光の神と常夜の神 兄は……兄とその母上は酷く美しい者だった。
慈悲深く、美しく、そして誠実。
神威は矮小であれど、そんな彼女であったから主神である父は兄の母を愛した。
されど、嫉妬深い俺の母は彼女の存在を許さなかった。
兄の母は無惨に引き裂かれ、兄は国を守る為の戦神へと封じられたのだ。
物陰に隠れながらその一部始終を目にした俺は幼いながらに自らの母の醜悪さとそれに比例するように初めて目にした兄の美しさに魅入っていた。
宵闇色の髪、星すら呑み込んだ夜空のような澄んだ漆黒の瞳。
引き裂かれた母を前に、涙を流しながら俺の母に従う貴方を見て、幼心にも強く思ったのだ。
貴方を護りたい、と。
それから時が流れて他所の国の神々との戦が起きた。
最高神である父とその正妃である母の間に生まれた俺はいつだって安全圏にいて戦の話など噂話程度に聞くだけだ。
連戦連勝をする貴方の名を誰もが囁き合う。しかし、その声に隠し切れぬ侮蔑が混じっている。
我々神は穢れを厭う。
戦の神はその穢れを一身に受けるのだ。
貴方が矢面に立ってこの国の為に戦ってくれているのに、誰も貴方を讃えない。
その事実は俺の胸を黒く染めていく。
それでも、時折聞こえてくる貴方の名に胸が高鳴るのを感じていた日々。ある時、募る想いを我慢出来なくなった俺は宮殿を抜け出して兄のいる戦場へと向かった。
風に混じる血腥い臭い、土と鉄の臭いは不快だったが、その中に輝く姿を見つけた。
見つめる先に貴方がいる。白い頬に飛んだ緋色だけが鮮やかに貴方を彩っていた。
獅子奮迅の活躍に敵軍が退いていく。その様子に俺は堪らずに貴方の前に降り立った。
俺の姿を見た貴方は驚いた様に黒い瞳をまん丸にしていた。
「何故こんな所にいるんだ」
声音は平坦だったが、微かにこちらを心配するようなものを感じさせる。同時に視界に入らないようにさり気無く隠された血塗れの剣。
嗚呼、やはり貴方は思った通りに優しいお方。
誰もが恐る戦の神ではなく、その荒ぶる側面を以てこの国を護る守護の神。
何故誰も気が付かないのだ。
何故誰も貴方を顧みないのか。
この時から私の胸のうちには悪の芽が生まれたのだ。
兄との邂逅を果たした俺は自己研鑽に励み続けた。
最高神である父すら凌駕する力を持った事で神々も人々も俺に平伏す。
しかし、賞賛も栄華も俺にとっては無価値だった。俺にとっては価値があるのはただお一人なのだから。
俺は努めて善神として振る舞った。
慈悲深く、寛容で完璧な神。
ある時、俺の台頭に自らの地位を危ぶんだ父が俺を殺そうとしてきた。
俺はやっと時節が満ちたのだと思った。
既に父は俺の足元にも及ばぬ。
邪魔な母も諸共葬り去ってやった。
父の横暴に嫌気がさしていた者達は揃って新たな主神の誕生を祝った。
それが自分達に滅びを齎すとも知らずに……。
玉座に着いた俺が初めにしたのは戦が終わった後に常夜の国を統べるようになっていた兄を呼び戻す事だ。
媚び諂う神共は不平を呟くが、俺に対して直接意見してくる者はいない。
やがて、兄が俺の宮殿にやってきた。
戦場でお逢いした時よりもずっと美しくなっているそのお姿に俺はうっとりと息をつく。
兄は突然呼び戻された事に戸惑っている様だったが、これを機に兄弟の仲を深めたいと頼むと困った様に微笑みながら了承してくれた。
嗚呼、麗しの貴方。これで漸く全ての準備が整ったのだ。
共に食事を摂りながら、俺は兄の酒に眠り薬を混ぜた。やがて眠りに堕ちた貴方の手足に枷を嵌めてから抱き上げる。
こうでもしないと優しい貴方はきっと救おうとしてしまうから。
玉座の横に設えた寝台に貴方の体を横たえて鎖で繋ぐ。穏やかに眠るお顔は稚い。
唇に自らの唇を重ねれば仄かに甘かった。
その甘さを噛み締めながら俺は魔物を生み出し、疫病を運ぶ風を吹かせる。
雲を消し去り、太陽は大地を灼く。
川は溢れ、人も神も押し流す。
魔物と疫病に追い立てられた人や神共が阿鼻叫喚に叫び逃げ惑う。
水鏡でその様子を見ながら俺は嗤った。
嗚呼、なんて素晴らしい光景だろうか。
大地が裂け、地の底から湧き上がる焔が地上を舐め尽くす。
魔物に襲われた者達が血に塗れながら転げて逃げ回る。
如何程の時間が経ったのだろうか。やがて宮殿にも血の匂いと煙の臭いがしてきた。
その臭いに反応したのか、長いまつ毛に縁取られた瞼が微かに震える。
やがてゆっくりと開かれた漆黒の瞳が、目の前で起きている事を捉えた。
がしゃりと鈍い音を立てながら貴方が体を起こすけれど、その身は既に捕らえた後だ。
「何をしている! 早く行かせてくれ!!」
悲鳴を挙げる美しい貴方。
漆黒の瞳は涙に濡れ、宵闇色の髪は降り乱れている。
暴れるから手足が枷で擦れて傷が付き、血が流れていた。
嗚呼、貴方を傷付けるつもりではなかったのに。
我々の足元には辛うじてこの宮殿に辿り着いた傷付いた神や人間が這いつくばりながら手を伸ばしてきた。
神も人も入り混じってどうか助けてと懇願する様は憐れだ。
だから、俺は微笑んでやる。
奴らが安堵し、期待するように。
慈悲深き最高神が護ってくれるのだと思うように。
「貴方が傷付いてまで護る価値など、此奴らにはありません」
「は……?」
誰となしに零れた声。
嗚呼、本当におかしくて堪らない。
何故俺が、貴方を敬いもしない連中を救わなければならないのか。
「だってそうでしょう? これまでも散々貴方は我々を……この国を護ってきて下さった。それなのに、彼等は貴方に何をお返ししましたか? 誰の為に緋に穢れ、傷付いているのか解っているのに、此奴らは貴方を疎み蔑ろにした! 一番賞賛されるべき貴方を、此奴らが闇世に追い遣った!!」
俺の言葉に、兄は漆黒の瞳を驚きで丸くし、やがて哀しげに伏せた。
「そんな事……私が生まれた時から賜った役割だ。このような凶行が起きぬようにと。何故お前がこんな……」
ほろほろと零れ落ちる宝石の様な涙を指先で掬いながら俺は微笑う。
嗚呼、愛しい方。
やっと誰にも邪魔されず、貴方を愛でられる。
邪魔な父も母も俺が殺した。
貴方を傷付ける者達には滅びの鉄槌を下した。
美しい貴方の為に、離宮を用意しよう。
白い薔薇を植えて、俺の元から離れられぬように鎖で繋いで差し上げよう。
貴方が血で穢れぬよう、二人だけの国を創ろう。
貴方の為に用意した美しい世界で貴方は俺の為だけに笑ってくれれば良い。
「あいしております、兄上」