画サイトの映像を見ていたようだ。剛翼からの振動で一時間ほど前から居座られていたのはわかっていた。
羽に伝わる僅かな熱気とパソコンを観ているだけらしい様子から、荼毘だと当たりをつけて様子を窺っていたが、おそらくこれからもホークスの家にパソコンの映像をたかりにくるだろう。パソコン自体を持ち出すつもりはないようだし。
これならあえて留守の時間を作り、様子を探ることができる。こちらとしても随分と都合がいい。剛翼をもう少し忍ばせれば音の精度も多少は上がるはずだ。
まさかホークスがいても荼毘が時々居座ることになるとは露とも思わず、今後のことを考えながら新しく羽を潜ませた。
日が沈み、もうすぐ夜が来る。雲に覆われた空がすっかり暗くなったことを確認して、ホークスは一部が黒ずんだ羽を広げて大地を蹴り上げた。
*
おねむりくんは、啓悟が施設に来て数年がたった頃、奥の部屋のベッドに運ばれてきた少年だ。
ここは柄木による児童養護施設のうちのひとつで、身寄りのない子供や事情があって親元に居れない子供が過ごす場所。もちろん、慈善事業の皮を被った実験施設がその本質で、ここにいる子供は二通りに分けられる。
何も知らない子供と、オール・フォー・ワンの息のかかった子供。啓悟は後者だ。
啓悟は自ら進んでおねむりくんの世話をしていた。点滴が繋がれ、最初の頃は呼吸器で浅い息を繰り返す包帯まみれの年上の子供を前に、手探りで看病をした。看護師がいない時、どうにか教わって包帯や点滴の輸液パックを変えたり、床ずれ防止に体を動かしたり、聞こえないことを前提に話しかけたりなんかもした。
呼吸器が外れても眠ったまま目覚めない新しい仲間は、施設の子どもたちからおねむりくんと呼ばれるようになった。
「君、おねむりくんのお世話毎日してるよね。もしかして知り合い?」
「いやいや、違うよ。なんだか可哀想なだけだって。ほら、千羽鶴折るんだっけ? 手伝うよ」
何も知らない子供たちと年相応に過ごすことは難しかった。接したこともない同年代、まだ不完全な標準語、地下で受ける教育、オール・フォー・ワンに言われた言葉。せめて、何かしていたかっただけかもしれない。そんな自分に、おねむりくんの世話は丁度よかった。
「体、動かすばい。大丈夫と? おねむりくん」
「今日は昨日より涼しいけん。君は涼しい方が好きと? ……聞こえるわけないか」
「いつ目覚めるっちゃろ、おねむりくん」
「別に聞こえんくてよか。でも、君んこと、知りたいな……」
どうせ聞こえないならと、素の口調で話したり、勝手に標準語の練習をしたりした。真っ白な髪と引き攣った皮膚の顔を眺める。閉じられた瞳の奥はどんな色をしているのだろう。
ちゃんと、君の口から聞きたい。そう思っていたから。
*
星の見えない夜。街を見下ろす鉄塔の上は、風の音しかしなくて居心地がいい。自由に空を飛べることが本当の自由ではなくても、ここにいれば気持ちばかりは羽根を伸ばすことができた。
言外にヒーローらしいと言ってくれた彼を思い出す。あの頃よりひどい状態の身体に、彼が何を思って今まで生きてきたのか察することができた。幸いなことに、まだ目立った罪は犯していないようだ。これから先、自分に何ができるだろうか。
〝お父さん〟のことを泣きそうな顔で擁護する少年を、現実を突きつけられて慟哭する少年を見て、啓悟はついに目を背けていた事実に向き合わなければならなくなった。
「可哀想だろう? 実の父親に中途半端に目をかけられて、放置されて、挙げ句の果てに自分の炎で焼けてしまった……。もちろん、僕たちは彼に最大限手を貸すつもりだ。けれど、彼を救うためには、そしてヒーロー社会の闇を暴くためには、……わかるだろう?」
嘘かもしれない、自分を縛り付けるための方便かも、事実があったとしてもほんの一部かも。まだ全身包帯だらけの彼の眼の前で、その時はそう思いたかった。
「君がエンデヴァーのファンだってことはわかっているさ。君だってショックだろう? 僕たちはいつだってこの事実を公表する準備がある……でも賢い君ならわかるはずだ。僕の言いたいことがね。ああもちろん、君のお母さんは元気に過ごしているよ」
切り落とされた風切羽が握り潰されるのを見ながら、せめて嘘であってくれと思いながら、見えない鎖が全身を縛っていくのを感じた。
「君の羽は、僕のものだ。わかってくれるね?」
炎の中裸足で外へ駆け出していく彼を追いたかった。だがそれで、自分が逃げ出したと思われてしまったら。
母も、自分にヒーローという光を教えてくれたこの世界も、すべてがなくなってしまうかもしれない。
もはや、この行為に意味があるのかすら、よくわからなくなっていた。誰のためになるのかもわからない独りよがりなこの行為を、偽善と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
――君んこと、知りたいな。エンデヴァーの、ためにも。
「……おねむりくん、元気でよかったな。死んでるはずって聞いとったから、嬉しかった……」
風にさらわれる声は闇夜に溶けて消えていく。
「けど、敵連合に来たからには……君ん望みば、叶えるわけにはいかんけん……」
それでも、誰になんと言われようと、こうすることで少しでも未来に光を残せたなら、ちょっとはマシな人生だったと思えるかもしれない。ヒーローに救われた自分の意味を、価値を、なかったことにしたくないから。
「君ん父ちゃんば、ヒーローでいてもらわないかんけん……」