リベルタスの孤児達Ⅲ だったもの???の独白
ずっと檻の中に居た。
何度、其処で夏を迎えたのかも分からない。
気付けば籠の中の住人で、外側の人間達が僕を見ていた。その瞳に人の暖かさなど無く、只管に凍っていた。
怖かった。恐ろしかった。死にたかった。生きたかった。
そうして何時しか、鉄の檻を見飽きた僕は、扉の向こうに引き篭った。
其処は誰も入れない、神秘の場所。
暖かくも寒くも無い、白だけが広がっている空間。
でも、其処には一つだけ、自分とは違う存在が住み着いていた。
僕は再び恐れた。
そんな僕を知ってか知らずか、扉は外側から鍵が掛けられた。
重く、重厚な扉は押しても引いても開かなくて、僕は途方に暮れるしか無かった。
逃げられない。逃げ出せない。誰も助けてくれない。
此処で僕は彼に食い殺されるのだと、誰もが確信した。
僕はふっと何かが切れる感覚に陥ると、全てが白に還った。それは絶望と、諦念の世界だった。
嗚呼、もういいや。
誰かの生きる糧になれるのなら。例えそれが獣だとしても、少しは誰かの役に立てるなら──、
こんな安い命、喜んで投げ打とう。
《キャプチャー:空蝉と共に》
せせらぐ蒼い川。
それは夏中に咲く緑地。美しい魚達が踊り、角張った石達が優しくなれる場所。
水の発する空気は格別に冷たく、火照った世の人々を惹き付ける。その魅惑には何人も抗えない。それは包帯の少年にも例外ではなく、その足は川へ向かって森の土を踏んでいた。
屋敷を囲う木々の群れは眩い緑を灯している。少し前迄は灰色雲に埋もれていたと言うのに、数日前からは自分が主役だと言わんばかりに輝き始めていた。
美しい翠を誇る樹木達は、少々雨漏りする日傘になってくれている。
「でも、あっつい……」
季節はもう、澁澤と太宰が待ち望んだ季節となった。今頃、市井では熟れた桃が出回っている頃で、二人の約束もこの時期に成る予定だ。
そんな最近の暑さから逃れる為に、太宰は絶賛森を進行中。
緑と緑の隙間を縫って数十分。森の茂った空気は絶たれ、透き通った川が通る涼しい空気が太宰を迎えた。
森が吐き出す空気と水が生み出す空気は格別で、日に当てられた躰を気持ち良く冷やしてくれる。
肩に掛けている鞄が濡れないように少し遠くに避難させ、ストンッと川辺に腰を下ろす。靴を脱いで足首まで晒し、そっと川へと入れると、太宰の待ち望んだ瞬間が訪れる。
「冷た〜い!」
大自然に冷やされた水が足を擽り、熱を攫っていく。
時折通る魚を見れば、水に流されたり逆らったりと楽しそうに泳いでいる。そんな彼らを、太宰は羨望の目で見つめた。
浮いていた汗が姿を眩ませると、突如として太宰は立ち上がった。そのまま足を浮かせながら川の中心へと水を切り裂くと、何の脈絡も無く、その小さな躰を手放した。
肌が水を打ち付ける音と共に、光を反射しながら水飛沫が上がる。
彼に生き残ろうとする意思が無い以上、このまま流されていくだけで命の灯火は呆気無く消える。
(気持ち好い。このまま……)
死ねたら、と心に落とすと、息を全て吐き出す。淡い泡達が踊り狂い、天使の迎えを彷彿とさせる。
水面を乱反射する光に向かって、包帯の巻かれた腕が伸ばされると、浮遊感を楽しむ様にチラチラと光を掠め取る。それは、助けを呼ぶ物では決して無い。
(早く……殺して)
消え始めた意識に微笑を零し、生の余韻に浸るように瞳を閉じる。
すると、大きな音を伴って、太宰の躰が引き上げられた。
投げ捨てられたように、川辺の石に腰を突く。突然与えられる大量の酸素に肺が驚き、虚ろとしていた脳を叩く咳が止まらなくなった。勢いのままに飲み込んだ水が喉を痛め、表情に不機嫌さが如実に出てしまう。
「だ、誰!?」
「入水を邪魔したのは」という一言は咳に飲み込まれた。
荒い呼吸をしながら眼前を見ても誰も居らず、続けて右左と見るも人の影は無い。落ち着き始めた肺を労わり、己を引き上げた張本人が居るであろう後ろを振り返る。
「……え」
そこに居たのは、大きな白い毛玉。それからは大きな脚が四本生えて、鋭い爪を備えている。大きな口からは、如何なる物でも貫通させることの出来る鋭利な牙が見え隠れする。筋肉質な強靭な図体が太陽を遮り、怪物同然の空気を纏っている。
「虎……!?」
虎に対面すれば誰もが「食い殺される」と恐怖し、逃げ惑うか硬直する。太宰も例に倣って、大きなその瞳を更に大きくさせた。驚きと、期待の目だった。
「グルル……」
白虎は細く唸ると、そのまま背を向けて歩き出した。その道筋に、赤い雫が滴る。
それに気付いた太宰はハッとし、恐怖を投げ捨てて虎を追い掛けた。
「待って!君、怪我してる……」
虎は歩を止め、近付いてくる太宰をその碧眼で見遣る。その瞳に殺意は無く、太宰は安心してその背に触れた。
土や葉で汚れた白い毛に、細い指が通る。皮膚に触れて手を滑らせると、ある一点を掠めた時に虎が苦しく声を漏らした。
「此処かい?此方へおいで」
支えるようにして虎を川へ誘い、綺麗な水を掬って傷を洗う。赤黒い血が川に流れ、糸になって消えていく。その間も虎は大人しく、されるが儘にその体躯を預けていた。
鞄から包帯を取り出して大きな躰に巻き付けると、未使用だった包帯は一瞬にして無くなった。
「こんな事しか出来なくてごめんね」
森の中では充分な薬も施設も無い為、あまり多くの事は出来ない。
それでも、虎は感謝するように頭を下げた。
「君、僕の言葉が分かるよね?」
「ッ!?」
「あはは!矢ッ張りそうだ」
露骨に驚いた虎に、太宰は嬉しそうに笑った。
虎は慌てたように忙しなく動き、如何しようかと思案している。
そんな姿を見た太宰は、期待と希望を乗せた声で「ねぇ」と呼び掛けた。
「うちにおいでよ」
虎は固まった。
縦横無尽に揺れていた毛が突如として止まり、柔らかい風がそろりと撫でる。それはまるで天使の手。虎を誘う(いざなう)天の導き。
「帰る場所が無いならおいで。独りぼっちならおいで」
伸ばされた小さな手は、何処となく儚い哀愁を感じさせる。何処までも空っぽな、寂しがり屋の手。
風が感化されて彼の髪を揺らす様は、とても人間には見えない。誰もが崇め讃えるような、そんな神秘的な空気が流れる。
碧眼が太宰を映し出す。
「ふふっ、擽ったい」
手を取る代わりに擦り寄せた頬は太宰の手を擽り、微笑むような笑い声を奏でた。
地面に置いていた鞄を拾い、「却説、行こうか」と太宰が声を掛けた瞬間、その体が宙へ浮いた。
「わっ!」
器用にも、虎は太宰の服を咥えて自身の背中に乗せた。
随分と高くなった目線に感嘆の声を漏らす。鷲色の瞳は太陽に照らされ、大きな光を宿しだす。
「向こうの方角にれっつごー!」
気分は勇敢な獣使い。
こうして一匹と一人は、拠点に戻る勇者のように森を進み出した。
*****
自宅である荘厳美麗な屋敷の前では、二人の兄が門前で弟の帰りを待っていた。
「兄さーん!」
「おかえりな、さ…………えっと?」
「説明が欲しいな、太宰君」
虎の背に乗って帰ってきた弟の姿に、冷静沈着な彼らも驚かずにはいられない。
二人の目の前で止まった虎の背中から軽々と降り立った太宰に、詳しく説明するように促す。
太宰は森での出来事を全て伝えた。
終始、二人の表情が硬くなる場面もあったものの、話終える頃にはどうにか噛み砕いて飲み込めた様子だった。
「飼ってもいい?」
可愛い弟の願いに、二人は承諾為兼ねた。
元来、虎というものは猛獣で、何時人を襲うか定かでは無い。況してや、森で出会った何の血統も無い獣が安全な筈が無いのだ。
それらを何とか許した上でも、二人にはある大切な理由があった。
「僕達の箱庭を踏み荒らされては困りますしねぇ……」
「虎の敷物では駄目かい?」
「駄目!」
澁澤の言葉に、虎はビクリと怯えて太宰の背に隠れてしまった。その異様な姿に二人が気づかない訳がなく、鋭い視線が浴びせられる。
「人の言葉が分かるのですね?」
「何やら訳ありのようだな」
二人の言葉が更に虎を追い詰め、隠れきれていない背の震えが一段と大きくなる。太宰はそんな虎の頭を撫で、庇うように腕を広げた。
「殺さないで!」
必死とも取れる程大きな声が二人の耳を突き抜ける。
兄達二人は驚愕の目で互いを見た後、クスッと笑って微笑んだ。
「殺しませんよ」
「仕方ない。歓迎しよう」
「本当!?やったー!」
兄の了承を得られた事で、太宰は有頂天になって飛び跳ねた。
やっと安心した虎が背から出ると、太宰は飛び付く勢いで抱き締め、乱暴に頭を撫でた。
「良かったね!……えっと、君の名前は何かな?」
「そう言えば、自己紹介が未だでしたね」
虎はそう言われると、声が出せない故に伝えられない事に気付き、オドオドと慌てる。
すると、太宰はしゃがんで地をなぞり始めた。
『文字は書ける?』
虎は目から鱗が落ちると言った様子で、驚きながらも大きく頷いた。
「良かった」
鋭い爪で地をなぞるも、慣れない為か、あまり綺麗とは言えない字が描かれていく。
拙くとも一生懸命に書かれた字を読み、太宰の表情がパッと明るくなっていく。
「なーかーじーま……あつし?中島敦君か!良い名前だ」
反芻するように読まれた名前に、敦は少しこそばゆい感覚を得るも、太宰の優しい微笑みと抱擁がそれを包み込んだ。
新しく出来た弟とその兄を眺める兄達の心境はとても穏やかなもので、優しい瞳が二人を撫でる。
擽ったい様な時が流れ、夏を迎えたばかりの箱庭は、蝉の鳴き声と友に少しだけ賑やかになった。