虹の端を見ろ「これあげる」
三日ぶりに見た顔だった。
アズールは愛用ペンの走りを止め、書類から目を上げた。ゴンッと乱雑に置かれた鈍器の重みでインクが跳ねたせいであった。一雫がじゅわりと繊維に染み渡る。
「なんですそれ」
「アズールが喜びそうなやつ」
フロイドは機嫌よく脚を伸ばしきる。机の上に座るなと何度言っても聞きやしない。海底にいた頃に比べて、増えた尾びれを幾分持て余し気味なのだ。
アズールの眼前、書類の上にそびえ立ったのは壺だった。
そう大きくはなく自分の掌でもすっぽり収まるだろう。青鈍く光る鉄製で、錆はないが気品もない。使い込まれ、さらには雨露にも曝され続けたような見目。
「あげる」
フロイドがみやげを持ってくることはままあった。
錬金術の偶然であったり、頼んだ“仕事”の副産物であったり、ただ拾ってきたものだったりした。価値もまちまちで、震えるほど希少なものの時も、ゴミを押しつけられたのではと思う時もある。それをどうアズールが扱おうと(なにせ、受け取った金剛石を早々に売って資金にしたこともあった)フロイドは文句をつけることがなく、渡した時点で満足するらしい。あるいは飽きたから渡してきているのか。
厳しい海を生き抜いた癖をしてひとに分け与えることを知っている彼は、いつもしたいことだけをしている。
バンクホリデーの臨時営業に向け、先立って従業員に連休を交代で取らせた五月の第二週。三日間好き勝手しただろうフロイドは、どうやら必ずしも片割れと過ごしたのではないようだった。
「もらえるものはもらいますが……。僕が喜ぶのは今のところ、ホリデー過去最高売上かこのインク染みを消す方法くらいですね」
「それ、虹の端の壺」
「なんですって!?!?」
「うわうっさ」
本当ならばすごいことだ。稀に見る逸品だ。とんでもないことだ。
慌てて白手袋を身に着け、書類の束から下ろす。見た目よりずっと重い。ああ、擬似的な金の重さだ。興奮で指先が血に熱くなる。チクリと嫌味に突きこそしたが、紙きれ一枚は書き直せばいい。この壺ひとつで、今しがた取りかかっていた企画見込み利益以上の価値を生み出せるかもしれないのだから。
途端、周囲の空気が明るく七色に瞬くような心地だった。フロイドはそんなアズールの顔を一度だけまじまじと覗き込んでいた。
「どこで拾ったんだこんな貴重なもの!?」
「あー今朝? 部活の朝練フケてたらなんかでっかい虹が出てて、見た? 見てないの? やばかったのに。陸スゲーって久々なった」
「虹の端がこんな近いところに発生するなんて……」
「校舎の東側あたりよく行く昼寝スポットだったし」
「しかもすぐそこ……」
海上に虹は発生しない。海は水のエレメントが多すぎるためだ。なので当然はるか北の海底でなぞ見たこともなかった。……アズールも双子も、つい二年前まで、虹は人間の本に現れる架空の表現だと思っていた。
ツイステッドワンダーランドにおける虹の原理は、学んでしまうと簡単で、言ってしまえば大自然の適当だ。
雨がふると大気のエレメント量が水に傾き、四大元素のバランスが乱れる。そこに追って自然の抑止力が働いて、偏りをゆっくり正していく。ギュッと押された低反発枕がもとに戻っていくように。これら原子的拮抗はヒトの身体に影響するほどでもない。せいぜいヒト属の偏頭痛持ちが悪天候時によくよく悩まされる程度だ。エレメントの再編纂はままある循環である。
そんな魔力自動修正の一端が合成反応の末に可視化されたものが、虹という現象だ。雨が通った場所と乾いている場所の合間に現れる自然の信号。七色は四大元素が本質的な並びに戻ろうとしている過程が写ったものとされている。
――ああ、それでも確かに。初めて目の当たりにした瞬間は胸が震えたものだった。
偶然が生み出す光景は長年思い描いていた通り幻想的であった。あのジェイドですらも、黙ってフロイドの手を握っていたのだから。陸を通して見た世界の別側面は何度でも自分たちを刺激し、揺り動かす。
そして、時には憧れがこんなにも近くで見つかることもあるのだ。
「初めて見た時は追っかけても追っかけても捕まんなかったのに。なんかひょーしぬけ」
「今朝お前が見つけたのは“黄抜け”だったんでしょう、まさか知りもせず追いかけたんですか?」
「暇だったし」
「その調子で普段から軽率に出ていかれる身にもなってほしいものですが。……そもそも虹とは別物ですよ」
「わかってるけどぉ」
なにより、虹には夢がある。
本来は円状であるだとか、触れることはできないだとか、太陽の方向を向いて発生するだとか。夢幻の存在の中で、人々に広く噂されるひとつのロマンが存在していた。
ただの自然現象である虹とは別の、“黄抜け”の虹。
それは妖精が作り出す擬態の虹である。そして、その虹には確かな“端がある”のだ。
ツイステッドワンダーランドの、特に輝石の国や茨の谷などでメジャーな俗信――『虹の端には金の壺が埋まっている』
「オレ、金がほしくて追っかけたわけじゃねーから」
「ええ。まったく、お前のそういうところを僕はなかなか信頼してますよ」
幼子らの可愛らしい戯れ言と長く思われていた噂は、近年になって根拠あるものだと改めて注目されていた。魔法・科学・文化が熟成した現代は、眉唾ものや未到達を再検証する時代になっていた。実際金貨を持って帰ってきた事例も数件報告があり、ロイヤルソードアカデミーでは学術論文も書かれている。
端までたどり着くことができる――形あるその虹は、一般的な認識とは異なる現象であり、“妖精が織りなす幻覚魔術”であった。
まず『レプラコーン』と呼ばれる小人妖精が金をせっせと溜め込み、壺へ壺へと集める。現代で言えば“金”とはおおよそ金貨だろう。人間が扱う貨幣は妖精界で等しく価値あるものではないが、妖精族とは得てしてそういうものだ。良くも悪くも伝承に縛られる存在。独自の価値観をもって、なんてことのないひとつのもの事に固執する――金や種、角砂糖、人の心などに。
さて、その隠し場所は世界各地に及ぶため、レプラコーンは目印として虹に擬態させた色魔法を残すらしい。
彼らは壺を埋める時と掘り出す時にだけ煌々と道筋を瞬かせる。目印を自然現象に紛れさせることで盗難を防ごうとしているのだろうとも言われていた。しかし、聞いての通り守銭奴な妖精であまりにもケチなために、作り出す擬態虹にも黄色の色素が存在しないのだ。
ここからレプラコーンがかける虹は“黄抜け”と称されることとなった。
レプラコーンは用心深いがそれは臆病の裏返しであるため、人間と馴れ合うことはない。どうにか出会うことができさえすれば“口止め料”として貯め込んだ宝を分け与えてくるらしい。長くそうして身を(あるいは金を)守ってきたのかもしれない。
間抜けな虹を追いかけたら黄金にありつけるのだから、人々が話題にして探しまわるのも頷ける。おかげで、最近ではどこかに虹がかかるたびSNSトレンドにも上がるほどだ。それら多くはごく普通の虹でしかなかったが。
金にまつわる話題性であると思えば、ある意味ではすっかり夢のない話になったとも言えよう。
人間が発達するほど、神秘は薄れていく。レプラコーン含め妖精の一部を見かけることができなくなる日も近いのかもしれない。
その点、やはりフロイドはなんと言えばいいのか、“得意”なタチであった。ミステリードリンクの権利を買い叩いてきたように、巡りあわせに乗ることに長けている。そこに大きな意味を見出すこともなく、かと言って見逃すほど愚鈍でもない。ジェイドはきっとフロイドのそういうところを好んでいるのだろう。
「初めて下から虹見たけど故郷のオーロラとは全然ちがったぁ」
「虹の端っこってどうでした? 記録か写真なんかは?」
「ねーけど。アハ、その顔おもしろ。……虹って地面からニョキって生えてんのかなって思ってたのに、一面霧みたいなのでよくわかんねーの。妖精の鱗粉で眩しかったりしてウザくてさ。でも一歩外に出るといきなり虹がまた出るからああここが端なんだなーって」
「光魔法というよりやはり幻術の類のようにも思えますね……興味深いな」
「それそれ、そんな感じ。あれオレらとか獣人みたいなのじゃねーと気づけないかも。そんでねー」
フロイドが指折り記憶を並べていく。脚がまた揺れ始めて、デスク越しに重音の衝撃が伝わってくる。
初体験のコミュニティ共有は生存において重要な本能だが、今日ばかりはそういった無粋な会話ではない気がした。休日の冒険は純粋にも久しぶりに彼が楽しいと思える時間だったようだ。ここまで饒舌な日も珍しい。『フロイドが楽しそうでなによりです』なんて幻聴まで聞こえるような心地がした。
随分と気分が乗っているようだし、資料作成はいい加減詰まっていた。気分転換も悪くはない。紅茶でも淹れようか。季節柄マスカットフレーバーのダージリンを仕入れていた。
……しかし壺から目を離すのが少しばかり恐ろしく――ああ、脚が八本揃っていれば苦労しないと何度思ったことか!――結局アズールはマジカルペンを振った。ティーカップやキャニスターがひとりでに持ち上がり、茶会の準備を始める。紅茶を趣味のひとつとするジェイドはこだわりがあるのかあまりいい顔をしない、やや不精な手法だった。
フロイドは紅茶の香りに顔を上げると、勝手に棚の缶からアップルジャムクッキーを用意していた。目ざといウツボだ。念のため今日の摂取カロリーを計算しなおす。
「レプラコーンってボールみたいな小人なのにひげもじゃもじゃでぶっとい声で喋るから頭バグるかと思った〜。人間の稚魚初めて見た時もびっくりしたけど、あれよりちっせーの」
熱を持ったカップにフロイドがちまちま口を寄せる。兄弟が淹れるものより風味が劣るだろうになにも言わなかった。特に気遣いなどではなく“言う必要がないから言わない”だけのそれだが、アズールは彼のそういうところを気に入っていたし良く感じていた。
アップルジャムクッキーは結局三枚まで今日の自分に許すことにした。
――虹の端、すっかり“ひょーしぬけ”したフロイドはここでやっと虹の壺の噂を思い出していた。
関心そのものは虹にあった、たどり着いたのは偶然に過ぎない。東校舎のはずれ、針葉樹林の樹液臭がツンと鼻に刺さるのは得意ではないし。久々パルクールの全力追いかけっこができてお腹もすいてきた。
しかし、金の壺がいらないかと問われればそういう話でもない。貰えるものはとりあえず手に入れておけ。フロイドもまたオクタヴィネルの寮生であった。そうであるから次々陸の“たのしいこと”を発掘できていたし、溜め込んだ自室があれほど乱れるのだともまた言えた。
改めて意識し探せば、噂は存外あっさり見つかった。
妖精は隠れるのが上手いと聞くがそれは幾分ずんぐりむっくりしていたそうだ。
霧に紛れるように蹲っていたレプラコーンは、どうにも壺の中身をこせこせと確認していたらしい(フロイドはその姿を見て契約書を数えるアズールを思い出したとのことだがゆったり黙殺した)。植物の葉でできた緑の服、豊かなひげ、ふくよかな体型と、背丈は50㎝に満たずとも出会ったのはかなりの壮年のレプラコーンだった。両の目ばかりが若い木の実のように瑞々しかった。
初めて出会う別種族、少なからず突かれた好奇心。そのままノーモーションで小人の首根っこを掴み、襟を枝にかけた。
フロイドからしてみれば単に見下ろすとこちらの首が痛い故であったが、彼はとにかくびっくりしたことだろう。短い手足がばたばたと暴れ、やがてすぐに諦めると――あるいはフロイドの“慣れた”仕草に早々に察しがついたのかもしれない、噂通りに金の譲渡をしぶしぶ持ち掛けてきたという。
「んで壺ごともらってきた」
「なんて現金な」
「すぐ欲しいもんあったし。てかアズールが言う?」
「褒めているんですよ。よくやりました。現時点ではその中身がない点は気になりますが」
「だから〜! すぐ! 欲しいもんあったんだってば。使っちゃった」
あっけらかんとのたまう191cmに、アズールはふぅとカップの熱気を吹いた。まあそんなことだろうと思ったが。血が集まった指先と陶器の温度が均一になっていく。
壺の中身が空なことなんてもちろん最初に確認していた。
「ほしかった靴があってぇ」
「この間買ってませんでした? デザイン的な靴先のレースアップ」
「買った。それ買ったから秋の新作買う分なくなった」
「ああ、なるほど」
「だから臨時収入! ってすぐ買いに行ったわけ。もうウキウキで。でもさー……オレのサイズだけもう売り切れてんの……。取扱いあの店舗にしかねーブランドじゃん、なんか最後の一点がタッチの差だったらしくて萎えた」
「……需要からしてそう数があるサイズではないんでしょう、惜しかったですね」
「ん、から色違いのモデル買ってきた! オレたぶんこれ履かねーけど。アハ。ジェイドなら似合いそー!」
秋の新作はどれほどの品だったのか。少なくともずっとフロイドが欲しがっていた一足よりは控えめな価格だろう。
……壺の中身は、噂ほどロマンが詰まってはいなかったのかもしれない。
述べるならば、錬金術は比較的新しい技法だ。百と数十年前、資源の奪い合いすなわち戦争が終わり、各国は安定した国内生産体制を整えた。錬金術もそのひとつであり、一定水準のレシピの考案と同時に金の価値は大きく下がった。もう金山に潜る者はほとんどいない。貨幣もいまや純度の高い金貨が広く用いられている。
つまり、現代では金塊より宝石の方がよほど価値高く見られていた。
フロイドが靴を一足買って使い果たす程度の――考えてみればこの大きさだ、金庫ほどの大容量にはとても見えない――金の壺である。中身すべてを積んでも大きい額にはならないだろう。
価値が暴落しようと“金を集める”行為そのものに執心する、やはりどこまでも妖精の営みだった。長くを生きるレプラコーンにはきっと桁の違うコインすら見分けがついていないにちがいない。昔からの生き方をずっと繰り返しているだけなのだ。美しいものを集めて仕舞っておきたまに取り出しまた仕舞う。
それはなんて質素な暮らしだろう。
一攫千金を夢見る人々が、やがて小さな落胆を経て、話題から離れていく日もそう遠くないように思えてならなかった。希少な壺そのものをどう値をつけどのように取り扱うかに心躍らせているアズールには、都合の良い話であったが。一般人のウケが薄れる? 結構。こういった品はマニアほどウケが良い。
手元に確かな事蹟がある限り、アズールは余裕の笑みで話を促す。資金の余裕は思考の余幅。この好循環が良き商人への一歩であった。
……噂の壺の中にどんなコインが詰まっていたのか、収集家として気にならないわけではなかったが。そんなことはどうでも良い話だった。
逆を言うならば、ガワにどれほど価値があろうと自分にはもう不要なので、フロイドは壺を“みやげ”としたのだ。
たまたま少しの金が欲しかったのであって。大きい買い物をした直後でもなければそれすら『いらなーい、持って帰んの重いもん』と捨てた可能性もある(アズールに話をしていないだけで、フロイドが気まぐれに手放してきた利益はまあ過去に山ほどあるのだろう)。少なくとも今回ばかりはこちらに気分が傾いてくれて本当によかった。
アズールにとってフロイドの“おみやげ”と名がつくものは、渡すことそのものが目的のフランク具合で気が楽だ。可も不可もない紅茶を彼が黙って飲むのと似たような気軽さに思えた。だからアズールも対価を想定せず受け取ることができた。
そして一方で。今日フロイドが抱えているリボンの飾られた靴化粧箱は、少しばかりそれより“重みのある”ものらしい。
時折あの兄弟にも“おみやげ”を渡していると知ってはいたが、そうか、こんな顔をしていたのか。可愛らしいところもある。好みを知り尽くした相手にふさわしいなにかを選ぶ行為はさぞたのしいだろう。
結局目当てが手に入らなかったというのにそう気分が沈んでいるようでもない。ジェイドと靴の良い相性をゆったり言葉並べているフロイド。やわい目元と口角。まだ揺れている新品の靴先。
まったく、物欲があるのやらないのやら。アズールがすべきことと言えば、贈る一言の謝恩と紅茶のお代わり程度であった。
……