白く輝く湖のほとりで、私は彼と出会った。
彼は大層痩せていて、他人の憂慮を手招くような男だった。しかし、それと同時に、彫刻や絵画の様な芸術的美貌をも有する美男子だった。更に言えば、彼は人を寄せ付けない魅惑的な奇妙さも持ち合わせていたので、町の人々は彼を「ミステリアスな殿方」と謳って頬を赤くしていた。彼奴の何処に惹かれるのやら、見当もつかない。
でもまぁ、面白い奴ではある。
これは私と彼の一寸した御噺。
さあ、貴方も良き旅を。
チャプタ:
冬の朝は静かで良い。単純な作業も小難しい考え事も捗る。寒いのが難点だが、それも慣れれば良いだけ。住めば都、それは季節も同じだ。
寒むさに怯えるようにして手を擦る。
今は、日課である早朝の散歩に出かけている最中。近くに良い湖があり、私のお気に入りのお散歩コースだ。
教会から少し歩いて着いた湖は糸が張ったように静かで、鳥の囀り一つ聞こえない。皆未だ寝ているのだろうか。
この湖をぐるっと一周するのは冬も夏も毎日行う事で、季節によって人が変わったように景色を変えてくれるから私を飽きさせてくれない。
今日もそうしてスタート地点に立つと、ゆっくりと歩き始める。
水の近くということもあり、凍てついた空気が肺を行き交う。そこまで痛くはない。少し軽快に腕を揺らせば気持ちの良い澄んだ空気が手を掠める。
五感全てを駆使して楽しむのが散歩のコツだ。
癖になる草の匂いも、混じり気のない空気の味も、時折奏でる葉擦れの音も、一寸屈んで触れる花の柔らかさも、視界いっぱいに広がる自然も、全て生きているみたいに感じられる。
「好きだなぁ……」
そんな朝が、私は好きだ。
「何がですか?」
一人で堪能していた、朝の麗らかな一時が終わりを告げる。
夢中になって楽しんでいたから目の前に人が居ることに気付かなかった。恥ずかしいやら何やらで私の瞳は瞬きすら忘れる。
「大丈夫ですか?」
痩せ細った男はその美しい癖の無い髪を揺らして私の目前で手を振る。その手も白く弱々しいが、私よりも遥かに大きな、男の人の手だ。
そこでハッとした私は「大丈夫です!」と、自分でも驚くくらい大きな声を投げた。叫び声が湖に響き渡ったことで、またもや血の気が引いていく。
「す、すいません!」
本音を言うなら直ぐにでも逃げ出したかったが、この変な出来事が世に放たれる方が余っ程恐ろしい事に気が付いて、恥を承知で何とか留まった。
「面白い人ですね」
男は薄い笑いを零して綺麗な笑顔を見せる。
(あれ?)
これは──、
「嘘ですよね?」
私の口から滑り落ちたそれは、男の動きをピタリと止めた。
何故こんな事を言ったのか、自分でも理解出来なかった。見ず知らずの他人とはいえ、失礼にも程がある。
直ぐさま謝ろうと男を見ると、彼は今度こそ腹を抱えて笑いだした。
「え?」
私は何が何だか分からなくなってあたふたと心配の目で男を見たけれど、彼はお構い無しにずっと笑っている。
男は「ふぅ……」と一息吐くと、スっと私を見据えた。
私が動揺したり、彼が破顔したりした所為で彼が容姿端麗である事に気付かなかったが、その風貌はまるで、長い眠りから覚めた王子様のようだった。
流石に少し見蕩れてしまって、底無しの二つの紫に囚われてしまう。
「挨拶が遅れてすみません。私はフョードル。フョードル・ドストエフスキーです」
男はそう云うと、綺麗な所作で自然に頭を下げた。
少しやりすぎではないかと思う程礼儀正しいその姿に私も釣られてぺこりと頭を下げると、少し冷静になれた。
「こちらこそすいません。私は太宰。太宰治です」
「シスターさんですか」
私の身なりを見てそう分かったのだろう。
「しかし……普通のシスターでは無いようですね」
驚いた。
私の身なりを見てシスターだと言い当てるのは誰にだって出来る。だが、「普通のシスターではない」と云われたのはこれが初めてだ。
何者なのだろうか。
「そうだけど……。君は旅人かな?それも普通で無い」
やられたからにはやり返す。復讐法は私の性分にあっているのだ。
ドストエフスキーも少しばかり驚いたようだったが、怪しく笑みを零すとゆっくりと近付いてきた。
一歩、また一歩と近付いてくる度に色男が持つ特有の甘い空気が私を包む。無味無臭の毒のようだ。
「矢張り貴方は面白い」
底を這うような声が聞こえた瞬間、ドストエフスキーの白い掌が私の視界を覆い隠した。
「なに!?」
視覚を奪われて当然驚いたけれど、ドストエフスキーの「なるほど」という値踏みするような声に苛立ちを覚え、手首を掴んで無理矢理離した。
「突然何するのさ!」
「驚かせてしまってすみません」
「ふんだ!」
私が求めているのは謝罪だけでは無いと分かっているのに彼は何も云わない。その事に怒り、呆れた。
「太宰さーん!」
少し遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきて、其方を見ると白虎の如く白い髪を揺らして走ってくる敦君が見えた。
「敦君、如何したの?」
「もう直ぐ朝の御祈りの時間なので呼びに来ました」
「もうそんな時間か。ありがとう」
「いえ、行きましょう」
「あ、ちょっと待っ……」
敦君から視線を離して振り返ると、そこに居た筈のドストエフスキーは朝霧のように消えていた。
「如何しました?」
不自然な私の行動に敦君が心配してくれるけれど、私は数秒だけ返事を戻せなかった。
「……ううん、今行く」
気を取り直して仕事をしなければ、嫌な思いをするのは自分だ。
それに、どうせまた直ぐに会えるだろう、と少し確信していた。
教会へ帰ると、森さんが凄い顔をして私を出迎えて来た。
「太宰くーん!心配したんだよぉ……」
「はいはい、すいませんすいません」
「雑ッ!!」
この中年は何気持ちの悪い演技を続けているのだろうか。私は少しイラッとしたけど隠さずに森さんに刺した。
敦君は先に中に入っているらしく、私も中へ入ろうと教会の扉を手を掛けると森さんにその手を強く掴まれた。爪が皮膚を刺して鋭い痛みが走る。血液が掌までの道を塞がれて熱が引いていく。仕舞いには軋むような音まで聞こえてきて、私は素直に怖くなった。
「太宰君。君を地下に繋ぎ止めておく事だって出来るんだ。だが私はしたくない……分かるね?」
「ごめ、なさ……」
痛みと恐怖で視界が歪み始める。
足が震えて腰が抜けそうになったところで森さんがパッと手を離した。
急に与えられる血液に手は驚き、痺れを纏う。
「分かれば良いんだよ。さあ、行きなさい」
「はい……」
矢張りこの人は好かない。
私を拾って育ててくれた恩があるものの、この人の教育は少し歪んでいる気がする。それでも、それを否定出来る程の根拠を私は持ち合わせていなかった。他の人から見たら普通なのかもしれないし異常なのかもしれないこの関係を、私は逃げ出す事も逆らう事も出来ないししない。
私が不手際を働けば森さんはこうして叱るけれど、何もしなければ唯のロリコンだ。命令通り私が動けば褒めてくれるし自由だって与えてくれる。自由な時間があるだけで十分だ。あの時、森さんが私を助けてくれなかったら私は今も彼処に居ただろうから感謝はしている。
そんな詰まらない事は置いておいて、私は改めて扉を開き皆に混ざった。
「太宰!遅刻だぞ!!」
「五月蝿い中也〜。禿げるよ?」
「手前が五月蝿え」
私は皆に気付かれないよう袖を限界まで下ろして森さんに付けられた赤い痕を隠す。
皆は優しいからこんな私の事を心配してくれる。それは嬉しい事だけれどそれだけじゃない。余計な心配も不安も抱えて欲しくない。知らなくて良いことは知らなくて良いんだから。
「じゃ、始めるぞ」
その五月蝿い声を早々に引っ込めてくれた中也に免じ、今日は真面目にやってあげよう。
神様なんぞ信じちゃいないが、役職上やらない訳にはいかない。身も心も神様に捧げるなどごめん蒙りたいが、森さん曰く、宗教色の方が何かと都合が良いらしい。森さんの仕事には興味無いが、逆らう事はしない。生きている意味が見つかるかもしれないし。
皆が頭を垂れると、私も同じように祈りを始めた。
*****
祈りを終えて直ぐ、私は教会に隣接された学校へ向かった。そこでも丁度祈りが終わったところのようで、私に気付いた織田作が手招きして出迎えてくれた。
「おはよう、太宰」
「おはよう。皆もおはよう!」
数は少ないものの、少年少女達に挨拶すると何倍もの元気で返された。子供は朝昼関係なく元気だ。
「今日の一限は〜……」
「数学だ」
「お、朝からハードだねぇ」
「そうか?」
教会の支援を受けているとは言うもののあまり宗教色の強くない学校で、時間割の殆どは普通の学校と変わらない。抑々、教会の責任者が森さんだったり、唯一のシスターが私である所以から信仰心なんてものは必要無い。
この学校は私の我儘で支援して貰っている。
「では今日もよろしくな」
「うん」
「お姉ちゃん……」
一番年下で紅一点の咲楽ちゃんが裾を引っ張ってきた。
「ん、何かな?」
「あのね、コレあげる!」
そう云ってくれたのは、白くて綺麗な花だった。冬に咲くその花は凛としていて、秀麗な白が輝いている。
「いいの?」
「うん!」
「ありがとう!!」
私は嬉しくなって咲楽ちゃんを抱き締めた。いきなり抱き締められた咲楽ちゃんは「わっ!」と驚いた声を上げていたけどそれも一瞬で、彼女からもぎゅっと抱き締めてくれた。
そうこうしている間に一限の始まる鐘が鳴る。
名残惜しくも私は咲楽ちゃんを席へ戻し、教壇に立った。
「授業始めるぞ」
織田作の声が響き、お喋りしていた子供達は仕方なさそうに話し声を辞めた。
私は此処で教師のような事をしている。勿論教会の仕事が優先だが、空いた時間や自由な時間はよく此処に来ては子供達と遊んだり勉強の手伝いをしている。この時間が好きだ。
織田作を中心に授業は進み、分からない所で詰まっている子や居眠りをしている子を私が見てあげる。所謂補佐だ。
「姉ちゃん、此処分かんない……」
各自で問題を解く時間になるや否や、幸介が私を呼び止めた。「どれどれ」とノートを見てみると、問題だけ書いて後は真っ白だった。
「自分で考えたかい?」
「考えたよ!一寸寝てたから分かんないだけ、で……」
「おやおや、悪い子だねぇ」
私は幸介少年の脇をこしょこしょと擽ってやった。
「ぎゃぁぁああ!やめてくれぇぇえええ!!」
授業中であるにも関わらず少年の声が教室に響く。問題を解いていた子供達が笑い出して、織田作も少し呆れた様子で笑っている。
「もう居眠りしない?」
「しない!しないからあぁぁあ!」
「神に誓って?」
「神に誓って!」
「よろしい」
こんな時に神様は便利だ。
私はパッと手を離してやると、先刻幸介君が分からないと云った場所を教えてやった。
そうして一限が終わると、私は教会に戻った。
森さんから詳細を聞いてみると、その異能力者はかなり凶暴で生半可な者では埒が明かないらしい。聖堂で中也が足止めしているものの、建物や周辺への被害が大きくなる前に仲裁に入って欲しいそうだ。
そう聞かされていたので身構えて聖堂に入ってみると、青を中心とした大きなステンドグラスがあった筈の場所は大きく削れ、辺りにキラキラと破片が散っていた。もう少し視野を広げてみるとそこら辺に転がっている白は蝋燭で、未だ火が燻っている物もある。
聖堂の中心に視線を移せば中也と啀み合っている細身の男の子がいる。
「遅いぞ太宰!」
「……君本当に性急だね」
「五月蝿え!」
中也が少年に殴り掛かりながら私に怒ってくる。どうやら怒りの矛先は少年ではなく私に向いているようだ。
少年も私に気付いた事で、中也の殴りを異能で防いで私にそれを向けてきた。黒い影のような物が直進してやって来る。
「私には効かないよ」
私の頸に触れるや否や、それは青白く霧散した。
少年は驚いて一歩引くと、一つ咳を零して私を見る。
「貴様、何者だ」
「私は太宰、太宰治だよ。芥川龍之介君」
「っ!何故僕の名を……!?」
「そりゃ知っているとも。最近世間を騒がせている殺人鬼さん」
少年の顔を見て思い出したのは街で見た指名手配書だった。そこには今目の前にいる少年と瓜二つ、否、全く同じ顔が載っていた。この子が犯した罪は殺人だった。何人殺したかは興味が無かったので覚えてはいないが、指名手配される程には人を殺している。
「何故人を殺す?」
「食える金も雨風を凌げる場所も無い。妹を生かす為に人を殺める事の何が悪い」
歳としては敦君より少し上に見える少年は、生きるか死ぬかの人生を歩んできたらしい。恐らく貧民街の野良犬として生まれてしまったのだろう。
それでも、この世では殺人は罪だ。とても重い罪だ。
「私が罰を与えよう」
この場所では私が神の代理人。神に代わって彼を罰する役目がある。
「中也は下がってて」
「へいへい」
中也は事の顛末を見送る心算のようで、削れていない無事な壁にその小さな背を預けた。
この惨状を見たら森さんは卒倒するかもしれないが、人死が無いことは中也の貢献あっての事だ。
「却説、始めようか」
私は空気を変える。
少年は殺意を受け取って猪突猛進にも異能を放ってきた。黒く鋭利な刃が私に向けられる。
「だが私には効かない」
少年との距離を殺す。
少年の顔が目前にまで見えた瞬間、私は右の手を握りしめて綺麗にその頬に入れてやった。
少年は白目を向いて倒れたが、その胸はしっかりと上下している。少し鈍い音が聞こえたけど骨はいってないらしく、口内の出血と腫れだけで済みそうだ。
「これが君への罰だよ。芥川君」
数刻もしない内に芥川君は目を覚まし、その瞳には最早敵意等微塵も無いようだった。
私は自らの計画が成功した事に歓喜も驚嘆も無い。やるべき事をやった。しかし、それもまだ終わっていない。
「君の望む物を上げよう。食べ物かい?金かい?それとも……」
「力が欲しい」
生気の無い瓦落多のようだった瞳に今は熱い炎が宿っているのが見える。若い芽は摘まずに育てねばならない。
「あげよう。そこの中也が」
「はぁ!?手前が拾ったんだから手前が面倒見ろ!」
「僕も貴方が良いです」
「それはそれで聞き捨てならねぇんだけど?」
「はいはい、分かった分かった。私が見るよ」
そう言ってやると芥川君は不器用にも歓喜の目を向けてくれた。表情に出すのは苦手だが内心大変喜んでいるのが分かる。
「行こうか」
「は、い……」
栄養失調か、貧血でか、芥川君は電池の切れた玩具のように倒れてしまった。
「ありゃ。中也よろしく〜」
「はあ!?おい!手前、待ちやがれ!」
少年と言えど人間は重たいので持ちたくない。
芥川君は中也に任せて聖堂を出た。
「太宰ぃぃぃぃいいい!!」
自室に入るや否や、私はベッドに飛び込んだ。
今晩は部屋の明かりが要らないくらい月が明るく、眩しい月白が窓から入り込んで来て少し鬱陶しい。これを美しいと思えない程私の疲労は限界に達している。
芥川君の件を処理した後、敦君に彼を会わせたら又もや大きな喧嘩になり掛けたのだ。どうやら二人は相容れないようで、私を境にして火花が飛び散っていた。
そんな二人の仲裁と聖堂の掃除、休憩にと思って学校へ戻れば元気な子供達にてんやわんやしていた。帰りに織田作が呑みのお誘いをくれたが私には一寸の余裕もなく、渋々断って今に至る。
「お酒飲みたかった……」
「では、私と一杯如何ですか?」
「……っ!」
絵本のワンシーンのように彼はそこに居た。
大きな窓に手を掛け、その細い体を潜らせて部屋に入って来た。
「どうやって……?」
「貴方の部屋は一階なのですから別に大変ではありませんよ。木に登っ迎えに来る王子様を期待していましたか?」
「気持ち悪い事云わないで」
「これは失礼しました」
ドストエフスキーは部屋主の有無も無しに乙女の部屋に入り、ワインを片手に「グラスを下さい」と物申してくる。なんと腹立たしい事だろうと怒鳴りつけてやりたかったが、彼が持っているワインが上物だった為文句は引っ込めた。
部屋には必要最低限の物しか置いていないが、少し前中也が乗り込んで来た時に置いていったワイングラスがある事を思い出すと、重い体を元気付けてキッチンへ向かう。
全くと言って良い程自炊をしていないキッチンは哀愁漂わせる清潔さがある。
薄れた記憶を頼りに、自分が閉まっただろうワイングラスを手当り次第探していく。数刻もせずにそれは見つかり、一度も使っていない所為か此奴も哀愁を漂わせてきた。
水でさっと洗いタオルで拭くと、放っていた哀愁は消えてそわそわと光を輝かせた。
「お待たせ」
私は冷蔵庫を漁って数少ない材料の中から作れる摘みを少し作り、一人用のテーブルに置くとそれらしい様相を表せた。
ドストエフスキーが華麗な手つきでワインを入れると、グラスは艶やかに染まる。
「「乾杯」」
美しい音色を響かせ、ワインを一口含む。
「美味しい!」
「気に入ってくれたようで良かったです」
酒に金を掛ける趣味は無いが、矢張り名のある値段の貼る物は流石と言って良い程格が違う。それにこれは私の好みだ。初めて会って初めて酒を交わすのに、もう何年も飲んできた仲のように感じられるのは酔いの所為にしておく。
「今日はお疲れのようですね」
「そりゃそうでしょう。朝から君に出会ったり、禍狗が押し寄せてきたり、その禍狗と白虎が喧嘩したり、子供達に振り回されたり…………」
「お疲れ様です」
「聞いておくれよ〜」
「聞きますよ」
そんなくだらない事を中心に会話に花を咲かせて酒で流す。
互いの事をよく知らないとは言わせない程、夜通し互いを語り合った。
それから幾日か同じような夜を過ごした。
酒を片手にくだらない事やお悩み相談なんかもした。
彼とは悪友のような関係を築けたと思っていたが、ある日それは違うのだ、と気付いた。
あれは、そう。月が綺麗な冬の事。
物語は佳境を迎える。
《ニューページ》
今日も今日とて何時もの夜を過ごす。
まん丸のお月様があまりにも綺麗なものだから、私も彼も自然と酒を入れる速度が速くなっていた。しかし、飲んでも飲んでも呑まれない私達は遂に酒を放り出し、夜に呑まれようと部屋を抜け出した。
夜の冷え込みは酒が反発してくれた。部屋を抜け出す勇気は彼がくれた。ぎこちない足は彼が支えてくれる。
「矢張り此処ですか」
「うん」
辿り着いたのは私達が出会った湖。夜は人も動物も皆眠っていて、月と夜風だけが静かに私達を迎え入れてくれる。
月が移る鏡に見惚れている内に体の火照りも少しずつ奪われていく。
隣に立つドストエフスキーはどんな顔をしているだろうか、と気になってちらりと覗くと、彼は湖ではなく私を見ていた。ばちりと視線が交差する。
「ドストエフスキー?」
不思議に思って彼の名を呼ぶも、反応は乏しい。
「おーい、ドストエフスキー?」
「それです」
「ん?」
唐突な彼の言葉に疑問符が浮かび上がる。どれだ?
「その“ドストエフスキー”って言うの辞めませんか?普通に名前で呼んでくれて構いませんよ」
無愛想な態度の原因が分かると同時に、一瞬にして解決先を与えられた。
彼が少し照れ臭そうに私を見るので、あまり慣れた行為では無いのだと暗示させられた。
「フョードル」
「はい」
相変わらず返事は端的で感想も何も無いが、その声が何時もとは少し違かったので許す事にした。
ふと或る事を思い出して「そう言えば」と前置きを置いて話し出す。
「君は旅人と名乗ったけど、何時迄此処に居るんだい?ずっと此処に居る訳ではないのだろう」
「何も決めず各地を流浪していますからねぇ……気が向いたら旅立ちますよ」
「ふーん」
自然と素っ気ない返事をしてしまった。少し面白くないと思ってしまった事は彼に気付かれているだろうか。
ふと彼と過ごしてきた夜を思い出す。
彼も私もあまり寝なくても良い人だったから、一夜一夜が長く濃密に感じられた。それでも眠気が襲ってきた時はよく眠れた。前までよく見ていた悪夢は見ず、穏やかな夢まで見るようになっていた。朝になれば彼がいた痕跡は一つも無く、私の記憶の中だけに証拠がある事も少し嬉しいと感じていたかもしれない。
あれ?これって……
「行かないで欲しい……?」
「何故疑問形なんですか?」
ぽろっと出てしまった本音をフョードルに笑われる。
恥ずかしくなって咄嗟に俯いた。夜に揺らされる草が深緑を背負っている。視界の端には綺麗な湖の破片。夜の湖も悪くないと思えた。