もうはなさない まともな着地ができないことは、わかりきっていた。体力の限界だったのだ。鏡の国に戻って来た時点で力は尽きて、翼を維持することができなくなった。
落下するダークの目の前に地面が迫る。すぐに大きな衝撃が体を襲った。形だけでも受け身を取ったが、ほとんど意味はなかった。
傷だらけの黒い体は跳ね上がり、ごろごろと転がって行く。その間、ダークは息を詰め、ひたすらに耐え忍んだ。
体中が痛んだが、どこがどう痛んでいるかはわからなかった。しかし、今のダークにとってはどうでもいいことだった。自身の写し元であるメタナイトとの戦いで、既に満身創痍だったからだ。
上も下もわからぬまま慣性に従い続け、気がついた時にはうつ伏せに止まっていた。
土と血と青草の匂いが鼻につく。落ちたのは、どこかの森らしい。暗くて陰気な上に、湿り気を帯びた重たい風が纏わりついて来て鬱陶しい。すぐにでも雨が降りそうだ。
突っ伏した肉体の重さを支え切れず、息をするだけで内臓が軋んだ。口の中は鉄錆びの苦さで満ちている。
そして。
ダークは視線だけを動かした。左手が見えるはずなのに、見えない。視界が欠けている。仮面をずらして肌に触れると、てのひら側の感覚はあるが、顔の側の感覚はあるのかないのか、よくわからない。目の前に手を持って来ると、グローブは赤い液体を大量に吸っていた。
左の眼が最後に見たのは、メタナイトの金色の太刀筋だ。仮面が無ければあのまま両断されていたかもしれないほどの斬撃で、互いの勝敗を決した一手でもあった。
この眼は金輪際、使い物にはならないだろう。
自分は写し元に負けて、鏡の国に逃げ帰って来たのだ。
その事実を否応なく突きつけられて、ダークは憤怒した。全てが忌々しく、憎らしい。
写し元を排除しなければならないことは、生まれる前から決まっていたのに成すことができなかった。鏡を挟んで対称となる存在であるにも関わらず、自分だけが負けた。悔しさ、不甲斐なさ、ありとあらゆるものが、ない混ぜになっている。
この感情の処理の仕方がわからない。どれほどの侮辱を受けても、そしられても、感慨を覚えることなかったこの身が、生まれて初めて荒れくるっている。
叫びだしたかった。衝動にまかせて、手あたり次第に斬りつけたかった。だが敗走して来た体は言うことを聞かない。ダークは眼を見開き、唸るような呼吸を繰り返すしかできなかった。
――『外』を侵略するにあたり、ダークマインドは早い段階から障害の排除を考えていた。
想定される障害は、ふたり。ひとりは相手の能力を模倣する、桃色の少女。もうひとりは、ダークの写し元である青い騎士。
障害になるということは、強いということ。倒すならば、同等以上の力を持つ者が必要になる。ついでに、その者が都合よく命令を聞いてくれる存在であったなら、便利なことこの上ない。
だから、ダークマインドは、メタナイトを写し悪意を誇張して、ダークメタナイトという者を創った。
要するに、ダークは生まれる前から利用用途が決まっていたのだった。
そして、今日、その時が訪れて、負けた。
ダークの方が深手を負ったものの、向こうにも同じくらいの傷を負わせている。まったく同じ剣技を使う者同士、戦いは拮抗して紙一重だったのだ。何かがひとつ違っていたら、逃げたのはメタナイトの方だった。
メタナイトはしばらくの間は傷の回復に努めるだろう。だが、遠からぬうちに、必ずディメンジョンミラーと鏡の国を探しあてるはずだ。自分の似姿に強襲されて、その出所を調べぬはずがない。どれだけ時間がかかっても、あの男はここに来る。ダークはそう確信している。
問題はダークマインドの反応だった。あいつがどのような計画を立てていたかは知らないが、メタナイトを倒し損ねたことで予定が狂ったはずだ。自分はきっとその罰を受ける。粉砕されるかもしれない。
それ以前にこの傷では飛ぶことも叶わない。このままここでくたばる方が早そうだった。
いずれにせよ、自分という存在が消えてしまうかもしれない。死が、目の前に迫っている。
そう実感したとたん、ダークの中で猛々しく暴れていた感情が、水を打ったように静まり返った。体の下の土の、冷え冷えとした寒さを強く感じる。
この体は、死ねばただの硝子片になってしまう。メタナイトを模倣していたというだけの欠片に。そして雨風にさらされ、風化して粉になり、この土との区別もつかなくなる。
それだけはあってはならない。絶対に。
指先に力をこめれば、グローブ越しに硬い土をえぐる感触が伝わってくる。自分と土との間には、はっきりとした境目がある。
体はまだ動く。感じることができる。考えることができる。
今日まで積み上げて来た、自分というなけなしの存在を、絶対に手放したくはなかった。
生まれた後、ダークは与えられた命令を淡々と実行して来た。
ダークマインドに仇なす者もそうでない者も、片端から粛清したのだ。
粛清は、雑草を引き抜くように無感動に行われた。泣いて慈悲を乞う者も、命を金で買おうとした者も、全て差はなく葬られた。その容赦のなさで鏡の国には恐怖がばらまかれ、悪意は浸透していった。
ダークが空から影を落としただけで、地上の者は震えあがった。誰もダークに寄りつかず、似たような役目を持った他の者達とも、接触する機会は少なかった。
誰もかれもがダークメタナイトの強さを恐れた。写し元に由来する、生まれ持った強さを。
そう、求められ恐れられるのはいつだって、メタナイトの部分ばかりだった。星のごとき長い人生が築き上げた戦いの経験。果てなき剣の道を究めるため、徹底的に磨き上げられた技術。メタナイトしか持っていない、特別な部分。
皆が見ているのはメタナイトだ。だがダーク自身は写しだ。本物のメタナイトではない。
であるならば、メタナイトの自我と悪意の上に生えている、この心はいったい何のためにあるのか。ここにあるのに、どうして誰も見てはくれないのか。
ダークは考えた。
純粋なダークメタナイトの経験は、メタナイトと比べるとあまりにもちっぽけだ。無いに等しい。
だから、誰もダークメタナイトの部分を求めてはくれないのかもしれない。その人だけしか持ちえない、特別なものを持っていないから。
なら、それさえ手に入れることができたら、自分も本物の自分になれるはずだ。この世でただひとりの、唯一無二の自分に。
そう気づいてからずっと、ダークは探し続けている。自分を自分にしてくれるものを。メタナイトも他の誰も持っていない、一等特別なものを。
それまでは絶対に割れることはできない。はいつくばってでも、泥水をすすってでも、生き延びなければならない。
それに、メタナイトに無いものを持っている自分になれたなら、きっと今度は負けないはずだ。
ダークは顔をあげ、血まみれの手足に力をこめた。
痛みは絶えず全身を走っているが、もう慣れてしまった。ただ一律に痛いだけになっている。これが幸いなことかどうかはわからない。感覚が麻痺して鈍くなり、正常から遠ざかっているともとれるからだ。
とにかく、まずは住処に帰り、手当をする必要がある。ダークマインドへの報告も、申し開きもその後だ。
起き上がろうとする。が、重力に勝てずにその場でもがくしかできなかった。無様なことが腹立たしい。
無意味に土をひっかく行為ばかりしていると、ふいに気配と視線を感じた。獣ではなく、ひとのものだ。
ダークは注意深く周囲に気を配った。足音が聞こえる。隠す気のない、軽い足音だ。藪をかきわけ、草を踏みしめてこっちに向かっている。
この国の住人は、ひとの悪意というゴミ以下のものでできている。個人差はあれども利己主義が当たり前で、襲われたり奪われたりは日常茶飯事だ。
そうでなくとも、ダークマインドの小間使いなどしていれば、山ほど恨みを買っている。この命を狙う輩は少なくない。
音のする方を見据えて、ダークはじっと待った。口だけなら思うとおりに動く。相手の行動如何によっては、喉笛を嚙み切るくらいはするつもりだった。
足音の者は、真正面から現れた。
灰色をした、小柄で丸い体。体中が薄汚く汚れている。
ダークは息を飲んだ。この者を、知っている。
侵略のもうひとつの障害、桃色の小娘の反転だ。
自分と同じく、主要な戦力になるべく生み出された者。だが、本体の悪意があまりにも小さかったために、赤ん坊同然の状態で生まれて来た役立たず。誕生と同時に捨てられたと聞いていたが、まさか五体満足で生きていたとは思わなかった。
ひどく驚きながらも、ダークは灰色玉への警戒を怠らなかった。視線をそらさず、相手の出方をうかがう。
だが、灰色玉は呆けた顔で立ち尽くすばかりで、何もしてこなかった。
重傷で倒れているダークを見ても驚きもせず、何があったのかと尋ねることもしない。桃色の少女の記憶があるならばダークの出自もわかりそうなものなのに、何の反応も示さない。
ダークは困惑した。灰色玉からは、感情や思考といったものが感じられない。まるで伽藍堂だ。
赤ん坊だから、持っている記憶の使い方もわからないまま、漫然と生きて来たのだろうか。この状態でどうやって生き延びられたのか、本当に不思議でならない。
こいつは取るに足らない相手だ、とダークは判断した。
ここから立ち去ることに意識を戻す。まだ立ち上がるだけの力はないと諦めて、結局、腹ばいのまま、ずって移動することにした。
雨が降る前に、近くの木の下にたどり着きたい。天気が回復するまで休みながら待ち、無理やりにでも飛んで帰る。それから。
急に、思考を遮るかのように、灰色玉が近寄ってきた。よりによって体の左側に手を伸ばして来る。
隙だらけで加害の意思は感じられない。かといって、明確な目的もわからなかった。妨害したいのだろうか。
「邪魔だ」
腹立たしさを露わにしながら、灰色玉の体を押して牽制する。
簡単な動作をひとつするだけで、息が苦しくなった。無駄なことに体力を使いたくはないというのに。
強い力ではなかったが、灰色玉はしりもちをついた。触れられた場所をじっと見ている。血糊が体に付着していた。
血に触れたことで、なにがしかの恐れを成したのかもしれない。灰色玉は回れ右をしてどこかに去って行った。
ダークは気にも留めず、移動することだけに専念した。わずかながらでも確実に、手近な木陰を目指す。
夜ではないのに、暗さが増している。雲が厚くなっているのだと思いたい。体が重く、視界全体がぐらつき始めているのを認めたくはなかった。早くしなければ。
焦っても体は中々前に進まない。それがまた、焦りを生じさせる。
程なくして、先ほどとまったく同じ足音がした。
灰色玉が戻ってきたのだ。ぽてぽてと歩いて、両手を差し出して来た。ひなびかけた林檎が載っている。
こいつはまた意味不明な行動をしている。ダークは一瞥しただけで無視を決め込み、すぐに前進を再開した。
すると、なぜか灰色玉も同じ姿勢のままついて来た。おまけに、腹を鳴らしている。
あまりの呑気さに苛立ちが募る。腹が減ったのならば、持っているものを食えばいい。そして、どこへなりとも消えればいいのに。
だが、ダークの視界からは、一向に林檎が消えなかった。丸い手は、辛抱強く捧げ持っている。決して自分で手をつけようとはしなかった。
ダークはまたも困惑した。
まさかとは思うが、こいつは、食べ物を分け与えているつもりなのだろうか。だが理由がまったくわからない。役に立たない施しを押しつけられても、迷惑でしかない。
灰色玉は延々とついてくる。また押し倒そうかと思ったが、進路に立ちはだかる真似はしなかったし、体力を温存したかったのでやめておいた。
懸命に体を動かしたが、次第に息が切れ始めた。視界もかすみ、どんどん暗くなる。
こんなところで終わりを迎えたくはない。それなのに。
遠くで雷鳴が鳴った。水滴が体にあたったのがわかる。
それを最後に、ダークの意識は途絶えた。
けたたましい音がして、シャドーは目を開いた。
寝ていたわけではない。ただ、じっとして、消耗しないようにしていた。
住処にしている枯れ木の洞から、ほんの少し外をうかがう。もう静かになっている。
さっきの音は何かが落ちて来たような音だった。どこから、何が落ちて来たのだろう。
自分に害があるならば、逃げなければならない。ないならば、ここにいる。決めないといけない。
見に行こう。
シャドーはゆっくりと洞から這い出た。
その拍子に、頭の上から何かがぽろりと落ちた。芋虫だ。知らない間に頭の上を這っていたようだ。
シャドーは無表情のまま、そっと虫を捕まえた。そして、近くにあるもっと大きな木の葉に移した。
芋虫が葉を食べ始めたのを見届けてから、音の聞こえた方に歩いて行った。
今日の森は静かだ。空は曇っている。もしも雨が降るのなら、寒くなるから洞に戻らないといけない。でも、雨が降れば水が飲める。
この辺りには水場がないから、いつもは遠くの小川まで行っている。途中には、大きな段差があったり強い生き物がたくさんいたりするから、あまり行くことはできない。
雨が降ると寒くなる。寒くなるけれども、お水が飲める。命の維持にはお水は必要。飲める時に飲んでおいた方がいい。
生まれて、暮らして、わかったことのひとつだ。
シャドーが生まれた所は眩しかった。神殿のような、どこか厳かな雰囲気の場所で、鏡と柱がたくさんあった。
今、目を開いたばかりなのに、神殿を知っていた。厳かな空気を吸ったことがあった。
あの子が神殿に行ったことがあるから、自分も知っていると知っていた。
自分はあの子の写し。自分の中に詰まっているものも、あの子の持ち物の写し。ここのものは全部写しで、この国の全員がそれを知っている。
知っていたけれど、特に何も思わなかった。
そして、シャドーが意識を得てからずっと、大きなものがこちらを見ていた。火みたいな橙色の目玉、黒い布。
大きなものから、名前を聞かれた。
知っている。シャドーカービィ。自分はそういうもの。
ぺたんと座り込んだまま、シャドーは大きいものを見上げていた。
それ以外、何もしなかった。何かをする理由も、しない理由もなかったから。返事もしなかった。
シャドーも、大きいものも、微動だにせず、世界が完全に止まっていたようだった。
しばらくして、役に立たない、と言われた。大きいものはどこかに行ってしまった。それきり帰ってこなかった。
シャドーはずっとそこに座っていた。どれだけ時間が経ったかわからない。やがて、体が栄養を必要とし始めたので、歩き出した。
それからシャドーは、生き物としての本能にのみ従って動いた。要するに、生きる、という行為だけを淡々と行った。
食べ物を探して、安全な場所で眠る。その繰り返し。
最初は、ひとがたくさんいる所にいた。人気のない裏道や、建物の影や、公園の遊具を転々とした。誰かが捨てた食べ物を安定して手に入れることができた。
でも、争いごとや怒鳴る声が多かった。何もしなくても、危ない目にあうことがあった。安全に生きるのは大変そうだったから、違う場所に行った。
今度は、ひとがいない森の中に行った。木の実や果物を探したけれども、あんまりたくさんは手に入らなかった。実りのいい木は強い生き物の縄張りになっていることがほとんどで、近づけなかった。
でも、強い生き物は、こちらが何もしなければ、向こうも何もしなかった。だから、シャドーはここにいることにした。
一日の大半はじっとして動かず、眠り、何も考えずに座っていた。目的はなく、ひたすら、生命の維持に努めた。
食べ物が少ない所で生きるのは大変で、森では痩せた小さい生き物をよく見た。そんな時、シャドーは自分の食べ物をちょっとだけ分けた。お腹がすくと、命が消えてしまう。それはだめだと思ったから。
助けた分だけ自分の分が減る。減った分を補うことは大変だ。わかっていたけれども、そうせずにはいられなかった。
できる限りをしたけれど、死んでしまう命も少なくなかった。動きの鈍い蝶々を水のある所まで連れて行ったものの、結局動かなくなってしまった。羽の折れた鳥に添え木をして、水や食べ物を与えたけれども、だめだった。
助からない命だと途中でわかっても、シャドーはなるべく自分の分を分けてあげた。終わりが来るまでの時間を、少しでも延ばしてあげたかったから。それに、終わりの時だけでも、ひもじさや辛さがない方がいいから。
それが、初めてシャドーに生じたひとらしい意思だった。
シャドーは背よりも高い草をかきわけて進み、やっと音のした場所についた。ひとが倒れていた。
知っているひとだった。あの子の記憶の中にある、青いひと。でも、倒れているひとは黒いから、きっと自分と同じく写しだ。
あの子が青いひとを見る時、たくさん感情も生まれていた。そういう記憶がある。でもシャドーにはよくわからなかった。
黒いひとは、血にまみれていた。傷がたくさんあるのだ。動いてこっちをみたから、まだ生きてはいる。でも、とてもひどい傷だ。死んでしまうかもしれない。
黒いひとははいつくばったまま、動こうとしている。必死だ。生きようとする意志を強く感じた。
けど、それ以外にも、このひとは何かを必要としているみたいだった。命が消えそうだから、命を欲する。生き物だからそれは当たり前だけれども、それと同じくらい、ひょっとすると命以上に、もっと強く強く、欲しいものがあるみたいだった。
動いたせいで、黒いひとの傷口から血が出て来た。傷がある時に動くと、たくさん血が出てしまう。それに、腕の大きく裂けた部分が地面に触れているのもだめだ。土の中の悪いものが、体に入ってしまう。
血を止めないといけない。手がいる。だからシャドーは手を伸ばした。
すると、すぐに突き飛ばされて転んだ。お腹に黒いひとの血がついた。ぬるぬるとしていて、とても、よくない感じがする。
このままだと、このひとは死んでしまう。それはだめ。どうしたらいいだろう。助けたいのに、どうして拒否するのだろう。
今までシャドーが世話した小さい生き物は、すぐに受け取った。最初は驚いたり怖がったりしたけれど、自分が欲しいものだとわかるとおとなしくなった。
このひとは違う。体の全部で欲しい欲しいと訴えているのに、シャドーの手助けはいらないとも言っている。こんなことは初めてだった。
シャドーは考えた。このひとが求めているものは何か。生まれてから一番真剣に考えた。
命と同じくらい欲しいものって、何だろう。シャドーにはわからない。まず命がないと何にもできないのに、それよりも大事なものなんてあるのだろうか。どうしても、思い浮かべることができなかった。
死んでしまったら、欲しいものも探しようがない。やっぱり、まずは体がちゃんと生きていないといけない。
自分の手がいらないというなら、このひと自身で傷を治せるようにならないといけない。そのためには、体の内側にたくさんのエネルギーが要る。エネルギーを得るには食べないといけない。
このひとには食べるものがいる。
シャドーはすぐに踵を返した。脇目も振らず、寝起きしている木の洞に戻る。
洞の奥の隅っこに、枯れ葉で隠していたものがある。ずっととっておいた林檎だ。最後のひとつであるそれを、両手でしっかりと持った。
果物がなる時期は終わっている。これがなくなったら、自分の分がない。でも、死んでしまいそうなひとの方が先だ。
戻ると、あのひとはカタツムリみたいな速さで動いていた。とても一生懸命なのにちっとも進んでいない。
シャドーは林檎を差し出した。
途端に、黒い人はこちらを睨んだ。
これは乱暴なひとの行動だ。ひとがたくさんいた所で経験したからわかる。自分の命が危ない、逃げるべきだ。
でも、シャドーは逃げなかった。
林檎を食べて欲しくて、黒いひとの目の前で持って、待った。
待っている間、自分のお腹が食べ物を欲しいと言い始めた。でも今はあげられない。林檎はこの人にあげたものだから。
食べてくれるまで、ずっとこうしてついて行く。
そう思っていたのに、黒いひとは意識を失ってしまった。
自分の意思とは関係なく目を閉じてしまうのは、死の一歩手前の状態だ。とても危ない。
雨も降り始め、すぐに土砂降りになった。森の葉や幹に雨があたって、一気に騒がしくなる。
シャドーは林檎を置いて黒いひとに近づいた。地面が雨と血でぬかるんでいる。黒いひとの肌に触れると、とても冷たかった。雨のせいで体温が、血が、命がどんどん流れて行ってしまう。
このひとを移動させてあげたいけど、見るからに重そうできっと自分では運ぶことはできない。
シャドー自身も寒さを感じ始めていた。本当なら、雨宿りをしないといけない。
どうしよう。
このひとは、何かを強く欲していた。シャドーが今まで会った生き物の中で、最も強い気持ちだった。なのに、このままでは、手に入れられないまま、ここで冷たくなってしまう。満たされなくて辛いまま、最後が来てしまう。
せめて、このひとが望んでいるものをあげられないだろうか。自分がもっているものの中に、ないだろうか。
そう思ってまた真剣に考えたけれども、やっぱりシャドーは何も持っていなかった。
役に立たない、と大きいものに言われたことを思い出した。今、意味を理解した。無力感が生まれた。
このままではいけない。命がこんな終わり方をするのはかわいそうだ。
シャドーはもっと考えた。
考えて、気がついた。自分はもうひとつだけ、持っているものがある。
自分だ。欲しいものもない、やりたいこともない、役にも立たない元気な自分。
このひとの欲しいものは、このひとにしかわからない。このひとしか探せない。だから、今は、元気な自分をあげてこのひとを助ける。
それが一番いいと思った。
役に立たない自分の命でもそれぐらいはできる。
シャドーは決めた。
あげよう、自分を。持っているもの全部を使って、このひとを助けよう。
生き物としての本能がだめだよと言ったけど、もう決めたのだ。自分がそうしたいから、することにした。
シャドーは黒いひとの体の左側に立った。肌が出ている所にできる限り体をくっつけて抱きしめる。こうすれば温かくなる。雨にあたる部分も減らせる。本当は血も止めてあげたいけど、傷がたくさんありすぎて、全部を押さえることはできない。
ただ、顔の傷が深いのがどうしても気になったので、頑張って手を伸ばして、雨が当たりにくいようにした。
今できるのはこれだけだ。自分は体も手も小さくて、黒いひとの全部を覆ってあげられない。
雨粒は大きく、痛いくらいの勢いで降り注いで来る。
体が震えはじめても、疲れても、シャドーはその場にいた。寒いのと痺れで手の感覚がよくわからなくなっても、降ろさなかった。
雨はシャドーの命も押し流し始めていた。ずっと遠くにあったシャドーの終わりが、少しずつ近づいている。わかっていても、シャドーは黒いひとを温めた。
自分がなくなってしまうまで、こうすると決めたから。
礫のようなものに体を打たれている。周囲がけたたましい音で満ちている。
ダークは、はっと覚醒した。
気絶していた。一瞬だったのか、それとも長い時間なのか。とにかく、気を失っていたという事実にぞっとした。そのまま目覚めなかった可能性もあったのだ。
慌てて今の状況を確認する。
礫と騒音の正体は、豪雨と言っていいほどの雨だった。気絶する前に比べて恐ろしいほどに寒く、吐く息が白んでいる。
それと、体の表面が痛みと寒さ以外の感覚を伝えていた。体の左側。そこだけが奇妙に温かい。何かがいる。
得体の知れないものが死角に侵入している。
ダークは反射的に体をよじり、右目の視界に入れようとした。同時に、そこにいる何かを左の腕で引きはがそうと試みる。が、それは強く体にしがみついてきて、離れなかった。
狭い視界でとらえたのは、丸々とした手と体だった。林檎を寄越してきた灰色玉だ。
灰色玉はぶるぶる震えながら、自分の側面にくっついている。触れているところは柔らかく、妙なくらい温かい。そして、顔の傷をかばうかのように、めいっぱい手を伸ばしている。
ダークは再び心底から困惑した。
こいつは自分を雨から庇っているように見える。まさか、助けようという気なのか。
身を挺して助けることで、恩を売るつもりだろうか。相変わらずぼんやり顔のままだが、こいつも悪意からできていることに違いはない。
だが、傍から見た自分の傷は相当なものだ。生かすのはかなりの難事だとすぐにわかる。それに、この寒さは灰色玉にとっても相当堪えるだろう。こいつも確実に体を壊す。自分自身の体を使ってまで助けるなど、割にあわない。
こいつの行動はやはり意味不明だ、とダークは断じた。これ以上、つきあっている暇はない。
「何をしている。失せろ」
灰色玉は頑として動かなかった。
ダークは丸い背を鷲掴みにした。今度はもっとは強い力を込める。弾力のある体に窪みが残るほどつかみ、勢いをつけてひっぺがして投げた。反動で、ダーク自身の体も仰向けに転がってしまう。
飛沫があがる音が聞こえる。灰色玉は水たまりに放り出されたらしい。
息をしようとして、ダークは激しくむせた。また無駄なことをさせた灰色玉が恨めしい。
すると、灰色玉が泥水を跳ね上げながら、ダークに走り寄って来た。顔を覗き込みせき込むダークを懸命にさする。震えて挙動もおぼつかないのに、小さな手をずっと動かし続けている。
ダークは、なぜか楽になるのが早まった気がした。他人の温度が加わっただけなのに、ひどく奇妙な心地になった。
こんな風に介抱されたのは初めてだった。命令を遂行する過程で怪我をしたとしても、事務的に処置をされるだけで、労わってくれる者も心配してくれる者もいなかった。
呼吸が安定したのを見計らって、灰色玉はまた肌をくっつけてきた。本当に不思議なことに、触れた場所がたちまち温かくなる。
あれだけ乱暴に扱っても、こいつは戻って来た。
ダークはいよいよ理解するしかなかった。この灰色玉は、本当に自分を助けようとしているらしい。
これのちっぽけな頭の中は空っぽではないようだ。少なくとも、優しさというものがある。この国ではめったにお目にかかれない、貴重なものだ。
こいつの献身的な優しさは、いったいどこからやって来るのだろう。偶然出会っただけの相手にこれだけ尽くすなど、普通考えられない。
「どうしてこんなことをする」
答えない。灰色玉は震えながら、こちらを見た。
「お前も死ぬぞ」
やはり何も言わない。喋り方もわからないのかもしれない。
返事ができない代わりなのか、灰色玉は無遠慮に額を撫でて来た。
心の奥底がむずがゆくなる。ただ、皮膚同士が接触しているだけなのに。生まれて初めて経験した感覚だ。
自分ではない者の記憶で、即座にこれは感情だとわかった。
他者から慈しまれるような扱いを受けて、好ましく、嬉しく感じている――
ダークは狼狽した。
灰色玉は頭を単調に撫でているだけだ。意味ある行為に思えない。
それに、自分は今、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。危機感を差し置いて喜びの感情が生まれるなど、ありえないはずだ。
灰色玉から優しさを向けられているとわかっただけで、こんな感情を抱いてしまう自分自身が気持ち悪かった。こんな気持ちにさせた灰色玉を突き放したくなった。
しかし、温かいのがどうしても心地よくて、離したくなかった。
灰色玉の瞳の中に自分が映っている。片目の潰れた惨めな姿。自分でも目をそらしたくなるほどの醜態だ。
灰色玉はそんなこと欠片も思っていなさそうな顔をして、真っすぐ見下ろしてくる。こうなった過程も先のことも関係なく、今、目の前の自分だけを見て助けようとしている。
死にそうでも、見捨てないでくれた。心配して、優しくしてくれた。体全部で温めてくれた。
言いようもない感情で、ダークの胸はしめつけられた。これは、灰色玉を好ましく思っている証だと、認めざるを得なかった。
灰色玉と触れあっている箇所から、温かさが血のように体中を巡って行く。温度だけでなく、見えない活力も一緒に注がれているようだ。こいつの写し元にそんな能力はないから、気のせいのはずなのに。
ずっとこうして、こいつに抱かれていたいと思ってしまう。
だが、この温かさは無尽蔵に与えられるようなものではないはずだ。
灰色玉の吐く息は細く白い。全身はずっと震え続けている。
「お前は、本当にこれでいいのか」
灰色玉はその場から動かない。いつまでやるつもりなのか。雨が上がるまでか。自分がどこかにいくまでか。あるいは、こいつ自身の命が尽きるまでか。
いずれにしても、嫌だと思った。もうこの温かさを手放したくなかった。自分も誰かから、いや、この灰色玉から大切にされている存在だと、思っていたくなった。
こいつにとってはたまたまここに落ち、傷ついていたから助けた存在であっても、自分にとっては生まれて初めて与えられた優しさと温もりだ。こんなことをしてくれる者は他にいない。今なくしたら、二度と手に入らないかもしれない。
なんでもなかった灰色玉が、たった一瞬で特別になってしまった。どうしようもなく、これの全部が欲しくてたまらない。
だが、灰色玉が特別なことをどうやって伝えたらいいだろう。自分の、ダークメタナイト自身の意思として伝えるにはどうしたらいい。
刹那と言ってもいいほど短い自分の人生を見つめ直し、ダークは自分が知っている唯一の方法をとった。
腕を灰色玉の背に回す。額を撫でられた時の真似をして同じように撫でた。
灰色玉はゆっくりと瞬きした。ダークの体に頬をすりよせ、今までよりも強く抱きしめ返す。
ダークの中に言いようもないものが生まれた。
灰色玉が、自分に応じた。感情を与え返ってくることの、なんと愛おしいことか。与えられるのと同じくらいの温かさが、体に満ちていく。
こいつは自分に優しさと温かさを差し出した。自分も同じだけ与えたい。自分だけが大切にして愛したい。灰色玉からも同じことをされたい。
灰色玉を抱いた腕に力をこめる。絶対になくさないように。
しっかりと抱いて身を起こす。今までとは比にならないほどの激痛が走る。ダークは苦悶の表情を浮かべたが、歯を食いしばって両足で立ち上がった。
灰色玉は抱きついてはいるが、その力は弱い。自分を温めてくれた時は、とてもしっかりした力だと思えたのに。
これを失うわけにはいかない。この世でただひとつだけの、自分のもの。
守らなければ。
翼を広げる。血がしたたる。それでもおかまいなしに、ダークは地を蹴った。
自然と力が湧いていた。まったく知らない種類の力で、どこから来るものかわからなかった。だが、とにかくそれを使ってはばたき、飛んだ。
灰色玉はされるがまま腕の中で抱かれている。それでいい。静かにここにいればいい。
ぼろぼろの体でも、これのためならいくらでも飛べる気がした。これを守るためなら、すぐにでも剣を取れる気がした。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
腕の中の小さな丸に雨があたらないようかき抱いて、ひたすらに空を駆けた。