潤溽暑 ―うるおうてむしあつし―「にしても暑い!」
「七緒、はしたないからそれはやめなさい」
日課の怨霊退治を終えて帰城した七緒はうだるような暑さに耐えられず、侍女を下がらせたことをいいことに板間の冷たさをその頬で享受していた。そして寝そべる七緒だけを兄が嗜める。隣には同じように溶けた大和だっているはずなのに。
「タイツなんか履いて暑くねーの?」
「暑い……から脱ぐ」
「待って、待って、七緒待って」
仕方なしに一度部屋の奥へ引っ込み、熱を集めため込む黒い女子の鎧を剥ぎに行く。動きやすいしスカートの中身を気にしなくていいタイツはとても便利なのだが破れてしまったらどうしよう。一応、龍穴を通って家に戻った際にありったけの買い置きは持ってきたけれど有限だ。
「あれ」
戻ると誰もいない。
「叔母上、こちらにいましたか」
代わりに廊下の角を曲がってくる秀信の声が飛んできた。後ろには桶を持った侍女と手ぬぐいをもった侍女が静々と付き従っていた。
「五月殿と大和殿はどちらに……」
「さっきまではいたんだけど」
聞けば暑さにやられた男衆に冷たい井戸水を、差し入れというか、足を浸すだけでも違うのではないかと持ってきたのだと言う。
そういえば大和は三人の中で一番暑さに弱く、帰ってきたときも軽い熱中症では? と水をたくさん飲ませていた。それを秀信は見ていたのかもしれない。令和組で一番繋がりの薄い大和を秀信はなにかと気にかけてくれる節がある。
「無駄足でしたが、叔母上のお顔を見られてよかっ……」
秀信の目線の先は縁側からプラプラさせている七緒の脚に移り、言葉が止まった。おそらく彼の脳内ではこちらの常識と令和の常識を天秤にかけているのだろう。姫が太腿からつま先まで露わにしていいはずがない。
「それ、私が使うよ」
ちょうど蒸れた脚をどうにかしたかった。渡りに船とばかりに侍女たちにあれこれ指示を出す。せっかく運んできてもらってしまったのだから使わないと申し訳ないじゃないか。
秀信が立ったままこめかみに手を当てお小言の言葉に迷っているうちに、すぐ隣に置いた桶に足を浸した。
「ふぅ~」
冷たい井戸水が静かに血管を冷やし、冷えた血液が熱をおさめに体内を巡る。こうしてしばらく浸していれば安らぐ夕方を迎えられるだろう。
秀信には申し訳ないが、この気持ちよさを前に一つ言われる小言がもう一つ増えるくらいは全く持って気にならない。
「はぁぁぁ」
後ろから盛大なため息が聞こえてきたと思ったら、しばらく止まっていた甥は目も合わせずに桶の前まで来るとパッと腕を出して、
「お疲れでしょう、御御足を僕が洗って差し上げます」
お小言を言うとは思えない笑顔でそう言った。二本の手はおもむろに水紋を作り片足に触れる。
「!」
するりと甲を撫ぜ、足の裏を指が滑る。そのくすぐったさに思わず唇から声が漏れた。
城主様にこんなことをさせては、この時代では不届き者になってしまうのだろうけど、令和で考えたら本当に身近な家族なのだと実感する。家族とはいえ、この歳になって足を洗ってもらうなんて思ってもみなかったけど。
「ん……」
皮の厚い指が指の合間をひとつひとつ丁寧に擦っていく。そこを通るのは洗うときの自分の指、夏祭りで一年ぶりに出してくる下駄の鼻緒、部活疲れを癒す足指開き、それ以外になにがある?
土潤溽暑。
ちょうど夏休みを謳歌し始める頃の季節の呼び名。学校生活から解き放たれた全身の感覚がセミの声がうるさく捉え、緑が強すぎる日光を浴びて青く映える。
冷たい水に生き物全てが飢えている。
桶いっぱいの水の中で二本の足と二つの手が絡み合って、少しばかりの水音を二人に届けた。くすぐられているような感覚が、しっとりとした空気と合わさって別の何かを引き出そうとしている気がする。
閉じている指同士を広げる動作をじっと見つめているからそれがひどく時間をかけているよにも見えて何か言おうと思った。でも自分でやればなんのことはないはずの行為で、人の好意を無碍にするのもこちらが悪い人のように思えて断るのも気が引ける。
「ふぅ」
冷たい水が身体を冷やすどころか、鼓動は早くなり胸が熱い。這い上がってくる何かに自然と膝同士をこすり合わせていた。
足先が終ったのか、一息ついたと思ったのに大きな両手はそのまま伝い水より出(いで)た柔らかい肉まで上ってきた。
ぽたぽたと奏でる水音と一緒になって息を止めたり、短く吐いたり。もう飛び込みたくなるほどの冷たさはない水を、手はふくらはぎに塗りたくるようにさすり続ける。膝の方に近づくと胸元を締め付けられるような感覚がした。この手の行先が見えない。
ちらりと甥の顔に目を向けると彼は伏し目がちで、おそらく目の前の脚しか見ていない。表情は、無表情。にこやかにしてくれていた方がまだよかった。これでは心も読めない。
膝裏を人差し指が撫でて、とくんと心臓が鳴った。
「ひでの——」
「もういいでしょう」
はきはきとした声にパッと空気が軽くなり、足は音を立てて水揚げされた。擦らず優しく包み込む手ぬぐい越しの手には先ほどのようなタッチはない。手際よく水気を拭い、残されたのは熱さを濯がれすっきりした足だった。
「あ、ありがとう」
「これに懲りたら少しは恥じらいというものを覚えてください」
にっこりと、しかし強めのお小言をいただいた。水に浸したことにより七緒の足は冷えたが、反対に顔は熱を帯びている。
ああ、早くひとりにしてほしい。
夕暮れが来るにはもう少し時間がかかる、とある暑い日の、昼下がりのことだった。
終