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    井東(いとう)

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    井東(いとう)

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    2023.02.12 神ノ叡智8にて頒布済み

    ※カーヴェ実装前に執筆した作品のため、生い立ちや2人の出会い等に大きな齟齬が発生しております。(Ex.カーヴェの父親の出身地、死域での建築理由etc.)
    十分にご留意いただける方のみお願いいたします。

    アルカヴェwebオンリーの開催おめでとうございます!

    #アルカヴェ
    haikaveh

    星降る夜に見た夢は(web再録)――カーヴェが多額の報酬を得るらしい。

    手札をテーブルへと開き、感想戦が始まった頃だった。夜のランバド酒場は賑やかで、ああそうだ、と思い出したかのように落とされたセノの声はあっという間に喧騒へと溶け込んでしまう。とはいえ、まさに青天の霹靂とも呼べるその情報をアルハイゼンが聞き漏らすはずはない。思わず視線を持ち上げると、負けた手札を難しい表情でじっと見つめていたティナリとぴたりと動作が重なった。
    「へえ、カーヴェが? そんなことさっきまで一言も話してなかったけど」
    「本人から直接聞いた話ではない。たまたま耳にしただけだから真偽は不明だ。……ああ、そのカードは序盤に出した方が良かったんじゃないか?」
    「うぅ……、なるほどね」
    ティナリが肩を落とせば、心なしか萎れた耳が小さく揺れる。丸テーブルを囲み、酒を片手に七聖召喚に勤しむのは、この数ヶ月の間ですっかり見慣れた光景へと変化していた。遅れてアルハイゼンが席へ着き、セノとティナリの勝負の行方を眺めつつ空のカップへ酒を注ぐ。いつもと変わり映えのない光景の中で一つだけ、と噂の中心にあがったにもかかわらず反応一つ見せることのない金色の頭を見下ろした。すっかりテーブルへ伏せ表情は見えないが、時折聞こえる不明瞭なうめき声にアルハイゼンはため息を溢す。
    「君が到着する十分前まではちゃんと起きてたよ。いつも以上に酔いは回っていたようだったけど」
    そう言って、無防備なカーヴェの旋毛を指先で突いたティナリがくすくすと笑った。
    「連日明け方まで模型を叩いていては寝不足になるのも当たり前だ。…………、その報酬、また詐欺じゃないだろうな?」
    「また、には触れないでおくが少なくともこちらに情報は入っていない。心配なら本人が起きている時にしてやればどうなんだ」
    「心配ではなく面倒ごとに巻き込まれたくないだけだ」
    咳払いを一つ響かせれば、目の前の二人は呆れたように視線を見合わせる。すっかり酔い潰れたカーヴェが飲み残した酒を一息に煽り、アルハイゼンはテーブルの中心へとカップを避けた。感想戦もそこそこにサイコロを差し出したセノへ首を振り、テーブルの上へとモラを積む。「彼の分を含めても多いよ」と苦笑するティナリはアルハイゼンの代わりにセノの手元からサイコロをさらった。
    「連戦僕が相手じゃ飽きるだろうけど今日は仕方ないよね」
    「そんなことはない。それより眠ったまま引きずって帰るのか?」
    「まさか。途中で起きて千鳥足のままキノコンの群れへ突っ込まれでもしたら面倒だからな」
    この酔っ払いのことは信用していない。アルハイゼンの言葉に同意するように、ティナリが二度首を縦に振る。酔っ払ったカーヴェの素行の数々は、話始めたが最後きっと夜が明けてしまうだろう。
    念のため肩を叩き名を呼んだが、だらしなく緩んだ口元は僅かに弧を描くだけだった。夢を見た、と上機嫌にベッドから飛び起きては寝癖のついた髪を整えることもなくペンを取る。この男ほどアーカーシャ端末から離れた生活を楽しんでいるスメール人はいないのではないかと感心することもしばしばだった。
    力の抜けた腕を引き、少しばかり二人の手を借りるとカーヴェの体はアルハイゼンの背中へ簡単に乗っかった。アルコールのせいか火照った体が、じんわりと背中へ汗を滲ませる。
    「君たちのその姿を目にした人たちはどう思うんだろうね? 場所も構わず喧嘩をしているって有名な二人が同じ家に入るところを目撃された時の言い訳は?」
    「アルハイゼンの元へ居候していることは秘密にとカーヴェは言っていたな」
    呆れた声にセノはこっくりと頷いた。背負ったカーヴェの位置を整え直すアルハイゼンを横目にティナリは言葉を続ける。
    「そんなの今更なのにね。ああセノ、その手札はさっき同じ攻撃順序だけどいいの?」
    「別に構わない。感想戦の成果をすぐに活かすのもたまにはいいだろう?」
    酔えばいつも以上にぺらぺらと口が回り、自制心の芽生えぬ子どものように所構わず落書きをする。そんな男の矜持は、彼に近しい人から見れば『今更』と言われてしまうほどにちっぽけなものらしい。すっかり目の前のカードへ興味が移った二人を見下ろし、アルハイゼンは頭の中で言葉を選ぶ。実際数回音にしたことのあるその台詞は、すっかり口に馴染んでいるのだ。
    「彼の住居を知らないから一時的に俺の家へ連れ帰っているだけだ。そのあたりで寝こけてうっかり盗難にでも遭えば治安維持のために無駄な仕事が増える」
    酔い潰れた知人を家に連れ帰るくらいならば、面倒見の良さの一言で片付けることができるだろう。ただ、それが常日頃口論を繰り広げる自分達にも当てはまるのかどうかは、アルハイゼンの知ったところではなかった。
    「君ってそういうところが本当に律儀だよね」
    呆れたような声色に、アルハイゼンの瞳は僅かに揺れる。言いたいことは色々あったが、『律儀』と言葉を繰り返すだけに留めておく。
    「そう、律儀。彼の嘘に付き合うだけじゃなく、追い出すこともしない。君たちの昔話は知らないけど、彼の止まることのない君への文句を聞いていたら何となく察しはつくよ」
    まるで風スライムみたいにぷんぷんと。そう続けたティナリは指先で空にくるりと円を描いた。カーヴェが言いそうなことなんてその場に立ち会っていなくても何となく想像はつく。大方彼のことだから料理だの掃除だの、同居が容易に推測される単語ですら酔っ払うたびに気づかず並べ立てているのだろう。居心地の良い場所を見つけたのか首筋へ額を押し付けるカーヴェへ、アルハイゼンはちらりと視線を送った。
    「まあ別に君たちの勝手に口を出すつもりはないけど。お大事にってカーヴェに伝えておいてくれると嬉しいな。あと水もきちんと忘れず飲むこと」
    ひらりと手を振る二人に見送られ、アルハイゼンは背を向ける。夜の長い酒場の賑わいにとって、まだまだこの時間は序の口なのだ。ドアをくぐり数歩進んだ先まで、風に乗ってざわめきは届いた。
    辿る家路はそう時間もかからない。どうしてこんな人目に付く場所にと常日頃カーヴェは嘆いているが、立地に関してアルハイゼンは一度たりとも不満を抱いたことはなかった。そろそろ鍵を取り出そうかとカーヴェを背負い直したところで、脱力しきっていた体が僅かに身じろいだ。アルハイゼンが声をかけるより早く、むずかるような声に合わせて首筋へ押しつけられた熱は離れていく。
    「起きたのか?」
    「ん、……星が、」
    カーヴェの指先が、頼りなく彷徨った。それでも、腕ごと持ち上げる気力は残っていなかったのか、すぐにアルハイゼンの胸元へと磁石のようにぴたりと戻される。
    「星が回っている」
    はっきりと聞こえたその言葉を最後に、再びカーヴェの体がふらりと揺れる。反り返る前に慌てて支えたが、当の本人は小さな寝息を立てるだけだった。
    (……回っているのは酒に浸かった君の頭の方だ)
    これだから酔っ払いは、とアルハイゼンは深くため息を吐き出す。取り出した鍵で玄関を開け、そのままカーヴェの体をリビングのソファへと転がした。ティナリの助言を無視することになるのは不本意だったが、揺らして呼びかけたところでカーヴェが目を覚ますとも思えない。
    カーヴェの呑気な寝顔をじっと見つめ、そのままアルハイゼンはキッチンへと足を向ける。グラスに並々と水を注ぎ、ほんの少し悩んで整頓された棚から水差しも取り出した。アルハイゼンが目を覚ますより早く、きっと酷い顔色で彼は寝返りを打つのだろう。これまで何度も迎えた朝を思い返し、アルハイゼンはもう一度大きなため息を吐き出すしかなかった。



    「――と言うわけだが、新たな仕事を受注したのか?」
    「…………、ちょ、っと待ってくれ。それ、今じゃないとダメな話なのか?っ、うぅ……」
    クッションへ押し付けていた顔をゆらりと持ち上げたカーヴェの顔色は、想像通りのものだった。昨夜アルコールで赤らんでいた頬はすっかり血の気をなくし、目の下には色濃い隈が刻まれている。中身を入れ替えた水差しをテーブルへと置けば、カーヴェは緩慢な動作で体を起こした。
    「二日酔いだ」
    アルハイゼンの言葉に、カーヴェの眉間に皺が寄る。頭痛に耐えているのか険しい顔でグラスへ口を付けた様子を見届け、向かいのソファへ腰を下ろす。
    作業部屋から打音が響くことのない静かな夜は久しぶりだった。思考がとっ散らかるまでアルコールを摂取する良さがアルハイゼンにはいまいち理解できない。グラスを空にし、こめかみのあたりを指先で解す姿をアルハイゼンはじっと見つめる。
    「……呆れているのか君は」
    「当たり前だ。酔い潰れた君を捨て置かなかったことに感謝してほしいくらいだ」
    連れて帰って欲しいとは言っていない。不満げなカーヴェはそう主張したいらしい。言葉にせずとも彼の表情はこれ以上ないほどに感情表現が豊かだった。

    ――カーヴェが多額の報酬を得るらしい。

    真偽は不明だと付け足したが、確かにセノはそういった。妙論派の星であり、栄誉卒業生。それに、かの有名なアルカサルザライパレスを代表作に持つ天才建築家。結果として破産していることがこの男の不思議なところではあるが、数々の名を欲しいままにするカーヴェに大きな依頼が舞い込むのはそう珍しい話ではない。
    「……あの依頼人、僕には完工日を迎えるまでは内緒でと言いつつ結局自分は周囲に喋っているのか?」
    信じられない、と眉根を寄せたカーヴェは言う。酔った君がぺらぺらと喋った可能性はと喉元まで出かかった台詞は寸でのところで飲み込んでおいた。どうせ二日酔いを抱えたカーヴェからテンポのいい反論が返ってくることはないのだ。
    「怪しい取引に首を突っ込むのはやめておいた方が賢明だ。君はこれ以上借金を膨らませたいのか?」
    「はあ? 怪しい取引ってどうしてそう君は……。僕は正当な依頼を受けて仕事をしている」
    「それならば依頼人の身元を白状しても問題はないだろう? 滞納された家賃が支払われる目処を知る権利はあるはずだ」
    「き、君ってやつは……」
    答えを濁すつもりだったらしいカーヴェが黙り込む。アルハイゼンは視線を逸らしたカーヴェの姿をただただ無言で見つめていた。
    諦めたような小さなため息は、ほんの数秒後にあっけなく空気を揺らす。そして、なんとも歯切れの悪いうめき声をあげ、カーヴェは居心地悪そうに姿勢を正した。
    「……天体観測の拠点を作っているんだ。フォンテーヌ製の大きな天体望遠鏡が手に入ることになったらしい。依頼人は明論派の――、」
    カーヴェが口にした名は、教令院で何度か目にしたことのある学者のものだった。占星術や天文学を専門とする明論派であれば、天体望遠鏡へ手を出すことも納得がいく。
    「報酬だって完成すればきちんと支払われる。…………、もしかして君、家賃のために今更部分払いを依頼しろだなんて言わないだろうな? そこまで君に僕の仕事に口出しする権利はないはずだ!」
    まるで猫の威嚇だ。アルハイゼンの頭の中に尻尾を逆立てる姿がぼんやりと浮かぶ。自分の大声にダメージを受けたのか、頭を押さえたカーヴェの息を飲み込む音が耳に届いた。
    「昨日の酒に先月のコーヒー代。君の借金は際限なく増えていることをよく胸に刻み込んでおくといい」
    言い訳のしようがないのか、カーヴェは再び視線を逸らした。作業がどの程度で終わるのかアルハイゼンには知る由もなかったが、今日明日で大金が手に入るものではないらしい。ここ数日熱心に叩いていた模型はきっとこの案件に繋がるのだろう。
    「それで、星が回る展望台はいつ完成するんだ?」
    昨夜の頓珍漢なカーヴェの台詞をアルハイゼンは思い返す。まるで記憶にないらしいカーヴェは怪訝そうに首を傾げた。君が言ったんだと付け足せば、目の前の瞳が驚いたように丸められる。
    「僕が? 展望台の話を?」
    「いや、正確には星が回っていると言ったんだ。天文学上、星自身が回っているわけではないことは君も知っているだろう。学派に関係のない基礎知識だ」
    カーヴェの口元が、不服そうにきゅっと結ばれる。いくらかましになったとはいえ、いつも通り口論を続けるほど回復はしていないのだろう。どうにも物足りなさを感じアルハイゼンは目を細めた。
    ソファで膝を抱え始めたカーヴェを横目に、アルハイゼンは昨夜と同じくキッチンへと足を運ぶ。三つ並んだザイトゥン桃のうち一つを手に取りナイフで皮を剥く。手早く盛り付けた小皿を手に彼の元へと戻れば、果実の甘い匂いにつられるようにしてカーヴェは視線を持ち上げた。
    「それ僕が収穫したザイトゥン桃だろ」
    「正確に言えば、酔った君がわざわざ遠回りをした道すがらもいできたザイトゥン桃だ。しかもこの数日君はキッチンへ飾るだけで食べる気配すらなかった」
    「そ、それはその、皮を剥くのが面倒だ、……とは思ってはいない」
    答えは案の定だ。カーヴェの目の前へと皿を置き、そのまま視線で促した。いくらか胃に食べ物を入れれば多少は回復するだろう。添えたフォークで果実を運んだカーヴェは、口元を綻ばせた。
    テーブルに置いたままの本を手に取り、栞を挟んだ箇所からページを捲る。ふわり、と手を洗ったにもかかわらず果実を触った指先へ残る甘い香りが漂ったが、悪い気分ではない。最後の一つになってようやく気がついたのか控えめに名前を呼ばれたが、アルハイゼンは頭を左右へ小さく振った。
    「本が汚れる。全部君が食べるといい」
    「……相変わらず本の虫だな君は。僕が大掃除をしてから数日しか経っていないのにもうリビングにすら本の山ができている」
    あそこも、ここも。カーヴェが指差す先には確かに書棚から持ち出した本が積まれていた。知恵の殿堂へ定期的に蔵書を運び込んではいるが、その足でオルモス港へ向かったら意味がない。出迎えるなりアルハイゼンが抱える新たな本を指差し騒ぐカーヴェを見たのも、片手の数では足りなくなってしまっていた。
    最後の一切れを咀嚼し終えたカーヴェは抱えた膝に額を乗せる。数秒じっとしたかと思えば、今度は足を放り投げソファへ勢いよく背中を預けた。どうしてそういつも落ち着きがないのかと呆れ半分考えを巡らせたところで、カーヴェの口から小さなため息が吐き出された。
    「…………、もうすぐ完成するんだ」
    むっとしたようにカーヴェは唇を尖らせた。そのまま、ぽつり、ぽつり、とコップの淵から水がこぼれ落ちるように言葉が溢れ出していく。
    「設計図を渡した時点では問題はなし。工事も工程通りにきちんと進んでいる。むしろ天候不順がなかった分これ以上ないほどに順調だったはずなんだ。それなのにこの期に及んで何かが足りないだなんて言われるこっちの身にもなってみろ……!」
    だん、と大きな音をたてカーヴェの拳がテーブルの上へと叩きつけられる。よほど腹に据えかねていたのかいつの間にか頬へ血の気が戻り赤みがさす。カーヴェが自分以外にここまで感情を向けるのは珍しい。アルハイゼンはぱちり、と一つ瞬いた。
    聞いた依頼人の名は悪評高い学者でもなければ、印象が朧げなほどに目立つ男でもなかったはずだ。アルハイゼンへ向ける態度がどうであれ、『天才建築家』と評されるほどの彼の頭をこうまで悩ませる男の存在がむしろ気になってしまう。
    「外装なこれ以上ないほど素晴らしいとお墨付き、だったら内装か? 細部までこだわって作り上げた作品に『特別感がない』の一言で首を傾げられた僕の気持ちが君に分かるか!?」
    「分かるわけがない。……その前に一つ、まさか製図がとっくに終わっているにも関わらず君はモラを一つも受け取っていないのか?」
    「報酬はまとめて完工後と契約時に決めているんだ。予算がつくタイミングがそこだと言われてしまえば無理に請求できるはずもない。回っているのは星じゃなくて何度もリテイクを食らわされる僕の頭の中の方だ」
    「そんな無駄な気遣いは君の生活がまともに回るようになってから言ってくれ。その間にも借金を膨らませていたら本末転倒だろう」
    「そ、それは……」
    真っ当な事実に、カーヴェは言葉を詰まらせる。本来予算がついてから施工に入るものなのだ。始まりから全てを掛け違えていそうな案件に、こめかみのあたりが僅かに痛む。
    書記官として出席した会議に、天体に関する議題はなかったことを思い返す。とすれば、それほど大きなプロジェクトではないのだろう。カーヴェから得られた少ない情報をアルハイゼンは頭の中で整理していく。
    「僕だって、これが正解だとは思ってはいない。でも、幸いなことに支払いの遅延で僕が今迷惑をかけているのは君だけだ。だから……」
    黙り込んだアルハイゼンを前に、カーヴェは落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。言葉尻は頼りなく萎み、最後まで続けることなくカーヴェは口を閉ざした。皆まで言わずとも言いたいことは理解できる。
    いつもの憎まれ口が返ってこないと、どうにもこちらの調子も狂う。アルハイゼンは込み上げたため息を喉元へ止め、ソファから立ち上がった。そのまま書棚へ向かい、奥の方へとしまいこまれた一冊の本を探し出す。他と比べれば薄い背表紙のそれは、すぐに見つけることができた。
    手にした本を、カーヴェの目の前へと差し出した。てっきり小難しい学術書を手渡されると思っていたのだろう。色褪せてはいるが、色彩豊かな表紙に驚いたのかカーヴェは視線を跳ね上げる。
    「これ、本当に君の持ち物なのか?」
    「祖母から贈られたものだから間違いではない。小さい頃からろくに星を眺めることのなかった君にはこれくらいの本がうってつけだろう」
    「小さい頃、……って、そういえば君には夜通し絵筆を握っていた話をしたんだっけ?」
    よく覚えていたな、とカーヴェはけらけらと笑った。てっきり苦虫を噛み潰した表情を浮かべると思っていたが、正反対の反応にアルハイゼンは瞬きを一つ落とす。この家を学術資源として手に入れるよりずっと前、出会ったばかりの頃の彼は、お互い成長途中であったこともあり、もう少し大きく見えていたことを思い出す。
    表紙の擦り切れた角をなぞるカーヴェの指先に、胸の辺りのくすぐったさを覚える。気恥ずかしさを誤魔化すようにアルハイゼンは咳払いを溢す。「君にも絵本を熱心に読んでいた可愛げのある時期が」と笑うカーヴェに、『先輩』と呼んでいた頃の姿がぼんやりと重なった。

    ――僕は自由に勉強する機会が欲しくて教令院へ入学した。

    価値のない授業を聞くより自分で読書をしている方がましだ。一度目の入学時とは違い、それなりに授業へ出席してはいた。けれど、狭い教室に詰め込まれ、書籍に書かれた文字をそのまま読み上げる教授の声を聞くだけの時間は、アルハイゼンにとって退屈以外の何ものでもなかった。傍聴資格を利用してさまざまな学派へ顔を出したところで、それが変わることはない。
    だからこそ「ここへ入学するまで勉強をするのは義務だった」と続けたカーヴェの言葉が、全くもって理解できなかったのだ。困惑の表情はすぐに彼に伝わったのだろう。才能を認めてくれる人がいた君は素敵な環境だったってことさ、と続けた声は教令院へ入学して方々から向けられた妬みを含んだ刺々しいそれとは異なる穏やかなものだった。
    「……アルハイゼン?」
    思考の淵へ沈んでいた意識が、カーヴェの声で引き戻される。手渡した本は、ぱらぱらと捲った後なのか三分の一ほどのところで開かれていた。手元へ向けられた視線に気がついたのか、ああ、とカーヴェは左手で本を掲げた。
    「君と一緒に星を眺めたのを思い出したんだ。幼少期の話をしたのもあの日だろ? 君がまさか覚えているとは思わなかったけど。あの頃の君はもうちょっと可愛げがあった」
    目を細めたカーヴェは、まだ明るい窓辺へと視線を送る。そのまま、記憶の中と同じ穏やかで、それでいてほんの少し弾んだ声で、懐かしむように思い出話を始めるのだった。







    退屈でうるさい場所。初めて足を踏み入れたあの日から、アルハイゼンにとって教令院への印象は変わることはない。
    バルコニーへ一歩足を踏み出すと、草木の香りを纏った清涼な風がアルハイゼンを出迎えた。深く息を吸い込み、後ろ手に窓を閉める。すると、胸焼けのような不快感はあっという間に霧散した。何度か深呼吸を繰り返した空気に混じる花蜜の香りは甘ったるい。それでも、食事とアルコールの匂いが入り乱れた喧騒とは、比べることすら馬鹿らしかった。
    いくら普段は慎ましやかに勉強に励む学生とはいえ、若者が大勢集えば静寂とは無縁の空間になることは分かりきっていたのだ。難色を示すアルハイゼンを「人脈はあるに越したことはない」と最もらしい言葉で連れ出した教授は、すっかり上機嫌な様子で何度も酒器を傾けていた。出席する数少ない講義のうちの一つだったが、厳格な教授の像は呆気なく崩れていく。知性に溢れた講義の様子とはかけ離れた陽気で音の外れた歌声が耳に届き、アルハイゼンはどうしようもないため息を漏らす。
    (……帰ってしまおうか)
    バルコニーの柵へ、アルハイゼンは退屈さを隠すことなく片肘をつく。手のひらを押し当てた頬は、室内の熱気で随分と火照ってしまっていた。学派を越えた宴席は、確かに大切なものではあるのだろう。他分野での共同研究相手を探すのにこれ以上適切な場所はないともっぱらの噂だった。けれども、それにしたって限度がある。相変わらず騒がしい室内にアルハイゼンの眉間へ皺が寄る。
    「――、随分と退屈そうな顔をしているな」
    不意に声が耳へ届いた瞬間、アルハイゼンの手のひらから思わず頬が滑り落ちた。そのまま振り返ると、室内から漏れ出る照明を反射する金色が、視界の端へと映り込む。まるで高価な装飾品を飾る金縁のような髪色の持ち主を間違えるはずはない。ふわり、と清潔な石鹸の香りを纏った彼は、アルハイゼンの隣へ並びじっと瞳を覗き込んだ。
    「堂々とサボりか? 君は将来きっと大物になる」
    「……成績に関係する場ではないからいいだろう。それを言うなら先輩だって同類だ」
    「僕は上手く誤魔化してあるから問題はない。誰にも声をかけずふらっと姿を消す君とは違う」
    カーヴェは得意げな笑みをアルハイゼンへと向けた。薄明かりの中でもその頬が赤く色づいていることは、頭の周りに音符でも飛び交っていそうな機嫌の良さで容易に想像できてしまう。本格的に隣へ居座るつもりなのだろう。隣へ並んだ彼は両肘をバルコニーの柵へと載せた。
    「そもそも君がこんな場に来るなんて珍しい。どういう風の吹き回しだ?」
    風が吹き抜ける度、僅かなアルコールと石鹸の匂いが混じり合う。頬に触れる揺れた毛先がくすぐったかったのか、カーヴェは頭を左右へ小さく振った。
    「……教授に連れられて仕方なくだ。できることなら今すぐにでも俺は家に帰りたい」
    「あははっ、君は素直だな」
    手を叩いて笑い始めたカーヴェの声は、まるで小さな子どもを褒めるような響きを持っていてむず痒い。案の定アルハイゼンの頭へ伸びた手のひらを弾いて拒絶の意を示したが、彼は気分を害することもなくけらけらともう一度笑う。
    「ここにいる人間はすぐに天才だなんだとレッテルを貼りたがるから気に食わないのは僕だって同じさ。とはいえ、君は数年後には知論派の賢者になるともっぱらの評判だ。学問を続けるのにも資金が必要になる、――とすれば、多少の人脈が大切だってことは君なら理解できるだろ?」
    諭すような言葉を並べつつ、カーヴェの表情は穏やかだ。本人の言葉通り、学派は違えども彼の優秀な成績はアルハイゼンの耳へもよく届いていた。それに、教令院への入学後、祖母にゆかりのある妙論派へ真っ先に足を運んだアルハイゼンを出迎えたのも彼だった。室内とは思えないほど木屑に塗れた彼は、唖然と見つめるアルハイゼンへ工具を片手にあどけない笑みを向けた。後から聞けば、初めて手を出した木材の断面が気に入らなかったらしい。アルハイゼンにとって、妙論派といえば穏やかな祖母が全てだった。あまりにかけ離れたイメージに頭がくらりと揺れた衝撃を、きっとこの先忘れることはない。
    結局知論派へ籍を置くことになったとはいえ、彼との縁は不思議と途切れることはなかった。機会があればこうしてわざわざ隣へ現れ、何度か会話を重ねるうち砕けたアルハイゼンの言葉遣いを「そっちの方が君らしい」と笑うだけで咎めることもない。物好きな男だ、とちらりと視線を送ったが、すっかり星空を眺めることに夢中な彼が気づくことはなかった。
    カーヴェの問いに首を縦に振る代わりに、アルハイゼンは背後を振り返る。いくら最初から静かに置物のようにしていたとはいえ、そろそろ宴席を抜け出したことに誰かが気づく頃だろう。霧散したはずの胸焼けが再び込み上げるような不快感に、アルハイゼンは小さくため息を吐き出した。
    「……先輩もそろそろ」
    「小さい頃、まともに星空を眺めたことがなかったんだ」
    徐に話し始めたカーヴェへ、アルハイゼンはぱちりと一つ瞬いた。「……監禁でもされていたのか?」と悩んだ末に口にすれば、まさか、と彼は笑う。
    「夜は僕にとっての特別な時間だった。昼間は絵筆を慌てて取りあげる母親に、その時間は邪魔をされることもない。みんなが寝静まった後に星を眺める時間すら惜しんで夢中で真っ白な紙と向き合っていた」
    こんなにも綺麗なのに勿体無いことをした。カーヴェはそう続けると、星座をなぞるように空へ向かって指先を動かした。彼の指先をまじまじと眺めたことはなかったが、僅かに歪に見える中指にはきっとペン胼胝ができているのだろう。同じように皮膚が硬くなった自身のそれを、アルハイゼンは指の腹でそっと撫で上げた。
    「僕の父はフォンテーヌの出身でね。子どもの頃は時々一緒に機械をいじっては遊んでいたんだ。そして、幸か不幸か兄弟の中で機械の構造を理解するのは僕が一番得意だった」
    「……不幸?」
    アルハイゼンは目を瞬いた。カーヴェの出身については初耳だったが、教令院にはスメール出身でない学生も少ないとはいえ存在している。引っかかったのはその次だ。アルハイゼンの困惑を楽しむように、カーヴェは「何故だと思う?」と言葉を付け足し首を傾げる。
    それでも、時間にすればほんの数秒。息苦しさを感じる間も与えることなくカーヴェは呆気なく沈黙を破った。元からアルハイゼンの解答を待つ気はなかったのだろう。
    「母は本妻ではなかったんだ。義兄弟より僕が目立つことを良く思わない人はたくさんいた。だから、少しでも芽が出そうな美術や技術の一切を母は僕から取り上げたんだ。代わりに与えられたのは山のような課題と学術書さ。得意分野で目立つことを良しとはしないが、落ちこぼれることも一家の恥だと許されはしない」
    アルハイゼンは息を呑むことしかできなかった。特別は富だといつだって自分を肯定してくれた祖母の言葉は、アルハイゼンの胸の内を満たしていた。それなのに、目の前のカーヴェはどうだ。まるで正反対の言葉を紡いだ彼は、湿っぽさを感じることのないからりと乾いた声で言葉を続ける。
    「息苦しさから逃げるために、僕は教令院への入学を希望した。母の出身地でもあったから話は昔から何度か聞いていたんだ。あの時の母の安堵した表情を忘れることはないだろうね。フォンテーヌの本流から外れれば、この先僕が義兄弟と比較される機会は格段に減る」
    「……それで妙論派に?」
    「ああ、機械を触るのはやっぱり嫌いじゃないんだ。それに、建築にも興味があったからね。……って、余計なことを喋りすぎた。すまない、君の前だとどうにも口が回りすぎてしまう」
    ぱたぱたと、頬を扇ぐようにカーヴェは両手を動かした。あまりにも自身の環境とかけ離れたカーヴェの話に、すぐに言葉は出てこない。喉元まで込み上げた単語を何度も音にすることなく飲み込み、悩んだ末に曖昧に首を左右へ小さく振れば、彼はくすくすと笑った。
    「君は? 君のことだから子どもの頃から本を読み漁っていそうだ」
    「……ああ、おば――、」
    思わず口を噤んだアルハイゼンへ、今後はカーヴェが瞬きをする番だった。懐かしい呼び名がつい口に出てしまった気恥ずかしさが半分、先ほどの話を踏まえて自身のことを話すのに躊躇いが生まれたことが半分。そんなアルハイゼンの感情なんて全てお見通しと言わんばかりの表情で「おばあさま?」と言葉の先を読まれてしまえば、観念するしかない。
    「…………、祖母が時折夜更かしして本を読むことを許してくれたんだ。成長に影響があるからと普段は早々にベッドルームへ急きたてられていたが。祖母は隣に並んで時折星空を眺めていた」
    「素敵な思い出じゃないか。……そうだ、アルハイゼン。僕と一つ賭けをしよう」
    「……賭け?」
    唐突な言葉に、アルハイゼンはカーヴェの方へと視線を向ける。その目の前へ、彼は金色のコインを一枚差し出した。
    「このモラが表を向いたら僕がそれらしい理由をつけて君が今すぐ家に帰るのを手伝おう。ただし、裏を向いた時には僕に付き合って天体観測だ。……この場に飽き飽きしているのは君だけじゃないからな」
    たまにはいいだろう、とカーヴェは悪戯っぽい笑みを浮かべた。コインをくるくると軽快に回す仕草は、こちらを挑発しているようにすら見えた。
    「……子どもっぽい真似事だな」
    「っな!? 僕はつまらなさそうな君のことを思って……!」
    喜怒哀楽に合わせてころころとカーヴェの表情はよく変わる。感情をあまり面に出すことのない自身とは正反対の男だとアルハイゼンは目の前の先輩を評していた。だからこそ、先ほど耳にした境遇が、そう簡単に結びつかないのだ。
    手元をじっと見つめると、次の動作を急かされていることに気がついたのか、カーヴェはコインを縦向きへと持ち変える。
    「君ってやつは本当に……、っあ、」
    キンっ、と甲高い音をたて、カーヴェの弾いたコインが高く舞う。弾いた時点で違和感はすでにあったのだろう。やってしまったと言わんばかりの声に続いて、手の甲へ着地するはずだったコインはバルコニーの柵の上でかつんと跳ねた。
    「…………、落ちたな」
    数メートル下の茂みへ着地したであろうコインに目を凝らしたが、暗闇の中では表か裏か見えるはずもない。身を乗り出してアルハイゼンと同じように地面を覗き込んだカーヴェは、失敗を恥じるような小さな呻き声を上げた。
    「あー……、やり直しと言いたいところだが、あいにく今あるコインはあれが最後だったんだ。酒瓶の蓋でも貰って、……いや、また捕まって酒を注がれるだろうから抜け出すなんてどう考えても無理だ」
    はあ、と大きなため息が空気を揺らした。数秒項垂れたかと思えば、「よし、仕方ない」と呟いたカーヴェが先ほど身を乗り出した柵へもう一度手をかけ、ゆっくりと膝を折り曲げていく。そう、まるで今すぐにでも飛び跳ねんばかりに。
    「っ、何をしている!?」
    「何って、君だって結果が気になるだろ?」
    「ここから飛び降りようとするなんて君は馬鹿なのか!?」
    先輩に向かって馬鹿とは!と騒ぐカーヴェの腕を強く握り締めれば、諦めたのか大人しくなる。弾んだ息を整え深く吐き出したため息は、タイミングよく二人のものが重なった。
    「……あのコインは裏を向いている。そう思っておけばいい」
    「…………、裏? 裏ってことは」
    きょとんと丸められた瞳が、ぱあっと明るく色を変える。喜びの感情を隠すことのないカーヴェから視線を逸らし、アルハイゼンは一つ咳払いをこぼした。
    「明るくなったら答え合わせをすればいい」 
    「……朝まで一緒に星を眺めようだなんて君は案外大胆なんだな」
    そうと決まればさっさと抜け出してしまおう。浮かれたカーヴェの声を聞けば、反論する気も無くなってしまう。
    もっと彼のことを知りたい。知らない一面を覗いてみたい。
    初めての感情への戸惑いに、急かすように握って引かれた手のひらをアルハイゼンは握り返すことしかできなかった。



    あの日から数ヶ月、一枚の書類が妙論派の教授から手渡されたのは突然のことだった。暇を見つけては場所もかまわずお互いの知識欲を満たすため会話を重ねる二人へ、教授は穏やかな声を続けた。学生の戯れで済ませてしまうには、あまりにも惜しい議論をしている。共同研究としての手続を踏めば予算も多少は与えられるというのが教授の言い分だった。
    思わず受け取ってしまった申請書を前にして、二人は顔を見合わせる。それでも悩んだのはたったの数秒。どちらともなく頷くと、お互いペンを取り合った。
    共同研究者の欄に記名する指先は震えはしなかったが緊張を表すように、ほんの少し右肩上がりに線が走っていた。いつだって恐ろしく真っ直ぐな線で設計図を描き上げていく彼もそれは同じだった。
    「まあ、綴りが間違っているわけじゃないし大丈夫だろ。君が緊張するなんて珍しい」
    「それはお互い様だ」
    二人の名前が並んだ申請書を、カーヴェはぺらりと持ち上げる。「一緒に提出しにいくか?」と随分と楽しそうな先輩の姿に、アルハイゼンは小さなため息を同時に頭を左右へと振ったのだった。



    「ここにあった部品はどうした?」
    つい昨日まで研究室の端にあった小さな木箱が一つ消えている。他の場所へ移された形跡もなければ、カーヴェが試作に使ったわけでもなさそうだった。心当たりがなくアルハイゼンが尋ねれば、ああ、とカーヴェは図面と向き合っていた視線を持ち上げる。
    「妙論派の後輩が今すぐ必要な部品が足りないと慌てていたから譲ったんだ。僕が使うのはもう少し先だから問題はないだろう?」
    「……またか」
    はあ、と大きく吐き出したため息に、カーヴェは肩を小さく跳ね上げた。そのまま再び図面と向き合い始めた彼へ、眉を顰めてもう一度声をかける。けれど、カーヴェが手を止める様子はない。肩に手をかけ無理矢理に振り向かせてしまえば、不満げな瞳に見上げられた。
    「きちんと計画も立てずに手当たり次第に研究を進めるから慌てることになるんだ。本人に問題があることは明白なのにどうして君が手を差し伸べる必要がある?」
    「君には少しばかりの優しさもないのか!? 彼の研究は正当な評価を受けるべきものなんだ。些細なことでその機会を損失するなんてあってはならない。それに、僕の研究が遅延するわけではないから君に迷惑はかけていない!」
    不機嫌さを隠すことなくカーヴェは声を荒げた。アルハイゼンの手を払いのけ、がたん、と音を立てて椅子から立ち上がる。
    「何度も言うが、その部品を購入したのは研究費からだ。これは、君だけのものではない。それに、君の施しがまともに返ってきたことがあったか? 薄っぺらいその場での礼が一つとは言わないだろうな」
    「そ、それは……」
    「代替部品で君が凌いだことは一度や二度じゃない。結果として君が正当な評価を受けなくなっていては本末転倒なはずだ」
    カーヴェの瞳が僅かに揺れる。本末転倒だとは言ったが、優秀だと評されるカーヴェはそうなったとて卒なくやり遂げてしまうのだからたちが悪い。わざわざ自身苦労する道を選ぶカーヴェのやり方は、アルハイゼンには到底理解できるものではなかった。長い時間を共に過ごすほど、自身の才能を惜しむことなく他人へ分け与える彼の生き方は正反対であることを自覚する。
    「……それでも手を差し伸べなかった時の後悔に比べたら」
    何度繰り返したところで、カーヴェの言い分が変わることはない。きっと彼にとって譲れない大切な部分なのだ。その柔いところへアルハイゼンもこれ以上無神経に踏み入るつもりはなかった。
    今回だって大丈夫、とまるで自分に言い聞かせるようにして声を落としたカーヴェへ、手にしていた書物を一つアルハイゼンは差し出した。タイトルを目にした彼は、俯いていた視線を驚いた様子でぱっと跳ね上げる。
    「これ、僕が探しに行こうとしていた本だ。……まさかわざわざ代わりに探してきてくれたのか?」
    「……たまたまだ。俺も知恵の殿堂に所用があったからな」
    「君ってやつは素直じゃないな。ありがとう、助かった」
    まっすぐな感謝の言葉に、アルハイゼンは視線を逸らす。「ほら、感謝されるのも悪い気分じゃないだろ?」と先ほどの言葉を拾い上げるように、カーヴェはアルハイゼンの鼻の頭へ指先を押し当てた。
    「それとこれとは話が別だ」
    こぼれ落ちた不満げな声は、カーヴェのお気に召したのだろう。けらけらと笑う彼は、すっかりいつも通りだった。早速本のページを捲り始めたカーヴェは、ペンをすらすらと走らせる。いくつか並んだ数式は、知論派で目にする機会は滅多になかった。
    こうなれば、彼はしばらく夢中になって自分の世界に没頭しているのだろう。そして、数時間後には目を輝かせてとめどなく感想を溢れさせるのはずなのだ。
    (……大丈夫、か)
    彼が口にするとまるで魔法の言葉だ、とアルハイゼンは頭の中でもう一度音にする。きっと今回だって器用にやり遂げてしまうのだ。彼が誰かへ手を差し伸べるように、つい彼に手を差し伸べてしまう。そんな不思議な感覚は、アルハイゼンにとって初めてのものだった。
    カーヴェの向かいの椅子に腰掛け足を組む。彼が弾んだ声で名前を呼ぶその瞬間まで、一緒に知恵の殿堂から持ち出したばかりの書籍をアルハイゼンは開くのだった。





    カーヴェが部屋へ引きこもり始めてから三日。あれからカーヴェは一度もアルハイゼンの前に姿を現してはいない。顔を合わせずとも無事に生存していることは、昼夜を問わず響くさまざまな音で確認することができたし、コーヒーの香りだってアルハイゼンが起床した時にはすでにキッチンへ充満していた。それでも、きっとろくな食事はしていないのだろう。コーヒー豆以外の食料が減っている気配は一切ないのだから。
    二セットずつ揃った食器に、生活用品。カーヴェがこの家に住み始めてから増えたものは、数えきれないほどにたくさんあった。全てアルハイゼンの収入で買ったものだったが、借金を返済し終え引っ越す際に、彼のことだから一セット分全てを持ち出す気なのかもしれない。とはいえ、そうなったところでアルハイゼンにとっては些細な問題ですらなかった。 
    カーヴェと昔の話をしたからなのか、あの日以来、不思議とアルハイゼンは小さい頃の夢を見た。きりのいいところまで本を読んでしまいたくて、珍しく我儘を言ったアルハイゼンに「仕方のない子ね」と夢の中の祖母が柔らかな笑みを向けた。満足するまで本を読み終えた後、恐る恐るキッチンへと向かえば、湯気のたつ鍋をかき混ぜる祖母が振り返る。迷惑をかけた自覚はあったが、素直に謝罪の言葉が出てこない。指先を落ち着きなく絡め、視線を彷徨わせるアルハイゼンを、祖母はいつも通りの温かな声と一緒に手招いた。
    「ふふっ、あなたのおかげでいつもよりしっかり煮込んだ美味しいスープができたわ」
    野菜も甘くてとろとろよ、と嬉しそうな祖母が木の器へよそったスープの味を、きっとこの先も忘れることはない。
    アルハイゼンはいくつか野菜を取り出し、鍋へと水を注ぐ。肉の用意はなかったが、今の彼にはちょうどいいだろう。適当な大きさに切った野菜を鍋へ放り込み、蓋を閉じて一息吐く。
    カーヴェをこの家に迎え入れた日、口を噤んだままの彼に差し出したのもこの鍋で火にかけたスープだったことを思い出す。居候の対価として与えた役割によって、今ではアルハイゼンがキッチンへ立つ機会は随分と減っていた。この鍋だって、記憶にない細やかな傷がいくつも増えている。
    閉じられたままの作業部屋の扉へちらりと視線を送る。スープが完成するまでの間、ちょうど一冊くらいは読み終えることができるだろう。きれいに整頓された棚へと調味料を戻し、アルハイゼンは本を片手にソファへと腰を下ろした。



    「……君、僕の邪魔をしにきたのか?」
    「随分な言われようだな。食事の時間だ、手が塞がっているんだから早く中へ入れてくれ」
    「君が勝手に僕の食事の時間を決めるんじゃない! あっ、こら!」
    カーヴェの脇を通り抜ると、案の定テーブルいっぱいに広げられた紙と模型の端材が視界へと飛び込んでくる。仕方なく一度床へトレーを置き、散らばった紙を端へと避ける。珍しく色を塗ったのか、図面のあちこちがまだらに着色されていた。「勝手に見るな!」と騒ぐ彼の目元には、予想通りくっきりと隈が刻まれている。
    「君が自己管理を怠るのは勝手だが、それで迷惑を被るのはこちらなんだ。ビマリスタンに君を担ぎ込むのは誰だ?」
    辛うじてスペースを空けたテーブルへトレーを乗せると、ふわりと温かな湯気が漂った。食欲をそそるには十分だったらしい。思わずといった様子で手のひらで押さえたカーヴェの腹部から、低い音がアルハイゼンの耳へも届いた。
    「笑うな! その意地の悪い笑みをいつか描写して教令院中に貼り出してやる!」
    「勝手にしろ。その行為で各方面からの苦情を集めるのは君だからな」
    「なっ、ああ言えばこう言うそういうところが!」
    思ったより元気じゃないか。アルハイゼンはぶつぶつとまだ文句を言いながらも腰を下ろしたカーヴェの前へ木皿を並べた。
    「しかもスープだなんて僕への当てつけか? 片手で食べられる料理を好む君がわざわざスープだなんて、余程僕の作業の手を止めさせたいらしい」
    「ああ、作業中手を止めなくて済むように料理をアレンジすればいいと学生時代俺にアドバイスしたのは先輩だったからな。君の推察通りで間違ってはいない」
    「き、君ってやつは……!」
    カーヴェの向かいへ腰を下ろし、アルハイゼンはスープを一口匙で掬った。味見をしてこなかったが、口へ含んだそれは十分な出来栄えだった。同じように匙を手にしたカーヴェは、黙々と食べ進めあっという間に皿を空にする。
    「まだ食べるならキッチンに残りがあるぞ」
    「……食べる」
    皿を手に、カーヴェはぱたぱたと部屋を出て行く。随分とお気に召していただけたらしい。作業台とは別のテーブルへは、アルハイゼンが手渡した本が置かれていた。いくつか挟みこまれた小さな紙切れに、彼のここ数日の作業の断片が見てとれる。
    皿を両手で抱えたカーヴェはすぐに戻ってきた。最初に持ってきた時よりなみなみと注がれたそれを、カーヴェは満足げな表情で口へと運んでいく。しばらくじっと見つめていると、一つ小さな欠伸をこぼした。
    「……君、まともに寝ていないだろう。家の中でまでヘッドホンをするこちらの身にもなってくれ」
    「ん、……明日からはしばらくは静かになる」
    温かいスープに、満たされた腹。眠気を誘う要因は十分に揃っていた。カーヴェは半分ほど落ちた瞼に抗うように何度か瞬きを繰り返す。
    「静かに?」
    おうむ返しに呟いたアルハイゼンへ、カーヴェは首を縦に振る。ふらりと立ち上がり、ベッドへ身体を投げたカーヴェは、「現地で作業を行うんだ」と言葉を重ねた。
    「完成したのか?」
    「あっと驚くに違いない。きっと文句の一つも思いつかないはずだ」
    「それは大層な自信だな」
    けれど、それが虚勢でも、根拠のない自信でもないことは、アルハイゼンもよく理解していた。床へ乱雑に散りばめられた彼にとっての没案だって、喉から手が出るほど欲しがる人はスメールだけに留まらずごまんといるのだ。枕へ頭を預けたカーヴェは、今にも瞼の落ちそうな眼をアルハイゼンへと向ける。
    「……三日後の夜、君に来て欲しいところがあるんだ」
    言い残して満足したのか、アルハイゼンの返事を待たずしてあっという間に瞼を下ろす。場所も告げずに寝入ることがあるかと顔を覗き込んだが、健やかな寝息が聞こえるだけだった。その姿は、研究室でペンを握りしめたまま寝落ちていた学生時代の彼を思い出す。相変わらず彫刻のような顔だと、アルハイゼンは長いまつ毛が飾る目元を見つめた。
    カーヴェのことだから、きっと散らばった紙のどこかへ住所の走り書きくらいしているのだろう。床へ退けた紙の束から文字を探すのは骨が折れそうだった。
    空になった皿をトレーに乗せ、もう片方の手に紙束を掴む。呑気に眠るカーヴェへちらりと視線を送り、アルハイゼンは部屋を後にした。






    「あれ、君だけで来るなんて珍しい」
    ランバド酒場へ足を運べば、相変わらず七聖召喚のカードをテーブルへ広げたティナリとセノに迎えられた。カーヴェとは違い、こうも間隔を開けずに二人が酒場へいるのは珍しい。言いたいことは伝わったのか「たまたまこっちへ来る仕事が続いているだけだよ」とティナリは笑った。
    散々眠って満足したらしいカーヴェは、翌朝アルハイゼンが起床するよりずっと早くに家を出ていた。しばらく玄関に置かれたままだったキーホルダーのついた鍵が消えている。引きこもりもお供だったマグカップも、アルハイゼンのものと並んでキッチンへと干されていた。
    「カーヴェは? また家で製図でもしているの?」
    「あっと驚く天体観測場を作るんだと昨日から出かけている。明日きちんと回収してくるから問題はない」
    「回収って、……カーヴェは愛されてるね」
    「……愛?」
    ティナリの言葉に、アルハイゼンは眉を顰めた。その横でカードを出したセノが首を傾げる。手札が劣勢に傾いたのだろう。ティナリは一瞬難しい表情を浮かべた。この調子ではしばらく返答はないと踏んだアルハイゼンは、仕方なく右手を掲げ酒を一杯注文する。
    アルハイゼンとカーヴェの関係性を『愛』だと表現する人間なんて、今までただ一人として存在することはなかった。それもそうだ。喧嘩の目撃情報が教令院では密かに話題にあがっていたし、つい先日だって食事会の間君の文句が止まることはなかったよと呆れた証言をしたのは目の前のティナリなのだ。
    「はい、次はセノの番だよ」
    ようやく体勢を立て直す方策が見つかったのか、ティナリは手札を出した。そして、テーブルに転がされたサイコロを手に取ると、考え込むように指先を顎のあたりへと添える。
    「そうだな、……甘やかすのが上手? 不思議とつい手を伸ばしたくなっちゃうよね、カーヴェって。死域の件は本当にどうしようかと思ったけど」
    「……あれにはきちんと社会経済の厳しさを教えるべきだ」
    「手を伸ばした筆頭が何を今更言ってるのさ。経緯は知らないけどいくら昔馴染みとはいえ、君ならその言葉通りに突き放すことだってできただろう?」
    さらりとそう言って、ティナリは再びテーブルへと視線を戻した。黙々とカードを出し合う二人を眺め、アルハイゼンは届いたばかりの酒へ口をつける。
    ティナリの言葉をアルハイゼンは否定するつもりはなかった。つい手を伸ばしたくなるといった表現は、まさにカーヴェにぴったりだとすら思う。だからこそ、アルハイゼンは再会した彼が破産して家すら無くしていたことに驚いたのだ。
    行き過ぎたお人好しはいつか身を滅ぼす。その反面、つい彼に手を伸ばしてしまう誰かの存在によって、何やかんや上手く生きていくことができるのだとも。カーヴェの生き方は危なっかしく、平穏な生活を望むアルハイゼンとはまるで正反対だった。
    それなのに、数年ぶりに酒場で再会した彼の瞳は、縋るものが何もないと言わんばかりに頼りなく揺れていた。今振り返ってみると、アルハイゼン自身その瞳に動揺したのだ。次々に酒を頼み、独り言のようにぽつり、ぽつりと言葉を吐き出していく。その挙句、すっかり店のテーブルへ伏せた彼を置いていくことだってできたはずだった。けれども、気がつけばアルハイゼンは背負ったその体を、彼がとっくに権利を放棄した家へと連れ帰ってしまっていた。
    「カーヴェは家を出ていくのか?」
    セノの声に、アルハイゼンは瞬きを落とす。思考に耽るうち、いつの間にか一戦を終えていたらしい。どこか満足げに揺れるティナリの耳を見れば、テーブルを眺めずとも勝敗は分かった。
    「……出ていく?」
    「だって、その天体観測場を作ればカーヴェはそれなりの報酬を手に入れるんだよね?」
    答えたのはセノではなくティナリだった。「俺の知ったことではない」と返せば、呆れたように見つめ返される。そもそも、カーヴェは迷惑をかけているのはアルハイゼンだけだと言ってはいるが、借金の先は他にもあるのだ。細々とした金は受け取らないと言わんばかりの態度のアルカサルザライパレスの主とどういう契約なのかアルハイゼンの知ったことではない。あろうことか彼女はアルハイゼンが突き放したカーヴェのコーヒー代を支払っているのだから意味が分からない。
    「君がどう考えているのか僕は知らないけど、言葉って案外声にしないと伝わらないものなんだよ。ねえ、セノ」
    急に話を振られ、珍しく視線の泳がせたセノが少し間を開けて小さく頷いた。断片的にしか知らないが、二人も長い付き合いらしい。きっと学生時代に色々あったであろうことは、大マハマトラの威厳とは程遠く、ぎこちない表情を浮かべるセノの姿を見れば容易に想像できた。
    「コレイも久しぶりに会いたがっていたし、カーヴェに食事の誘いでも伝えておいて。ガンダルヴァー村でも星は綺麗に見えるから君も一緒にどう?」
    今度は僕が観戦するよ、とアルハイゼンの前へとカードを寄せる。アルハイゼンがいたところで、きっとカーヴェの文句は止まることはないのだろう。いそいそと向かいでサイコロを準備するセノの姿に、アルハイゼンは小さくため息を吐くとカップを傾けて、残ったアルコールを一気に飲み干したのだった。






    アルハイゼンが仕事を定時に切り上げるのは常だった。定時の鐘を合図に執務室を出る書記官を止めるものはいない。そしてそれは、カーヴェと約束をした三日目とて変わることはなかった。
    「……君にとっての夜はまだ夕陽も沈んでいない時間なのか?」
    紙束から探し出した走り描きには、教令院からほど近い場所の地図が記されていた。小高く開けた丘は、確かに天体観測には適している。ここへ辿り着くまでにあたりを見渡したが、少し離れた場所に駄獣が数匹転がっているだけで、治安もなかなかに良好そうだ。
    アルハイゼンの姿を見るなりあんぐりと口を開けたカーヴェは、それでもすぐにいつものように騒がしくなった。信じられないと言わんばかりの様子で詰め寄った彼をアルハイゼンはじっと見つめる。
    「俺はいつも通り定時に教令院を出ただけだ。中途半端な時間を指定する君が悪い」
    「き、君ってやつは……!」
    声を上げるカーヴェの頬は、数日前よりよっぽど健康的に見える。背後には、レンガ造りの塔が一つ建てられていた。もう少し冷たく、無機質な色を予想していたアルハイゼンは、想定外のそれを塔の先までゆっくりと見上げた。目の前の建造物に圧倒されていると思ったのだろう。得意げな表情を浮かべたカーヴェはふん、と鼻を鳴らす。
    「なかなかの出来栄えだろ。でもあっと驚くのはまだ早い。君からアイデアを得たのは悔しいが、とびっきりの仕掛けはこの中にあるんだ」
    くるりとアルハイゼンへ背を向け、木製の扉をカーヴェは開く。新築特有の匂いに迎え入れられたそこは、学者からの依頼とあって本棚やデスクが並び見慣れたありふれた研究室と変わりない。
    (……とびっきりの仕掛けとは)
    展望台へと続くであろう階段が一つと、カーヴェがまっすぐに向かった先に扉がもう一つ。鼻歌まで聞こえ始めたカーヴェの様子を見るに、こちらの扉の先が本命なのだろう。
    「五歳の娘がいるらしい」
    扉を開け、カーヴェが指差す先はたくさんの色で溢れていた。先ほど見たシンプルな部屋とはあまりにもチグハグなそれに、アルハイゼンはあっけにとられた。まるで自宅のリビングのような暖かさのある部屋の真ん中には、丸いテーブルが位置している。その上に置かれた一冊の本は、アルハイゼンが先日カーヴェに手渡したものに間違いはなかった。
    「父親の仕事場を見学に来たついでに家族団欒までできるなんて最高の場所だと思わないか? 彼女は期待すべき明論派の星、――いや、この建築のロマンに気づいて妙論派の星へと成長するかもしれない」
    テーブルを囲う椅子へ腰掛けたカーヴェは、アルハイゼンの手元を指差した。「さっきからピタの匂いが気になっていたんだ」と手にした袋を見て笑う彼の目敏さに肩を竦める。ここへ来る途中購入したそれは、ほのかに温かさが残っていた。片方をカーヴェへと渡し、向かいの椅子へとアルハイゼンは腰を下ろす。どこかから取り出したのか差し出されたカップを合わせれば、いつもの食事風景と変わりない。
    「引き渡し前にこんなに自由にしていいのか。依頼人もまさか先に食卓として使われているとは思っていないはずだ」
    「散々僕を困らせたんだ。これくらい目を瞑ってくれてもいいだろ」
    そのままカーヴェはピタを豪快に齧る。腹が減っていたのか、あっという間に半分ほどが胃の中へと消える様子をアルハイゼンはじっと見つめた。
    「望遠鏡がフォンテーヌ製だと言っただろ? まさかこんなところで名前を見ることになるとは思ってなかったんだ」
    カーヴェは視線をゆっくりと持ち上げる。天井を高く見上げるその先に位置するのは間違いなく望遠鏡だ。フォンテーヌ、そして名前、と続けば皆まで言わずともカーヴェの言いたいことは理解できた。
    「いくら僕自身が故郷と連絡を絶っていたって、教令院との繋がりを考えればいつ情報が伝わるかは分からない。ようやっと出ていった息子が破産して後輩の家に転がり込んでいるなんて知られたらーー」
    「君がさっさと借金を返済したら問題はないはずだ」
    「き、君ねえ……そうやって簡単に言うけど」
    カーヴェはため息を一つ吐き出した。不貞腐れたような表情で、残りをぱくりと口の中へと放り込む。カーヴェから家族についての話を聞いたのは三度目だった。一度目は学生時代、二度目は再会した酒場、そして三度目が今この瞬間。居候を隠そうとする原因の一つはこれなのだろう。後はきっと彼なりのプライドだ。不必要なことまで人の目を気にするカーヴェの行動は、アルハイゼンにとっては無駄に精神をすり減らしているようにすら見えた。そうして疲弊しきった姿を目にしたのは一度や二度ではない。今回だって、当初の計画通りに依頼人へ突き出してしまうことだってできたはずなのだ。
    「久しぶりに名前を見たからつい意固地になっていたんだ。君から借りた本がなければ悔しいけどこうもうまく方向転換はできなかった」
    カーヴェは肩を竦める。珍しい、とアルハイゼンは思ったけれど声に出すのは止めておく。
    「表紙の擦れを見れば、君が星座に詳しかった理由も納得だ。抜け出したあの時も僕が指差す星座の名前を君が全部答えてしまうのが面白くて夢中になっていたら二人揃って風邪を引いたんだっけ?」
    「……間抜けに風邪を引いたのは君だけだ」
    「いや、君だって鼻をずびずびと鳴らしてたはずだ」
    楽しげに思い出話に耽るカーヴェは、嵌め込まれた小窓へと視線を向ける。いくらか日が沈んだとはいえ、満天の星空がくっきりと空へ広がるには、まだもう少し時間がかかるのだろう。
    「到着するなり特等席で星を見せて君をあっと言わせるはずだったのにそれだって水の泡だ。とっておきのサプライズ計画を壊すなんて、相手が僕じゃなかったら嫌われているぞ」
    「君が嫌うことはないのか?」
    「ふふん、君の傲慢で皮肉屋な性格は僕が一番理解しているしそんなものは今更だろ」
    「……随分と熱烈な告白だな」
    間髪を入れず、ごほり、と咳き込む音が目の前から響いた。げほ、ごほ、と咽せるカーヴェの頬は次第に真っ赤に染まっていく。置かれたままのカップを手元へ寄せてやれば、ひったくるように奪い取ったカーヴェがぐっと喉の奥へと流し込む。
    「こ、告白!? どこが告白に聞こえるんだ!」
    「君の言葉をよく自分で振り返ってみたらどうだ」
    滲んだ涙は生理的なものなのだろう。早口に捲し立てたカーヴェはしばらくアルハイゼンを睨みつける。ただ、その勢いも続いたのはたったの数秒。はっと何かに気づいたように息を詰め、カーヴェはそのまま何故だか黙り込んでしまった。視線を彷徨わせる様子は、何か迷っているように見える。ここできちんと口を割らせなければ、この先もずっと何も言わないような気がした。
    「――カーヴェ」
    思いのほか柔らかい音が出て、自分でも驚く。アルハイゼンはこんなにも柔らかくカーヴェのことを呼べるなんて思ってもいなかった。それはカーヴェも同じだったようで、瞳を大きく見開きながらアルハイゼンをじっと見つめた。
    「もし、……もしも仮に僕のさっきの言葉が告白だったとしたら、君はどう返事をする」
    まるで、独り言のように小さなその声は、アルハイゼンから答えを望んでいないようにも思えた。
    アルハイゼンにとって、カーヴェは底の空いたグラスのような男だった。祖母から与えられた愛情は、溢れんばかりにアルハイゼンの心を満たしてくれた。けれど、カーヴェは違った。カーヴェ自身に与えられたさまざまな感情は、惜しむことなく見ず知らずの多数へ向けて分配され溢れることはない。それは、アルハイゼンが彼に向けたものとて同じだった。
    「君が部屋へ篭りっぱなしになれば、倒れていないかは心配になる。天井をぶち抜いて星空観察を始めていないかも多少不安にはなった。……カーヴェ、ペンを持っているか?」
    「……ペン? ペンならここにあるけど、」
    「君に名前を書いて欲しいんだ」
    予想外の言葉だったのだろう。カーヴェの瞳が再び驚いた様子で丸められる。かと思えば、何かに思い当たったのかはっ、と息を飲み込むと、アルハイゼンへ差し出そうとしていたペンを両手で握りしめた。
    「き、君まさか借用書を作ろうって言うんじゃないだろうな!? 高利貸しを今更始めようなんて卑怯だぞ……!」
    「…………、その手があったか」
    「っ、わ、忘れてくれ! 今のはその、違うんだ!」
    首がちぎれんばかりの勢いでカーヴェは頭を左右へ振った。つられて振られた両手から落ちたペンを拾い上げ、アルハイゼンはテーブルへ置かれたままの本を手元へ引き寄せる。所々に挟まれた紙切れは裏紙なのか、まっすぐな線がいくつも引かれていた。
    本の扉を開き、アルハイゼンはゆっくりとペンを動かした。学生の頃とは違い、文字が右上がりになることはない。

    『平和な生活を送れますように』

    何度も指の腹でなぞった祖母の筆跡を真似るように、アルハイゼンは文字を紡ぐ。その下へ自身の名前を書き足し、カーヴェへ本を差し出した。言葉はなくとも視線で促せば、カーヴェは手に取ったペンを握りしめる。並んで記されたカーヴェの筆跡は相変わらず緊張を表すように右上がりで、アルハイゼンは口元に笑みを浮かべた。
    「カーヴェ、君へ祝福の言葉を」
    健康に、そして穏やかに。母から、そして祖母から贈られた言葉を、カーヴェに見せたことはなかった。けれども、綴った文字に込めた願いはしっかり伝わったのだろう。
    「……き、君もしかして、僕のことが結構好き、なのか?」
    家から追い出される気がまるでない。ぽつり、と呟いたカーヴェは心底信じられないといった様子でアルハイゼンを見つめた。どうしてそうも驚くのかと不本意だったが、きっと言葉が足りないのだと七聖召喚に勤しむ二人からは揃って苦言を呈されてしまうのだろう。

    「今さら気がついたのか?」

    カーヴェへと贈った言葉が、初めてグラスの底で跳ね返ったような気分だった。
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