一茎のあふひ、色にいづ その兆候はあった。
でもそれもいつからあったものなのか、自分でもわからない。
東の空が白み始め、庭に面した戸一つ分だけの淡い光が部屋の一角を明るく染める。暗がりにはまだ灯が灯り、閨から現れた甥の道筋を表しているようだった。その甥からはほんの微かにぬるい香りがする。
「おはようございます、叔母上」
朝早くに目通りを願ってやってきたが秀信は嫌な顔ひとつせずに迎えてくれた。ただ早々の身支度だったらしく、話す彼の後ろで一人の侍女が髪を梳いている。細く長い指が栗皮色の海をたゆたうように泳ぎ、通ったあとは艶が残る。話を聞きながら、まだ朝日を知らない夜を残した髪を七緒は目の端で捉えていた。
「僕としては……」
伏し目がちに手を動かすその女性の肌は白く、髪はとても黒い。唇も薄めの紅がちょんとのっただけの控えめな飾り、素直に美人のくくりに入れられる人だと思った。
侍女の中には秀信が独り身であることを心配した家臣から送り込まれた側室候補がいるらしい、そんな話も厨の噂話で小耳にはさんだことがある。もしかしたらこの女性もその一人なのかもしれない。
城主に見染められ子でも産めば将来が約束される。おとなしい見た目はしているがその胸に秘める思いは熱いものだろう。そういった野心が生まれるのもこの側室システムも、民との貧富の差が生み出すものだろうなと、一夫一妻制の現代日本の倫理観を持つ七緒は思う。
「……っ」
「も、申し訳ございません!」
「お前はまだ慣れていないだろう、気にしなくていい」
文字通り後ろ髪を引かれるように振り向いて微笑みを向ける秀信。その距離は今の自分よりも近い、そんなことを意識して胸に重いものが課せられた。
〝野に咲く菫のような方〟とある婦人が夫の側室を例えた言葉だ。正室の自分よりも強く出る庭に解き放たれたミントのような他の側室に比べて謙虚に、そして自分を敬う事を忘れず誠実な人、そんな意味で向けた言葉だったと思う。
もちろん、自分は秀信の正妻でもない。彼女も側室と決まったわけじゃない。
自分は龍神の神子で、この城の姫で……それ以前に秀信の叔母だ。今話している内容は怨霊の話だったり、戦に関する話だったり、お互いその個人でないと話せないようなコアな内容もあるのに、前で繰り広げられる長い髪の絡みに何故か目がいってしまう。
「叔母上?」
戸がもう一つ開いて、三人に朝日が差し込んだ。
甥は柔らかい表情でこちらを伺っていた。
話が終わるころには部屋はすっかり日の光で明るくなり、栗皮色はサイドの三つ編みも併せて丁寧に整えられていた。彼は自分で髪を整えることなどほとんどないのだろう。毎日誰かお付きの侍女があの髪を結う。
あれからというもの、その髪の闇を塗った姿を見る女性がいると思うと、揃いの長い髪もなんだか嫌になってきてしまった。
* * *
反射的に引き寄せた。
「秀信?」
腕の中にいたのは愛らしい叔母の姿。
「……叔母上でしたか。あまりに馨しい香りがしたので花を求める虫のように引き寄せられしまいました」
口が滑る。こんなときでも形ばかりの笑顔が向けられる自分の顔に感謝した。叔母はというと驚いたのか頬を赤くして、あどけなさが愛らしい顔に拍車をかけている。ここでやっと自然と顔が綻んだ。
「あ、これはこないだ来た行商の人から買ったんだよ。いい香りでしょ」
少し前に来た馴染みの行商か、それならと納得した。召される寝着までこちらがあてがうくらいには物欲がない叔母の、数少ない買い物にまで目を通すことはしていなかった。
(望むものは蓬莱の玉の枝でなければなんでも用意するというのに、敢えてこれを選ぶとは何の因果か)
「お似合いですよ」
逃げない花をぱっと離し、虫も蜜から一歩遠ざかる。それだけでは花のように甘い匂いは秀信を離してはくれない。これほどの甘さはもう必要ないというのに。
廊下の先で灯つけ番が油を足しているのが見えた、もうじき夜の帳が下りる。
手短に別れの挨拶をすると、秀信は足早にその場から立ち去った。
* * *
「あら? この香りは姫様ですか?」
「そうだよ?」
「ああ、だから殿は……」
後から部屋に入ってきた古参の侍女が眉を八の字にして何か考えるように頬に手を添えた。
彼女は幼いなお姫を知る数少ない人物の一人であるくらい織田家に仕えるのが長く、秀信の機微にも敏感に察知するなかなか貴重な存在だった。
「秀信様に関係する香なんですか?」
自室で寝る支度を始めた七緒を手伝う侍女歴そこそこの――先ほどの侍女を親戚のおばさんととるなら、この侍女は隣の家のお姉さんといった具合――侍女が七緒の変わりに質問する。
「いえ、そういうわけではないのよ」
「何か含みがあったじゃないですかぁ」
お姉さんは七緒の代弁をしながらテキパキと帯を締めた。七緒は他の着物を畳み始めたおばさんを好奇の目で見つめ、お姉さんの言うことに頷くことしかやることがない。
目上の者の願いとあっておばさんは言いにくそうに話し始める。
「姫様の前では申し上げにくいのですが……そちらは元服の際に殿についていた女性が好んでいた薫物でして」
お姉さんが「ああ!」と声なき声をあげた。ついでに左手手のひらに右手の拳を打ち付けたりエモートなんかして非常に納得している様子だが、七緒にはなんのことだかわからない。元服は成人式みたいなものだと聞いているけれど……。
「以前勤めてた人に聞いたことがあります! その人って結構長くしてたんですよね? 歳はちょうど今の姫様くらいで」
「そうそう。姫様のように髪が長くて、それも淡いけど綺麗な髪色で」
「聡明で」
「肌が白くて」
「薙刀使いも上手くて」
「「あれ?」」
二人の食い入るような視線が痛い。それから二人は納得したように頷き合い、無言で握手までしている。握手の文化ってこの時代からあるんだ? 父・信長公が南蛮文化を好んで取り入れていたから城内で流行していてもおかしくはないけれど。
「その人は秀信のお気に入りの侍女だったってこと?」
寝る支度も終えてその場に座り込むと二人が周囲を警戒しながら膝を突き合わせてくる。案外おばさんの方も噂話が好きなんだなとクスッとしてしまった。
「姫様、この場合のお気に入りは閨でのお気に入りです」
「姫様、元服の際に男子は女を経験し、お名前もお体も男になります。殿のその夜お相手した方が気に入って薫いていた香りと同じものを今、姫様が」
(……女を経験)
「姫様、つまりは子作りです」
「これ!」
ようやっと理解した。
顔から湯気が出そうなくらい熱くて、それを見た二人はまた握手している。令和の世の性教育はどうなってるんだ、とかなんとか聞こえてきた気がしたけれど意識的にシャットアウト。
つまり、秀信の夜のお相手を長くしていた女性の香りが自分からしていたわけだ。ああ、だから突然引き寄せられて、甥は息を呑んだのだ。掴まれた腕がじんと熱を持つ。
「でもその人は自分からは出てっちゃったんですよね?」
「自分から?」
「それが、明け方目覚めたらもういなかったんですよ。辞めるなんて誰にも伝えてなかったのに殿だけは知っていたようで、ただ〝あれは月に帰ったのかもしれない〟と」
「私の知る限り、それから特に長いお気に入りはいないから余程忘れられないんでしょうね」
胸を締め付ける枷が揺れる。あれはただ、香りを通しての視線だったのだ。自分に向けられた熱ではなかったとわかっただけなのに、どうしてこうも胸が苦しいのか。
髪を梳く侍女に、それ以上のことを彼にしてやる女性に向ける視線の熱に、ただ一人焦がされているだけの惨めな身体が軋む。この痛みに名前がつく前に消してしまおうと誓った。深手を負う前に一歩遠ざかろう。
にやにやしている二人など知らず、その晩七緒は枕を濡らして寝た。
* * *
最後の別れにお互い何を思ったろう。
寂しさに甘い香りは甚だ場違いだと思って、収めた小箱は秀信の居室に密かに置いてきた。なんでもないときに思い出して、その熱をあれに注いでください。
私はここに胸の枷をおいて令和の世に帰る。
「叔母上……また旅立たれるのですか」
「うん……」
幼かったなお姫は僕の想像を遙かに超えた心の気高さと、その身の美しさを備え戻られ、龍神の神子としてのお枠目も見事果たされた。桜吹雪の中での崇福寺、若葉萌ゆる大坂、短い間ではあったがご一緒できてよかった。
その身を憂いなく置ける場所があるというのなら何も言わずに送り出しましょう。あなたが生きておられるだけでいい。
甘やかさを振り払い洗練されたお姿をこの目に焼き付けて、僕はこの激動の乱世を生きていきます。
終