短く息を吐いて手を離す。
目を閉じて、今度は深呼吸を一つ。その間に足音が近付いてくる。真横に気配を感じて目を向けるとアルバートが腰を屈めて覗き込んでいた。
「お疲れ様です」
すぐ目の前にある顔がいつものように微笑んでいたから。
「……お疲れ様」
いつものように、頬にキスをした。
―……あれ―
丸まっていく空色の瞳を見ながら首を傾げる。
―いつもと反応が違……―
そこではたと気付く。
自分は今何から手を離した?
恐る恐る視線を戻せば、当然そこにはさっきまで握っていたミレニアムの操縦桿がある。
つまりここは自分の部屋でもアルバートの部屋でも二人きりのシュミレータールームでもなく……任務完了直後のブリッジだ。
「………………っ!!」
かっと体温が上がる。顔もだが、全身が熱い。
―あああうそだろ―
今回の任務はコンパス活動再開後の初任務で、ファウンデーションの件にけりを付けるための会談の警備、及び会場までの要人の護送だった。全日程が無事に終わり、オーブに帰港して所定の手順を終えた直後という緊張が解けた瞬間にやらかした。
―だってアルバートがあの顔で笑うから!―
いつもの蕩けるような笑顔を向けられて、応えなければと身体が動いてしまったのだ。背もたれに隠れて見えなかったと楽観視するには物音一つしない現状はあまりに不自然である。
ミレニアムの操舵席は最前中央にあるので右にも左にも向けずにいると、頭部に重みがかかった。視界が暗く、極端に狭くなる。それからふわりと香る覚えのある匂い。
―これ、アルバートの―
「艦長、ノイマン大尉は疲労が著しいようですので私が部屋まで送ります」
「……そうだね、そうしてくれ」
布越しに、少し不鮮明になったアルバートとコノエ大佐の会話が聞こえる。大佐の許可を得てすぐさま視界に手が入り込む。
「どうぞ。立ち上がれますか?」
あくまで疲労のせいで押し切るつもりのようだ。ここで突っぱねても状況が悪化するだけなので大人しく手を取る。とにかく今すぐ逃げたい。
「だ、いじょうぶです」
意図せずへろへろの声が出たので信憑性は増したのではないだろうか。……分かってる。見逃して欲しい。
さらに肩を支えられて立ち上がり、手を引かれてブリッジを縦断する。周囲を確認する勇気は無かったのでひたすら床を見て歩いた。
結局声は掛けられないままブリッジを脱出し、そのまま部屋へと誘導される。今回は臨時でブリッジになるべく近い部屋を与えられているので、誰かと擦れ違う間もなくたどり着くことができた。
アルバートが扉を開けて二人で部屋に入る。背後で扉の閉まる音がして、それが限界だった。
「あーーー!!」
両手で顔を押さえて座り込む。勢いに負けて被っていたアルバートの上着が落ちた。
「アーノルド、床ではなくこっちへ」
腰を抱えられてベッドへ座り直させられる。
「あ、あるば、おれ、ごめ」
「大丈夫、落ち着いて。謝らなくていい」
アルバートは正面にひざまずいて、動揺と羞恥で言葉にならない俺をなだめてくれる。
人目のあるところでは手を繋いだことさえなかったのに、頬にとはいえキスをしてしまった。しかもよりによってブリッジで。
―恥ずかしすぎる、いくら気が抜けたからってあんなに人がいる所でやらかすなんて―
間違いなく見られた。じゃなきゃ任務完了後のブリッジがあんなに静かなわけがない。
―これからどんな顔すればいいんだ。というかなんで艦長と大佐は平然としてたんだ!―
恥ずかしさのあまり涙まで出てきてぎゅっと目を閉じる。その目元を優しく撫でる指の感触。
「キスを見られたことは気にしなくていい。むしろいい牽制になった」
全員よく見知っているブリッジクルーの誰を牽制するというのだ。片目を開けて表情を窺えば真剣そのもの。
「でもその後は駄目だ。赤く染まった頬も、下がった眉尻も、今の潤んだ瞳も、僕以外には必要ない」
真っ直ぐ見つめてくる瞳に時折ちらつく怒りは独占欲の現れ。恋人として接する時は余裕のある態度を崩さないアルバートが感情的になっている。
―珍しい―
「……そんな目で見ないでください」
思わず見つめ返せばこれまた珍しく、アルバートの方が視線を外す。
「歯止めがきかなくなります」
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。分からないが、ここはもう自分の部屋なのだから。
「アルバート」
ほとんど力を入れずに手首を掴む。普段晒さない部位だから敏感なのか、手の中で小さく跳ねる。それでも振りほどかれないのを確かめてから引き寄せた。そして本当に軽く、唇を触れさせる。
「っ」
手首を掴み返され、目元に触れていた手は後頭部へ。目を閉じて力を抜き、熱を受け入れる。
「ん……ぅ」
うなじを擽られて背筋が痺れる。酸素が足りないのか、段々頭がぼんやりしてくるけど離れがたい。でもアルバートにはバレてしまったようで、ゆっくりと唇が離れた。
「やめるなら今ですよ」
ゆらゆらと瞳に炎を灯しながらよく言う。
「……先にしたの、俺」
大事にしてくれるのは嬉しいが、あまりはっきり言わせないで欲しい。
―これ以上はさすがに……―
何とか目をそらさずにいればアルバートが目を細め、直後再び唇を塞がれた。手首を掴んでいた手が背中に回されて、支えられながらそっと後ろへ倒れ込む。
「では遠慮なく」
呼吸の合間に囁いた声は、きっと、俺だけしか知らない色だ。
おまけ
「よぉ、ノイマン。お前ブリッジで見せつけたんだって?」
「誰に聞い……いや、いいです、言わなくて」
「しかもお前の方からしたんだろ?やるなぁ」
「頬に!です!」
「それだけ?」
「それだけです」
「でも二人で出てったって聞いたぞ?オオカミに襲われなかったか~?」
あれは合意の上、というか俺から誘ったんだから送りオオカミでは……違う、そうじゃない。
「ハインライン大尉は紳士ですから」
「俺だって紳士だぞ。無理強いはしてない」
それはそうだ。艦長が本気で拒否したら大佐は手も足も出ないだろう。
「……マリューがな、喜んでたぞ」
「え?」
「“安心して気を抜ける場所ができたみたいだ”って」
「……」
「大事にされてるんだな?」
アルバートは必ず俺の意思を確認する。表情や反応をよく見ていて決して無理をさせないし、触れる手はいつも優しくて大切にされてるなって感じられて。だから安心して身を委ねることができる。
「……はい」
「そうか。良かったな」
穏やかな顔で微笑んでいる。
「で、ほんとに何も無かったのか?」
「……」
あの後。珍しく独占欲を見せたアルバートは少しだけ性急で、少しだけ強引な手つきで、いつもより求められている感じが強くて。それはそれで中々……。
はっと気づいて意識を戻せばさっきとは違いニヤリと笑う大佐。
「……大佐にセクハラされたって艦長に言っておきますね」
「待て待て、悪かったって、それだけはやめてくれ!」