怒らせてはいけない人※王都編54話の幕間です
怒らせてはいけない人
「セイアッド様」
声を掛けられて顔を挙げると目の前にはいつの間にかオルテガの副官、イデオン・イリル・ベックがいた。何の気配もなかった事に少々驚いて固まっていると、イデオンは困ったように目尻を下げる。
「驚かせて申し訳ありません。貧民窟の件でご報告に上がりました」
「あ、ああ」
柔らかな声音で謝罪しながら、彼はそっと書類を差し出した。報告書だろうか。
柔和そうな雰囲気を纏う男は騎士らしくない。こんな優しそうなのにオルテガは頭が上がらないらしい。どうやら怒らせたら怖いタイプのようだ。
受け取ってざっと目を通す。どうやら大きな騒乱もなく無事に撤去出来ているようで安堵する。
「行き場のない者は救護院に誘導し、抵抗する者は捕縛して城下の自警団が使っている牢に放り込んであります。頭が冷めれば連中も大人しくなるでしょう。一部の者は犯罪に加担した疑いがある為取り調べを行なっております。建物は今現在撤去中で、明日中には片付くかと」
「承知した。素早い解決をありがとう。騎士団や市民に怪我は?」
「小競り合いで軽傷者は数人出ましたが、全員治癒魔法やポーションで治療済みです。死者、重傷者は出ておりません」
イデオンの報告を聞いてホッと息を零す。これで何とか体裁は保てそうだ。オルテガと騎士団には感謝しなければ。…と思ったところでイデオンがどこか別のところを見ている事に気がついた。
じっとイデオンが見つめている先にはフィーヌースが丸くなっている。
「閣下、こちらは……」
「グラシアール殿下から頂いた卵から今朝方生まれたんだ」
俺の言葉にイデオンはそれはそれは楽しそうな笑みを浮かべる。おや、何だか嫌な予感がするぞ。
「左様でしたか。団長は孵った事もまだご存知ないんですよね?」
「え? あ、ああ……」
確認するようなイデオンが少々怖い。ふと思い至るのはオルテガが北に奔った後始末を、その尻拭いを誰がしてきたのかという事だ。もしかしなくてもイデオンには多大な迷惑を掛けたに違いない。
「その……私のせいでベック卿にご迷惑を掛けて申し訳ない」
「お気になさいませんように。閣下の所為では御座いません」
おずおずと謝罪すれば、にこやかに返された。俺に対しては怒ってなさそうではある。あるんだがどうにもこうにも落ち着かない。
「団長が長らく思い煩っていたのも存じております。お二人の関係が進展したのは喜ばしい事ですよ。ただ、あまりにも思い煩っていた期間が長過ぎた所為なのか団長が非常に浮かれておりまして……」
困ったように頬に手をやりながら溜め息を零すイデオンの言葉には共感しかない。確かに、もう少し落ち着いてくれるとありがたいんだけどなぁ。
見るからに浮かれているオルテガの貢ぎ癖は変わらないし、一から十まで世話を焼こうとしてくるから参ってしまう。常に一緒に居ようとするし、他の者が俺に近付くのを極端に嫌い、すぐに威嚇するのも困りものだ。
「閣下には是非とも団長の手綱をしっかりと握って頂きたく存じます」
しっかりの部分にめちゃくちゃ力が入っていたのは俺の気の所為じゃないだろう。俺にオルテガの手綱が握れるんだろうか。否、あんな暴走特急みたいな男を御せる自信はない。しかしながらイデオンからの圧がすごい。
「……ぜ、善処します」
圧に負けて思わず敬語で日本人の定型文句を返せば、イデオンはそれはそれは良い笑顔で笑って見せた。