結構毛だらけ犬灰だらけ「仔犬ども!」
Mr.クルーウェルはなにをおいてもまずその一言から指揮を執る。
しなる鞭の破裂音。
教壇を踏み鳴らした高圧的な靴。
制服がのろのろわらわら、一斉に席に着き始める地響き。
至極真面目な最前層と、可能な限り後ろにいたい――そしてあわよくばバレず寝たい、そんな偉業はまず無理だが――層があるものだから不思議と中間あたりに隙間ができる。
少し目立って、無難でソツないながらにやや当てられやすく、教師の印象に残る席。
そんな空間の隣にアズールは滑り込んだ。すると、既に座っていたバイパーが無口に半身ほど隙間を空けたので、人魚はより嫌に笑んだ。バイパーはいつでも先んじて、集団のなかで絶妙なバランスを見定めるのが上手かった。アズールは彼のそういったところを気に入っていたし、活用できればとも思っていたし、こうして隙あらばあやかろうともしていた。そしてバイパーはアズールのことを毛嫌いしていた(つまりかの行為もなにもどれ席を作ってやろうなどという気遣いではなく、まぁそのような意味である)。
うちの双子が両脇にいる時は大方前後左右にだれも座らないものだから、とにかく不自然極まりない。人知れず魔法障壁張っているの如き光景ができあがる。 海でも陸でも、小魚達が畏れ厭うのがウツボというものか。
常に一緒であるはずがないと事触れながら、リーチ兄弟は大体がかたまりで、やっぱりどこかおかしかった。
かなり短くなったとはいえジェイドは自身の図体のでかさを理解していて、授業で後ろの席に座ったりしているようだけれど。フロイドと一緒となると途端立ち振舞をひっくり返し好き勝手し始める。フロイドだって言わずもがなで、オレここ〜なんてテキトーに選んだ中列に座る。当然のように190cmがその横に並び、さらにあわよくば間にアズールを挟める。こうして突如として教室に壁は出現するのだ。進級してから双子のクラスを離した教師陣は流石というか英断だった。
2m弱の壁に囲まれていたときは、中段は元来教室の隙間なのだなんて知らなかった。暴れ倒して――ようは恥を晒して以降バイパーがちゃっかり実力をチラつかせるようになったのと同様に、アズールはひとり最前を陣取らない余裕が芽生えていた。
ここに座るとまた違った視点を得られた。新しい取引相手の判断材料そのものでもある。聞こえないと思っている後列の噂話、書き留められた前列ノート端のアイデア、バイパーのメモの取り方、どこに座ろうと本質を見透かす教師の目。
「よし、行儀よくおすわりしているな。始めるぞ」
クルーウェルの講義は実に明瞭簡潔であり、同時に趣味嗜好に偏ってもいる。まず議題を取り上げ、参考文献を配り、板書は控えめ。鞭は押せ押せ。ほかは明晰な頭脳に基づいた口頭での説法。脱線と修正。基礎を叩き込んだ後には、移動が面倒だと講話も座学も実技もまとめて魔法薬学室で済ませてしまうことすらある。
足並みの揃わない生徒に厳しいが、好んでついてくる生徒にはなんと言おうかより激しい。カレッジ二年も半ばを過ぎると皆、選択式専門分野を探り始める。それでいて現講義は毎期早期受付抽選方式、つまり紛うことなき人気枠であった。クルーウェルに腹を見せていれば、当てられ手を挙げの積み重ねとちょっとの贔屓を頂戴できるのだ。打てば響くとはこのことで、アズールの知識欲を大いに満腹にさせてくれた。
とにもかくにも男は、講義の頭から尻尾まで喋り倒すタイプの魔法士であった。
「資料のモンスターは約340年前のものと推定される写本の挿絵だ。見返口絵など美麗な装丁に反し比較的安価だったが、手に取りやすさは同時に大衆への浸透にも繋がる。爆発的人気と同時に密猟の気が高まったわけだ。いまや輝石の国を中心に保護認定された要因の一端でもあるな」
「先生〜」
「なんだ」
「一枚足りないでーす」
「もっと早く言え駄犬。……裏面だが、今日のメインが描かれている。こちらは炭のみながらもぼかしを使うことで立体に仕上げる手法だ。グレーの濃淡で表現される陰影は美しくも繊細、神秘的だろう。毛皮のうねりまでわかる。素晴らしい」
「先生ってグレーもイイねとか思うんだ」
「俺をなんだと思ってる」
後列の戯れをよそに、ぺらり次のテキストを捲る。この数々の資料のうち、一体いくつがクルーウェルの個人蔵出典なのだろう。
毛皮の流行。ファッション界での人気と錬金資源としての価値。モンスター皮の丁寧ななめし作業。耐久性、耐熱性、柔軟性。意識ある段階で皮を剥ごうとすれば暴れて素体が傷む、昔日いくつも考案された眠り薬。残酷で美しい魔法。
時折オエ〜なんて生徒のふざけたえずきが混ざる。何を今更、鼻で笑いたくもなった。人魚が密猟されていた時代だってそう遠いことでもないというのに。
自然と教壇の白黒の毛皮に視線が集まる。クルーウェルはただ滔々と語るのみで。知識を下地にした補足がモノクロプリント一枚の視覚情報に色を付けていく。アズールは充足に胸躍る心地だった。
海の本は――あるいは小ぶりの壺の中は――あまりに誤りも限界もありすぎたのだ。陸の価値あるものについてはいくら学んでも無駄ということがない。いついかなる時、ビジネスチャンスを逃さないためにも。
「――さて。仔犬ども! 見ておけよ」
クルーウェルは鞭(ステッキ)を一振り、ガラスケース――ちなみにこれそのものは彼がいとも容易そうに教壇まで脇に抱えてきた、どうにもこの講師にはそういうところがあった――の中からやわらかな獣が宙に浮く。講師は魔法士であり、ファッション狂いであり、エンターテイナーでもあった。
まるで生きて今そこにいるかのように錯覚するそれは、だが確かに血肉に欠けている。得も言われぬ毛皮の魅せ方であった。
「東の国の“KASHA”という獣の毛皮だ。火の車で火車。人間を含めた死体を好んで奪うモンスターで、屍食肉目疑似ネコ科に分類される」
ほぅ、息も転がる麗しさ。アズールは直感からして指が痺れるほどで、さぞ貴重なものなのだろう。価値も価格も、それはもう底抜けに。
毛皮は風魔法に乗り、生徒の頭ひとつ上をスルスルと翔けてみせる。赤橙から白にうねる光沢と黒っぽい煤の毛端。プリントの水墨画は確かに特徴を捉えていて、なお実物はより華艶があった。そこに誰も手を伸ばしはしなかった。触れがたい美があったからであり、クルーウェルの怒号を畏れてでもあった。
「稀有なものだ、今後二度と目にかかれないと思って網膜に焼きつけておけ。手脂はつけるなよ」
「教材なのに触れられないンすか?」
「ふわふわ〜もふりたい」
「当たり前だろう。貴様らのスナックやら小銭やらあらぬところやらをギニギニ触れたままの指で接してみろ。ちり紙ほどの価値もなくなる」
鼻を鳴らす講師の姿は様になっていてこそ顰蹙を集める。
生徒らが初見で教材に触れようとするはずがないことを知っていて――またそう躾けたのが他ならない彼であったからこそ――意地の悪い言いようであった。そしてこの年頃の男児は皆禁じられるという行為に過敏であった。
年近い男の、振り回して来る理不尽と犬をもみくちゃにするような意地悪は、ある種の気安さすら生む。結局のところ男を倦んで思う者はここにはいないだろう。知識成績に貪欲な前列はもちろん、頭の軽い後列の野次だって、たぶんきっとそうなのだ。
「忠告ついでに先に言っておくが、トレイン先生にはこの講義内容は伏せておけよ。またお言葉を頂戴するハメになる」
「借り物じゃないんかい」
「ほらやっぱり」
「高かったんでしょ〜。教材とは」
「なんで思い切っちゃったのさ」
「やかましい、これも正当に割り当てられた経費のうちだ」
「てか異獣文化あと教本3ページで終わりますよね?」
「第2錬金準備室画廊コレクション入り間違いなしなやつ」
「蒐集家も大概にしないとNRCそのうち美術館になっちゃいますって」
「フン。なに気にするな。これはあとで俺のコートに仕立てる」
Booooo!
品のない囃しに薬品棚のガラスがかすかに揺れる。クルーウェルの表情は振れることなく、横顔の造形美がツンと立っていた。
ああやはり上手い! アズールは手を叩きたい気分だった。この空間ほぼすべてがコントロールされている。躾を施しながら程度よく歯向かうことを許す。クルーウェルはあえてそういった余地で遊ばせている節すら感じられた。
講義に加えて人心掌握術をこんなに身近に観察できるなんて。
なんて、なんてお得なんだ!
もうなにを学んでいるのやら、ジェイドであれば嫌味に笑っただろうしフロイドならばつまらなさに鼻を鳴らしただろう。
「元気が良いなまったく。……冗談だ。俺の好みは猫より犬だ」
ハンズアップした大仰な仕草がそのまま板書へ移り、講義を軌道修正していく。メリハリのつきすぎた講話は白黒くっきりした男のそのものようだった。
公私混同、珍品名品堂々と経費で落としていながら批難されることもなく。学生という期間限定の飼い犬に手を噛まれるとすら思っていない。とんだ溺愛ぶりじゃないか。犬好きとはよく言う。
それでいて、横暴だぁ〜〜! なんて言えば鞭で叩かれるのでそれなりに横暴でもあった。
……