12/8のQA見た?私は見た「よーすけ、ちょっと」
--驚いた。
台所から聞こえてくる食器の擦れる音。弄っていた端末をテーブルに置き、スリッパをつっかけつつそちらに向かう。洗剤香りと蒸気が混じった空気がくすぐったい。
「……呼んだ?」
「呼んだ呼んだ」
振り返った出水は普段通りの澄まし顔だった。狼狽えているのは米屋だけらしい。皿洗いをしている出水はすっかり見慣れた姿だった。料理が米屋で、後片付けは出水。生活と水のあるがままの流れ。
ツンと出水の顎が手元を指す。
「なんかさ、捲ってた袖落っこちてきたから上げてくんね?」
なんてことのないお願いだ。泡まみれの指がずり落ちたシャツの袖を示す。米屋より寒がりな出水は、既に長袖を着用し始める季節になっていた。
袖は既にちょっと手遅れだったらしい。グレーの生地は端の部分だけであるが、水を吸って濃い色になっていた。それを肘あたりまで上げてから、二回折り返してやる。鳥肌立っている色素の薄い肌に、思わず吹き出しそうになった。今日はそんなに寒くもないだろう、勿論口に出したりしない。同じように反対側も袖を捲り、ついでに給湯器の設定温度を少しだけ上げた。
「よっと、これでおっけ?」
「おー、さんきゅ槍バカ」
槍バカ。いつもの呼び名だ。弾バカ呼びを出水は否定するが、米屋は案外それを気に入っていた。
「?どしたよ」
「いやー、なんつーか……とりあえず拭くの手伝う」
「なんだそれ」
まあ、手伝ってくれるのはありがたいけど。
よっぽど腑抜けた表情だったのだろう。愉快そうに笑う出水へ手を出すと、ほいっと平皿を渡された。真っ白な布巾でそれの水分を吸い取っていく。この皿は何に使ったんだったか。昨夜のホッケ開きの皿だったけ。綺麗に拭ったら、そのまま食器籠の中に放り込む。ガシャンと音を立てた皿に、出水はちょっとだけ眉を顰めたようだった。
「なー」
「なんだよ。つーか、皿もっと大事に扱えよな」
「なーって」
「だからなんだって」
左隣から流れてくるサラダボウル。これは今朝レタスをちぎっただけサラダに使ったやつ。サラダといえば。出水が好きなシーザードレッシングがそろそろ切れることを思い出し、脳内にメモを取った。そのメモが果たしていつまで残るかは米屋自身にも謎であるが。そう深くは考えなくていいだろう。米屋という人間はいつもそうであったし、今もこれからもそれでいいと思っていた。
「出水クン、ちょっとオレのこと呼んでみ」
「はァ?」
「いーからいーから!」
「え、普通にやだわ。なんで」
「ヤダっておい。減るモンじゃないし、ほら」
「槍バカ」
「槍バカはオレの名前じゃねーぞ弾バカ」
「弾バカ言うなって。訳わかんねー米屋クン」
「ありゃ?」
「さっきからなんなんだよ、おまえ!」
出水は、結構気が短い。
米屋が甘やかしたせいでもある。
「おまえさー、さっきオレのこと陽介って言ったの気づいてる?」
「は?」
「よーすけー、って」
「んなアホな」
「いやマジマジ」
マグを濯いでいた出水の手が止まる。ザーー。湯が意味なく流れていくのを、環境に悪いかなと思いながら横目で見ていた。マグがお湯を過多に浴びて、泡がだらだらと落ちていく。
出水はと言えば、こちらを凝視したままパチリ、パチリと二回大きく瞬きした。ゆっくりとした動作がなんとなく可愛いなと思えてしまう。
「……マジ?」
「うん」
「うわーマジかー……」
彼なりにショックだったようで、がっくりと項垂れていた。
すっかり泡の落ちたマグを受け取る。
「おまえさー、もしかしなくてもオレのこと名前で呼ぶの避けてたよな」
「あー……やっぱりわかってた?」
「まぁなんとなく?さすがにな」
この際だ、聞いてしまおう。ずっと気になってはいたのだ。
(中略)
「おう、アレするとおまえ余裕なくなるから楽しいんだわ」
「そっかー」
そっかー。意味もなく二回繰り返してしまった。
しかし、今のが出水の照れ隠しであることもわかっている。なんでもない様を振舞っているが、頑なに視線から上げようとしない。
「なんつーかさ」
「うん」
「下の名前で呼ぶのってコイビトですーって感じするじゃん」
「えっ、オレ秀次達とか名前呼びなんだけど。三輪隊って……!?」
「バカ言ってんな馬鹿」
肩で容赦なくど突かれて、思わず吹き出す。見れば出水も笑っていて。恋人は自分だろとでもいうかのような無意識の自信ある表情がなによりも可愛く思えた。
両手が塞がっていたので、その鼻頭に噛みついた。あぐあぐと甘噛みしてやれば、擽ったげにますます身体を揺らして笑うものだからどうにも楽しくなってくる。
「これでも良いカレシのつもりなんですけど」
「まぁ確かに。友達?友達でいいのか?要はそのへんの枠から外れる感じがなんて言うか--……あー、ちょっと待って。こっちの方がはずいかも」
おれ何言ってんだ、つーか何の話だっけ。
さっきの話題ではなんでもない顔をしていたのに、こちらでは照れるらしい。
米出と出水の健全な付き合いは、長くもないが割り切るほど短くもない。高校生という潔く去った3年間は厄介に燦いて、良くも悪くも強く二人の間に残っていた。
米屋にも、なんとなくわかる。親友と呼ぶには照れくさく、同僚よりはずっと近いけれど、ライバルにしては切磋琢磨という訳でもない。自分たちは別に意識して競い合ったのではなく、ただひたすらに楽しかっただけだった。ランク戦になれば互いに別隊、切磋琢磨はチームメイトとしていればいいしそうすべきだ。何戦もしたことで強くなってもそれは結果論で、自分たちにはラッキーな儲けものくらいでしかない。二人の模擬戦は悦楽を求めたくらい邪まで、純度の高いものだった。
だから米屋だってずっと今まで出水のことを出水としか呼んでなかった。だって、伝えたいことはなんとなくわかるのだ。
「でもおれ呼んでたんだろ」
「すっげー自然だったから正直ビビった」
「んじゃ、もういっかな」
「へっ?」
「だめかよ」
「だめじゃないけど。えーそんなモン?」
「や、おまえが嫌なら別にしないけど」
「ぶっ、なんだそれ!だめじゃないって!はーっ気味悪ィの!おまえ今更オレのこと伺うようなたまじゃねーだろ」
「弾バカだけに?」
「やめろって!」
弾バカって言うんじゃねーよ。自分で言ったんじゃん。あーあ、理不尽!
「おまえそれ好きなー」
「うっせーよ、それこそ好きにしとけって話だろ」