新しい名前 昼と夜の境にいる。黒い男のすらりとしたシルエット。闇を纏って着飾って擬態するような、ニセモノに呼ばれた名前を俺は闇雲に拒絶する。
「それは冤罪で死刑になってこの世から消えた人間の名前だ馬ー鹿」
路地裏。室外機の稼働音。ぬるく湿った風が吹きつける。首を振る。不快さが纏わりついている。西日を背にする男は肩をすくめてみせる。表情はわからなくても仕草だけで的確に俺を苛立たせる。
「それでも今ここにいるお前は雫斗真だろう」
朝比奈ルシカはきっと笑っている。そのまま後ろを向いて明るい方へ帰ってゆけばいいのにと思って睨みつける。ずっとそうしている。ずっとそう思っている。昼間の世界に生まれたんなら元いた場所で、全部忘れて薄っぺらい平穏を享受して大人しくしていればよかったのに。そう言ってやったことだってある。
「もし、全部忘れることができたら」
『仕事』で潜入した先、誰ともしれない奴らの小規模な宴会の跡、その時俺たちの間にあったのはスーパーやコンビニで買えるビールとチューハイの抜け殻のような空き缶で、ta-taで出てくるような小奇麗なグラスじゃなかったから悪戯にぐしゃりと踏み潰してみたりして、安酒と微かな血の匂いと一緒に俺はその影の声を聞いたのだ。
「そんな自分は殺したくなるだろ」
ああ、ああ、何が一番不愉快かって、暗い炎を覗かせる瞳が俺に共感を示すことだ。知らない、うるさい、お前と俺は違う、一緒にすんな、馬鹿じゃないのか、本当に。
喪失感で連帯するなんて死んでも御免だ。てめえはそうじゃねえってのか。
※
新しく契約して購入したスマートフォンで検索して開いた動画を、横から覗き込む長髪が遮った。京極は短く鼻で笑って姿勢を戻してハンドルを握り直し、信号が青に変わり車が動き出す。
「別に好きにすりゃいいけど返事くらいできるようにしとけよ」
「はあ?」
「●●●●」
新しい名前。与えられたばかりの馴染まない音。眉を寄せる。吐き捨てる。
「やっぱり甘いんじゃないのかお前ら」
「何が」
「雫斗真は死んだんだからその顔変えろ、くらいのこと言ったっていいんじゃねーの」
「だから言ってるだろ、好きにしろって」
盗み見た横顔は、少なくとも口元だけは楽しそうに歪んでいた。うんざりしてシートに背を沈める俺の掌の中で水族館のアシカがぱちぱちとヒレで拍手をする。真っ青なプール。子どもの歓声。真っ黒い大きな瞳が瞬くのを見る。考える。この顔を捨てたら朝比奈ルシカは雫斗真を見失うだろうか。
「……背を伸ばす整形手術ってあるんだっけ」
「気にしてたのかよ」
耳障りな声量で京極哲太は笑った。
「ああ、そうか、ルシカはお前よりでかいもんな」