秀信+七緒 杞憂「龍神の神子が現れた?」
思わず筆をおいて報告に来た者の言葉を繰り替えした。
比叡の怨霊騒ぎを鎮めた娘がいるらしい。それも若く、年頃の娘。
怨霊を刺客として送り込まれる立場として怨霊を業から解き放つことのできる龍神の神子の再臨も、民の暮らしを思う城主の立場として静謐の世に不可欠な龍神の神子の再臨も真実であれば喜ばしいことではある。
誰にも聞こえぬように短く息を吐いた。
無駄とは分かっていても念のため人をやるように指示をして庭に身体を向けると、今年も桜が散り木瓜の赤い花が咲き始めているのが見て取れた。その赤をこの城で一人、幾度見てきたことだろう。
怨霊を鎮めた娘がいると聞けば人をやり、雨を降らせた舞手がいると聞けば人をやった。しかし今は隠れし龍神に選ばれた最後の神子、自身の叔母であるなお姫が見つかることはなかった。そして新しい神子が選ばれたとも伝え聞かない。
齢二十を数えた彼の身はこういった類いの知らせにもう胸を膨らませることはなく、むしろ報告に帰ってきた家臣の顔色が明るくないことの方が胸を落ち着かせるとは皮肉なことだった。
安土の城でなお姫が龍神の神子と仰がれたその頃、秀信はまだ新年を数回迎えた幼子で、名を三法師といった。歳の近しい彼女は良き遊び相手であり、良き姉のような存在であり、ときより天上の人だった。
――見て、三法師! 雨粒が私と一緒に舞っているみたい!
思い出すのは抜けるような空の青、たなびく桜色、祖父の軍扇の山吹、そして雨粒できらきらと輝く琥珀の瞳。遠くの囃子のようにも聞こえる慌てふためく侍女たちの声が今も耳に残っている。
後に聞いた話だか、あの雨を降らせたことこそ神子の証、龍神に愛された存在だからこそ為せる業だという。
その頃はまだそれが理解できず、ただ彼女が美しく万物に愛されている人だと思っていた。龍神の加護などではなく彼女その人の美しさが、濃い光を閉じ込めたような瞳が万物を従わせるのだと。そう、思っていた。
――三法師の目はきれいだね。兄上が言ってたよ、お前たちの目は同じ色をしているって。
ほどなくして同じ琥珀でも涙を流すことしかできなかった方の主から手を離し、彼女は燃ゆる城と共に消えた。万物を従わせると思っていた彼女も人の怨嗟でできた炎は従わせることができなかったようだ。
祖父と父の身体は見つかれど小さな姫の御身は見つからず、菩提寺には二つだけ墓が増えた。生きていてほしいと思う反面あの炎では酷な話、というのは言われずともわかった。
せめて二人の傍にささやかでも弔いをしたいと思ったのはもう少し歳を重ねてからだった。ふたつ下だった自身の数えが彼女と重なり、彼女を越え離れていくうちに心の奥に小さな社を建て、祀り、崇福寺に参った際に三人に手を合わせることが次第に大切な儀式になっていった。
動かぬ秀信をよそにメジロが一羽、木瓜の蜜を吸いにやって来た。辺りを警戒しながら花の中に顔をうずめ、そして小さく鳴いている。
叔母上が本当に生きておられるなら何故城に来てくださらないのか。やはり神子の再臨が真実であれば新たな神子と考える方が妥当だろう。
あぁ、それなら叔母上の御霊を鎮める場所をやっとご用意してさしあげることができる。形のない仮の社などではなく、崇福寺に。父上やお祖父様と共に。
仮にその龍神の神子がなお姫であったとして、御年二十も半ば、どのような暮らしをしてきたかは分かりかねるが様変わりしているに違いない。特に女人の短い夏も終わりを迎える頃合いの……春の庭が瞬きひとつの間に秋の庭になってそこに同じ庭があったと分かるだろうか。あたたかな光を浴びて柔らかな色を振りまく童女が、月夜に隠れて夜露に色を映す女人へと変わってしまっていたら気付けるだろうか。
相貌のみで織田の姫だと決めつけるようなことはないが、怨霊を鎮めるその御業も幼かった秀信は見たことがなく、彼女の身一つであの穢れなき天上の人だと結びつける自信がなかった。
炎により在るべき場所に還った、そう思っていたのかもしれない。文字通り、天上に。雨の中舞う美しい姿をそのままに心の中の社という神の棺桶に納めていたかったのかもしれない。真新しい姿をこの目におさめてしまったら社に鎮座する存在が、手を合わせてきた存在が美しい霞のように消えてしまうように思えて。いつまでも輝かしい安土の城にしがみつこうとする背は当主としてふさわしくはないことはわかっているつもりだが。
「生きておられるはずがない」
最も天下に近い御人に龍神はその御子を預けるとも聞く。足利、織田……此度の神子は豊臣か徳川か。また神子を手中に収めたとてそれを吉とみるか、凶とみるか。直接戦の盤面に影響を与えないが、龍神の神子の後ろ盾というのは大きな意味をもつだろう。織田の身の振り方を考える一要因にもなる。
自分には祖父のような才はない、頼れる父もいない。天下などついぞ思ったこともなく当主としてなすべきは揺れ動くこの時代の中で織田とこの城、この美濃を守ること。その他にはなにも望まない。神さえも与えられたとて望まない。
(神子がどこの者であろうと僕個人には関係のないこと)
迫る戦の気配の中、未だ腹を決めかねている秀信本人の元にそれが訪れるとは露知らず。
蜜を吸い終えたメジロが飛び立つと、木瓜の花は〝がく〟からぽとりと落ちた。
* * *
「あの……私たち、前に会ったことがありますか?」
「……でも、おかしいな。あなたのような愛らしいお方、一度でも見たら忘れるはずないのに」
「本当に綺麗な目をしてらっしゃる」
終